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 そんなぼくがあの人と出会い、秘密基地を手に入れたのは、小学校三年生の秋。

 その日、学校から帰るとテーブルの上に書き置きがあった。線の細い綺麗な母さんの文字で書かれた、ぜんぜん綺麗ではないメッセージ。

『名古屋のおばあちゃんの家に行ってきます』

 僕の記憶だと、それで母さんが突然おばあちゃんの家に行くのは、一年生の時の初回も含めて通算四回目だったと思う。二回目からはぼくは連れて行かれなくなった。学校を休ませてはいけないとおばあちゃんに叱られたのだろうと、僕は予想している。

 ぼくもその頃には手慣れたものだ。家の電話を使って父さんの携帯に電話をかけ、母さんがおばあちゃんの家に行ったことを連絡する。父さんはうんざりした声で「分かった」と答え、それからぼくに告げる。

「父さん、今日も帰れないんだ。どうする?」

 今日はではなく、今日も。質問の意味は多分、父さんの実家に行くか、自宅にいるか、どっちにするかということ。ぼくは、迷うことなく答える。

「家でお留守番する」

「そうか。じゃあ、よろしくな」

「うん。じゃあね」

 携帯はお金がかかるのですぐに切った。そしてぼくは、母さんの気が済んで帰って来るまでだいたい二日ぐらいの自由を手に入れる。

 ぼくはもう、父さんが「帰れない」のではなく「帰らない」ことを知っていた。三年生になってから、母さんが喧嘩で「あの女」と叫ぶようになったのも聞いていた。だけどぼくは首を突っ込まない。ぼくが口を出して、どうにかなる話じゃない。

 父さんの実家に行かない理由は、単純に嫌いだから。二回目の母さんの家出の時に預けられて、母さんの悪口を言われ続けたのが効いていた。父さんが家に帰らないことが、父さんの方のおじいちゃんやおばあちゃんに言わせると、母さんのせいになってしまうのもイヤだった。帰りたくなるような家を作りなさいよ。いつかそう言われた母さんは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 電話を切ったぼくは、静かなリビングでいつものようにゲームをはじめる。別に父さんや母さんがいなくてもやることは変わらない。夕ご飯の時間になってゲームを止められないのと、その夕ご飯を冷蔵庫の一番下から冷凍食品を取り出して、自分で作らなくてはならないだけ。

 だけどその日は違った。ゲームボーイの電池が切れてしまったのだ。単三電池を四本も使っているくせに、ゲームボーイは簡単に電池切れになった。冷やすと復活するという裏技もあったはずだ。大して復活しないけれど。

 ぼくは家中を漁って電池を探した。だけど見つからない。ちょうど替えの電池も使い切ってしまっていたようだ。しょうがない。まだ外は明るいし、買いに行こう。電池は高いから痛い出費だけど、背に腹は代えられない。

 ウェストポーチにマジックテープの財布を入れて外に出る。玄関の鍵を閉め、駆け足で近くのコンビニに向かう。夏が過ぎてちょっと寒くなったけれど、まだまだ半袖半ズボンで行ける。

 コンビニで電池を買って外に出ると、あたりは薄暗くなっていた。ふとコンビニ前の道路の向こう側を見ると、小学校の上級生らしき男の子が二人、並んで歩いていた。そして分かれ道で「じゃあまたなー」と、片方が片方に手を振って別れる。

 それを見てぼくは、ちょっと寄り道がしたくなった。

 父さんも母さんもいない今、ぼくはどこにだって行けるし何だって出来る。みんなは暗くなって来たから帰らなくちゃいけないけれど、ぼくは逆に今から遊びに行くことが出来るのだ。このままゲームだけで一日を過ごすのもったいない。

 どこに行こうか。どうせなら探検のしがいがある場所がいい。普通の公園や原っぱではつまらない。そうだ――

 マムシの森に行こう。

 毒蛇のマムシが出ると言う噂があるからマムシの森と呼ばれている広い雑木林。ぼくはそこに行くことに決めた。

 都市計画に乗り遅れて残ってしまったその雑木林は、ぼくたち小学生の間では「近寄ってはいけない」と言われている場所だった。とても広くて鬱蒼としており、何が起こるか分からない雰囲気があったから、そういう場所を大人が禁止にしたくなる気持ちは僕にも分かる。だけどやっぱり、行くなと言われたら行きたくなってしまうのが、子どもという生き物だ。

 マムシの森は、森と呼ばれてはいたけれど小高い丘のようになっていた。森を抜ける広い砂利道が一本通っていて、そこから土の細道が何本か森の中に続いているという構造。茂っていた樹木の種類は分からないけれど、秋はどんぐりが落ちていたから、たぶん樫が多かったと思う。

 マムシの森に着いたぼくは、迷わず砂利道に足を踏み入れた。スニーカーが軽石を蹴る音が気持ち良くて、わざと大きく音を立てて歩く。そしてしばらく歩き、「ここは怪しい香りがするぞ」と思う細道を見つけ、その奥に足を踏み入れた。

