第一章「星空の秘密基地」

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 僕はまず、ぼくがどういう子どもだったかを語りたいと思う。

 とはいえ、僕だってぼくがうんと小さかった時のことは覚えていない。自動車か電車の玩具さえ与えれば一日中それで遊んでくれるので、あまり手のかからない子だったとは聞いている。ただ突然、リュックサックに落ち葉を詰めて「旅に出る」と言って消えてしまうような不思議な面もあったそうだ。いったい、ぼくは何を考えていたのだろう。僕にはさっぱり分からない。

 僕のもっているぼくの一番古い記憶は、幼稚園の年少組の時のものだ。

 合唱の授業。何を歌ったのかは全く覚えていない。眼鏡をかけた顔の丸い女の先生がピアノを弾いていたのはぼんやり覚えているけれど、その先生の名前は思い出せない。はっきり覚えているのは、ぼくが一生懸命に歌ったことと、みんなは40点だけどぼくは一人だけ50点を貰えたこと。僕の頭に残っているということは、ぼくはよほど嬉しかったのだろう。かわいいやつめ。

 ぼくがそんな幼稚園児だった頃、両親はぼくのことをとても良くかわいがってくれた。そしてぼくも、そんな両親のことが大好き。

 学生時代にテニスサークルで知り合った両親の趣味は、当然テニス。だから普通の子どもが親とキャッチボールをするかわりに、ぼくはラケットを持ってテニスボールの打ち合いをしていた。ぼくにはラケットは大きく重くて、振りかぶるなんて出来ないから、すくいあげるようにふわっとボールを打ち上げる。両親もそんなぼくがボールを返せるように、同じようにボールを下から優しく打ち上げる。

 ぽーん、ぽーん。柔らかい音とゆるい放物線が特徴的な、間の抜けたラリー。だけどぼくは必死。一生懸命に黄色いボールをおいかけて、めちゃくちゃな方向に打ち返しては、おいつけない両親に「ちゃんと返してよ!」と怒る。ぼくはすごく怒っているのに「ごめん、ごめん」と両親は笑っている。

 幸せだったな、と僕は思う。

 僕には、ぼくが「幸せだなあ」と思っていた記憶はない。きっと、わざわざ思う必要もなく幸せだった。疑う余地もない、疑いを抱くことすら起こさせない幸せ。ぼくの少し後ろが出っ張った頭の中には、そんなものがぎゅうぎゅうに敷き詰められていた。

 だから歳をとるのが億劫な僕とは違って、ぼくは大きくなるのが楽しみだった。

 一メートルとちょっとしかない身体に、世界はとても広い。だけどぼくの小さな手が届く範囲の世界は、どこもとても優しい。だから今はぼくの手が届かない世界も、これから手が届くようになる世界も、きっと優しいのだろう。

 幼くて、単純で、愛おしくなるようなロジック。その論理に従って、ぼくは、今日を精一杯謳歌し、明日を心の底から楽しみにしていた。

 そうではないと分かりはじめたのは、小学校に入った頃ぐらいから。


     ◆


 ぼくが小学生一年生の時、父さんが何をしていたか、僕は驚くほどに覚えていない。

 居なかったんじゃないかと思えるぐらいだ。だけど居たことは間違いない。マンションの自分の部屋で、父さんと母さんが怒鳴り合う声を聞ききながら丸くなっていたことは、ぼんやりと覚えているのだから。

 なぜ両親が不仲になり、夜な夜なぼくの部屋とドア一つ隔てたリビングで口論をするようになったのか、ぼくは知らない。僕も聞いていないし、いまさら聞く気もない。歩いて行ける距離に住んでいた父方の実家と母さんの仲が無茶苦茶悪かったから、多分そのせいではないかと推測している。