 そこで秘密基地が手に入ったのだから、我ながら凄い勘だと思う。


     ◆


 丘を登るように土の細道を歩いていると、ぽっかりと開けた場所に出た。

 広い原っぱのようになっているその奥に、民家があった。屋根も壁も茶色い木材で出来た一階建ての平屋。光を建物の中に取り込むための窓がほとんどないから、家というよりは大きな物置に見える。窓の代わりに縁側らしきものがあるけれど、今は厚そうな木製の雨戸で閉じられている。

 ぼくは興奮した。森を探検していたら謎の民家が目の前に現れたのだ。興奮しないわけがない。ぼくは足早に民家に近寄り、まずは入口を探した。

 木枠にすりガラスが嵌められた玄関の扉に近寄る。そして扉に右耳をつけて感覚を研ぎ澄ます。中に人がいる気配はしない。もしかして、誰も住んでいないのかな。住んでなさそうだもんな。

 ――確かめたい。

 夕方の森が放つ退廃的な雰囲気から受ける、世界に生き物が自分しか存在していないような感覚が、ぼくを大胆にしていた。ぼくは扉をガタガタと揺らし、ダッシュでその場を離れる。アナログ式ピンポンダッシュ。しかし中から人は出てこない。これはもうとりあえず今は、中に誰もいない。確定だ。

 となると次は、中に入れるかどうかが気になる。

 ぼくは再び玄関に行き、扉に手をかけた。さすがに開きはしないだろうと思って手に力を込める。すると扉は、ガラガラ音を立ててあっさり開いた。

 ――開いちゃった。

 おそるおそる中を覗く。屋内は真っ暗で、外と比べてかなり不気味に見える。じっと目を凝らすと、暗闇の中に広い畳の部屋と、それをL字型に囲む廊下が確認できた。

 畳の部屋はふすまを使って、廊下と部屋を仕切ったり、部屋そのものを二つに分けることが出来るようだ。だけど今は、全部のふすまが端に寄せられて開いている。家具は一切置いていない。足元を見るとコンクリートの靴置場があるけれど、そこに靴は一つも置かれてない。どうやらこの家、本当に誰も住んでいない空き家らしい。

 ここで、ぼくの興奮は最高潮。森の奥で誰も住んでいない空き家を発見して、その中にこっそり忍び込む。とんでもない大冒険。

 靴置場でスニーカーを脱ぎ、廊下に上がる。足音を立てないようにひっそり歩いても床がギシギシと軋む。かなり年季の入った建物のようだ。でも全体的にさっぱりしていて綺麗だから、長い間放置されていた感じはあまりしない。人が住まなくなったのがつい最近なのか、単に手入れをされているのか、それは分からない。

 畳の上に上がる。照明のスイッチを見つけて、つけてみるけれど、灯りはつかない。でも一瞬、バチッっと光った。電気はまだ来ている。電球が切れているのだ。

 畳の広間は長方形。廊下に囲まれているのは玄関と縁側がある側の二辺。廊下で囲まれていない方の短辺は物置で、長辺にはドアノブのついた扉が二つある。

 畳に上がって手前の扉を開けてみると、細長いコンクリート床の部屋。水洗い場があるから、たぶんキッチン。奥の扉も同じ部屋に繋がっているようだ。

 キッチンには家の裏口があった。とりあえずそれは開けないで畳の部屋に戻る。廊下の奥も気になるけれど、奥に行けば行くほど玄関からの光が弱くなるので、ちょっと怖い。たぶんお風呂とかトイレが、あの先にあると思うんだけど。

 とりあえず、畳の上に大の字になってみる。家のフローリング床よりも柔らかくて気持ちがいい。こんな広い家を一人占めにして我が物顔。最高の気分だ。

 なんだか眠くなって来た。寝ちゃおうかな。いや、さすがにそれはだめ。ぼくは葛藤する。だけど身体は横になったまま動かさないから、どんどん、眠る肉体に引きずられて、意識もとろけ出していく。

 そして曖昧になった意識の中に、しわがれた男の声がキンと響く。

「なにをしている」

 それが僕の記憶の中にある、あの人の第一声。


     ◆


 どろどろになりかけていた輪郭が一気に濃くなる。ぼくは跳ね起きて、声が聞こえた玄関の方を向いた。

 ぼさぼさの白髪でいかつい顔をした老人が、眩しいものをみるように眉間に皺を寄せている。でも光は老人の背中からしか来ていないのだから、眩しいわけはない。あれは間違いなく、怒っている顔。