 まあ、理由なんてどうでもいい。起源がなんであろうとも、そうなったという結果が間違いなくそこに存在し、幼いぼくを蝕んでいたという事実に変わりはない。

 道路に捨て置かれた動物の死骸を見て、人は「なぜ死んでしまったのだろう」と考えるより前に「気持ち悪い」と不快感を覚える。ぼくも同じだった。怒鳴り合う両親の声を聞くのがイヤで、なんで喧嘩しているかも分からないままに「仲良くしてよお」と泣きべそをかいて出て行き、二人を強引に仲直りさせた。

 ただ「あんたは部屋に居なさい!」と母さんに怒鳴られてから、それもやらなくなった。部屋のベッドで頭から布団をかぶり、お気に入りのタオルケットの匂いをすぅすぅ嗅ぎながら、喧騒が通り過ぎるのを待つようになった。

 小学校最初の夏休みに入る少し前ぐらい、ちょっとした事件が起きた。

 夜中、お正月ぐらいしか起きていることを許されない時間に、母さんがいきなり眠るぼくを揺り起した。ぼくは起き抜けの寝ぼけまなこで母さんを見る。母さんは目の周りが真っ赤で、たくさん泣いたのだなと分かる顔をしていた。

「名古屋のおばあちゃんが倒れちゃったの。心配だから、今すぐ行こう」

 名古屋のおばあちゃんとは、愛知県の名古屋市に住んでいる母方の祖母のこと。母方の祖父は既に亡くなっていた。おばあちゃんの家には毎年八月に三日ぐらい出かけて、同居している叔父さんや叔母さん、従兄のお兄ちゃんと遊ぶのがお決まりになっていた。

 おばあちゃんが倒れたと聞いたぼくは、大変だと飛び起きた。急いで支度をして、母さんの運転でおばあちゃんの家に向かう。父さんは家にいなかった。ぼくは「父さんは?」と聞いたけれど、母さんからしっかりした返事は帰ってこなかった。

 ぼくはその頃、おばあちゃんの家に行く途中、高速道路のサービスエリアに寄るのが大好きだった。トイレとか、飲み物とか、難癖をつけて車を停めさせる悪い子。だけどその時は、おばあちゃんが心配だったから我慢した。

「おばあちゃん、だいじょうぶかな」

 不安げに呟くぼく。トンネルのオレンジの灯に照らされる、母さんの無表情な横顔。

「大丈夫よ、きっと」

 おばあちゃんの家につくと、なぜかおばあちゃんはピンピンしていた。あれ、おかしいな。ぼくは首を傾げる。僕には容易に分かる裏事情が、ぼくにはぜんぜん分からない。だけどぼくは単純。学校をお休みしておばあちゃんの家で遊べるのが嬉しくて、そんな疑問はすぐに忘れてしまった。

 おばあちゃんと叔母さんが遊園地に連れて行ってくれた。叔父さんがバイクの後ろに乗せてくれた。従兄のお兄ちゃんと一緒にゲームをした。夏休みに来る時より、みんななんだかぼくに優しいと思った。ずっとこのままの時間が続けばいい。そう思うぐらい、本当に、本当に楽しかった。

 あの子がかわいそう。夜、母さんはそんなことをおばあちゃんに言われていた。ぼくはなんでぼくがかわいそうなのか、全く分からなかった。


     ◆


 二年生になる頃には、両親に口喧嘩の数は減っていた。

 仲良くなったわけではない。むしろ父さんは家に寄りつかなくなっていた。家族三人でいても、父さんも母さんもほとんどぼくとしか話さない。母さんから「父さんに『お風呂入って』って言ってきて」と頼まれ、それを伝えると風呂上がりの父さんから「風呂、ぬるかったぞ」と母さんへの文句を言われる。糸電話の糸になった気分だ。

 家族でテニスボールを打ち合うことも、その頃には全くなくなっていた。会話とテニス、どっちのラリーが無くなるのが先だったのか、僕は覚えていない。覚えていないけれど、同時だったんじゃないかと思う。人間関係の壊れ方は、柱が一本一本順番に折れていくものじゃなくて、地盤がぬかるんで全体が沈むものだから。

 とはいえ、それでも父さんは父さんで、母さんも母さんだった。ぼくを置いて二人でどこかに出かけるということは皆無だったけれど、ぼくの誕生日やクリスマスみたいな、ぼくが中心になるイベント事はだいたい一緒にいてくれた。

 ただ、イベントがないところにイベントを作り出すということは、めっきりなくなっていた。例えば旅行。旅行は待っているだけでは訪れない。行きたければ予定を立てる必要がある。そういうものは、仮にあったとしても、母さんや母さんの親戚と行く。父さんは行かない。そういう風になっていた。

 だけど一回だけ、家族三人のイベントを作り出したことがあった。

 いよいよ三年生が迫る春休み。都内の博物館で恐竜展をやっていた。その頃、ぼくは恐竜が大好きだった。そこに父さんと母さんとぼくの三人で出かけることになったのだ。家族でおでかけをするのは、本当に久しぶりだった。

 恐竜展でぼくは大はしゃぎ。入口に飾られたティラノサウルスの骨格標本は本当に大きくて、見上げるとくらくらした。まだ柔らかい頭蓋骨の中に白亜紀の世界を広げ、その世界の中に自分を歩かせる。襲われたらお腹の下に逃げ込めばいいかな。そんなことを考えたりする。馬鹿みたいな妄想だけど、馬鹿にしないで欲しい。白亜紀でティラノサウルスと戦う機会なんて絶対にないなんていうのは、僕のような大人の理屈だ。

 展示物を見て回り、最後にお土産を売っているコーナーにたどり着いた。恐竜の図鑑や人形が並ぶ中、ぼくはキーホルダーが立てかけてある壁の前でぴたりと足を止める。これぐらいならお年玉の残りで買えるかも。そんなことを考えていると、父さんがぼくの背中から声をかけてきた。

「欲しいのか?」

 ぼくはこくりと頷く。すると父さんから、嬉しい申し出。

「一つなら買ってやるぞ。好きなものを選べ」

 やった。ぼくはさっそく、壁に並んだキーホルダーの一つを手に取る。吟味するまでもなく欲しい恐竜は決まっていた。翼竜、プテラノドンだ。

 ティラノサウルスの強そうな感じも、トリケラトプスの無骨な感じも好きだったけれど、ぼくが一番好きなのはプテラノドンだった。あんなに大きな身体をしているのに飛べるということに圧倒的な魅力を感じていた。尖った流線型の身体も好みだ。

「これにする」

 ぼくは青みがかった色をしたプテラノドンのキーホルダーを父さんに渡した。父さんは受け取ったキーホルダーをしげしげと眺めながら、ぼくに尋ねる。

「お前はプテラノドンが好きか」

「うん!」

 ぼくは元気よく答えた。元気が良すぎてからかいたくなったのか、父さんが含み笑いを浮かべながら問いを投げる。

「父さんとプテラノドン、どっちが好きだ?」

 ぼくはその意地の悪い二択に、迷うことなく答えた。

「プテラノドン!」

 父さんは笑った。ひどいなあ。そう言って、はにかむように笑った。


     ◆


 三年生になっても両親は相変わらず。だけどぼくの生活は大きく変わった。クラス替えという出来事によって。

 小学校で二年ごとに行われるクラス替え。せっかく友達が出来たのだからずっとこのままでいいのに、とぼくはふて腐れる。世界が余すところなく優しいわけではないと知ったぼくは、未知の明日を楽しみにするより、既知の昨日を守りたいと思うようになっていた。

 そして、ぼくは新しいクラスに上手く馴染めなかった。

 環境要因として大きかったのは、仲の良かった友達とクラスが別れてしまったこと。「神さまがいやがらせしている」と思いたくなるぐらいに全員と離れた。クラスが変わって最初の頃はその友達とも遊んでいたのだけれど、友達にクラスの友達が出来てからは、徐々に遊ばなくなってしまった。