 さあっと血の気が引いた。話が違う。誰とも話なんてしていないけれど、そう思った。

「近所の小学生か」

 老人がすぐ近くまで来て、上半身だけを起こしたぼくを見下す。そうです。頭の中の声は威圧感に呑まれて、声にならない。

「探検か?」

 老人がしゃがんでぼくに視線を合わせる。ぼくはこくりと頷いた。

「もう外は薄暗いぞ。こんな時間まで出歩いたら危ないだろう。最近、この辺りで変質者が出ているのを知らないのか?」

 へんしつしゃ。学校で注意をされたから知っている。女の子を狙って声をかけ、抱きしめてくるそうだ。でも、ぼくは男の子だし――

「お前、自分は男の子だから大丈夫とか思ってるだろう」

 読まれた。驚くぼくに、老人がずいと顔を近づける

「男の子でもいい変質者はいっぱいいる。俺がそうだったら、どうするつもりだ?」

 この人が、変質者。ぼくはギョッと顎を引いた。

「せっかくだから楽しませてもらおうか。こんな場所じゃあ、お前がどんなにイヤだイヤだって泣き叫んでも、誰も助けになんか来てくれないからな」

 老人の手がすっと伸びる。ぼくは恐怖に硬直して動けない。そして老人はそんなぼくを見て、口元を綻ばせた。

「冗談だ」

 ぽんぽん。頭を優しく叩かれる。なんだか久しぶりのあったかい感覚。

「まあでも、こんな時間まで遊んでいるのも、他人の家に勝手に入るのも良くないぞ。反省しなさい」

 ぼくは首を小さく縦に振る。すると老人は、不愉快そうに口をへの字に歪ませた。

「喋れないのか?」

 まずい。また怒らせてしまう。ぼくは慌てて口を開いた。

「ごめんなさい。誰も住んでないと思って、調子に乗りました」

 ぼくの声を聞いて、満足そうな老人。そして老人は、開いた手のひらで辺りをぐるりと示した。

「住んでないさ。人が住める家だと思うか?」

 ぼくは示されたように周りを見渡す。確かに言われてみると、タンスもテーブルもテレビも冷蔵庫も何もないから、住める気はしない。だからぼくも空き家だと思ったのだ。

 住んでない。じゃあこの人、いったいなんなんだろう。泥棒かな。でもこんなところに来る泥棒、いないよな。なら――

「おじいさんも、探検ですか?」

 見当はずれな推測。老人は愉快そうに笑った。

「違う。昔は住んでいて、今は通っている。友達がいるんだ」

 老人が縁側の方に行き、ガラス扉を開けた。続けて雨戸を開ける。光の入口が玄関と縁側で二つになって、屋内がかなり明るくなる。

 老人はベージュの手提げ袋を腕から提げていた。その中から皿と缶詰を取り出すと、それをぶつけあわせ、外に向かってカンカンと鳴らす。

「とらじろうー。来たぞー」

 ぼくは老人の背中ごしに外に目をやった。やがて草むらがガサガサと動き、中から寅模様の猫が現れる。赤い首輪をしているけれど、毛並みはあまり整っていない。だからたぶん、飼い猫の証じゃなくて、保健所に連れて行かれない用の首輪。

「面倒だけど、家の中に人がいないと、出て来ないんだよな」

 缶詰は猫缶だった。老人は慣れた手つきで皿の上に猫缶を開けると、続けて別の皿を取り出して、そちらには牛乳を流し込む。猫はむさぼるように餌を食べ、牛乳を飲み、「ごちそうさま」と言いたげに「にゃあ」と一つ鳴いた。

 猫が縁側に座る老人に近寄り、その足首に身体をこすり付ける。老人はそれをただ見ている。その視線は優しくて、老人が猫を「友達」と言った意味がわかる気がした。

 やがて猫はまた「にゃあ」と鳴いて、草むらに消えて行った。あれは「ありがとうございました」だろうか。律儀な猫だ。

「さて、帰るか」

 老人がテキパキと皿をしまう。そして雨戸を閉める前に、ぼくに話しかけた。

「お前も帰りなさい。おうちの人が心配するだろう?」

 いきなり話しかけられたぼくは、ついさっき「喋れないのか」と怒られたことを思い出した。そしてまた慌てて口を開き、言わなくてもいいことを口にする。

「今日は、うちの人はいないから、大丈夫です」

 老人が眉をひそめた。なんだか色々と納得いかないような顔つき。

「誰もいないのか?」

「はい」

「お母さんもお父さんも?」

「はい」

「じゃあお前、夕飯はどうするんだ」

「冷凍食品をチンします」

 ぼくは問われるままに質問に答え、老人はそんなぼくの顔をじっと見つめる。あの時、老人はぼくではなく、ぼくを通して過去を見ていた。僕には分かる。

 だから老人は、ぼくを放っておけなかった。

「俺の家に、夕飯を食べに来るか?」

 ぼくはびっくりした。そしてぼくは断るという行為が苦手で、誰かに何かに誘われた時は深く考えずにとりあえずこう言ってしまう、危ない子どもだった。

「はい」

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