 自己要因として大きかったのは、ぼくが一年生の頃よりずっと内向的になっていたこと。その責任がどこにあるかなんて、今更、考えるのも野暮だろう。まあとにかく、ぼくは少し前のぼくより、人と関わることに対しておっかなびっくりになっていた。

 クラス替えで良かったと思えたのは、担任の先生がちょっと怖い男の先生から若い女の先生に変わったことぐらい。だけどそれも僕に言わせればマイナス要因だ。経験不足な若い女の先生。孤立した生徒の扱いには、当然、慣れていない。

 そうしてぼくは、一人でぼうっとする時間の多い学校生活を送ることになった。あまり楽しくないから、あの頃のぼくは学校があまり好きではなかった。

 とはいえ、誰とも話が出来ないというわけではない。誰かにいじめられているわけでもない。だから別に、学校がイヤでイヤでたまらないというわけでもない。

 ただ、家まで来て一緒に遊ぶような友達はいなかった。さらに母さんが働き始めて、一人の時間が前よりもずっと多くなった。毎日、真っ直ぐ帰って、誰もいない家をプテラノドンのキーホルダーについた鍵で開ける。そしてリビングのソファに寝転がって、携帯ゲーム機のゲームボーイでゲームをする。その繰り返し。

 一人で時間を潰すことが多くなると、狭いマンションの部屋がやたらと広く思えた。がらんどうのリビングでブラウン管のテレビをつけると、ぶうんと耳鳴りがすることを発見した。静かな場所に一人でいることが多かったせいか、耳は鋭くなっていた。そしてその場所でゲームばかりやっていたせいか、目は悪くなっていた。音には敏感で景色には鈍感。逆の方が幸せなのだろうな、と僕は思う。

 当時、ぼくがやっていたゲームは「ポケットモンスター」だ。モンスターを集めて育てて戦わせる収集育成ゲーム。僕の時代でも凄い人気だけれど、ぼくの時代における人気はそれを遥かに凌ぐものだった。

 ゲームには二つのバージョンがあった。「赤」「緑」と色で表現されたそのバージョン差は、子ども同士の交流を促す仕組み。「赤」にも「緑」にもそれぞれ絶対に出現しないモンスターがいて、自分のバージョンで出現しないモンスターを手に入れるためには、違うバージョンを持っている子とモンスターを交換する必要があった。

 さらに特定のモンスターは育ててレベルを上げると「進化」というパワーアップをするのだけれど、「交換することで進化する」という特殊なモンスターが何匹かいた。逆に言うとそのモンスターは、交換しない限り絶対にパワーアップしない。

 ぼくは「緑」を持っていた。けれど「赤」を持っている子と交換は出来なかった。交換にはゲームボーイ専用の通信ケーブルが必要でぼくはそれを持っていなかったし、持っている子とはお互いの家に遊びに行くような友達ではない。もちろん、学校にゲーム機は持ち込み禁止だから、学校で交換することも出来ない。

 するとぼくは当然、自分のバージョンにいないモンスターを手に入れることは出来ないし、交換しないとパワーアップしないモンスターを強くすることも出来ない。前者はまだ仕方ないと思えたけれど、後者は本当に悔しかった。強かったし、ぼくの基準では格好良かったからだ。

 こういう話をすると、友達がいないのに友達必須のゲームをするなと言われるかもしれない。まあそれも、一理ある。でも僕がインターネットを検索すると、「自分はそのモンスターを持っていなかった」という昔語りがゴロゴロ出てくる。だからきっとぼくみたいな子どもは、日本中にいっぱいいたはずだ。

 流行りのゲームは持っている。学校で話をする程度の相手もいる。だけど交換まではたどり着くような友達は、いない。内気で、一人遊びばかりしていて、でも本当はみんなとも遊びたくて、ほんの少し複雑な家庭環境を持った、どこにでもいるありふれた男の子。

 それが、ぼく。

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