僕とぼくと星空の秘密基地
浅原ナオト
序章「僕」
0-1
久しぶりに降りた故郷の駅からは、懐かしさよりもよそよそしさを感じた。
中途半端に変わっていたからだと思う。何も変わっていなければ「久しぶり」。何もかも変わっていれば「初めまして」。だけど微妙にレイアウトが変わった程度だと、色気づいて他人のフリをしようとする思春期の親戚に会ったような感覚になる。「来たんだ、ふーん」。そんな感じだ。
決して田舎ではないけれど、別に都会でもない郊外の街。短くない時間をここで過ごしたはずなのに、帰ってきたという実感は驚くほどにない。まあ、いい。今住んでいる都会の中心は誰にでもいい顔をする。それよりはずっと温かい。
駅を出て、少し離れたバスロータリーに向かう。まだ五月だというのにやけに陽光がしつこく、長袖のワイシャツの下に汗がにじむ。今日は七月並みの暑さです。朝、天気予報で言っていた通りだ。
半袖にすれば良かった。いや、そもそも休日なのだから、私服で来れば良かった。どうして僕は、ビジネスバッグを提げて、長袖のワイシャツを着て、ネクタイまで絞めて、いかにも「これから仕事です」なんて風体で来てしまったんだっけ。
ああ、そうだ、思い出した。
一人前になった僕を見て欲しい、と思ったからだ。
なら、仕方ないな。僕は後悔を彼方に放り投げる。暑さへの不快感なんて、大切な相手に見せたい姿より、優先されるようなものではない。
閑散としたバスロータリーに着くと「久しぶり」の声が増えた。ロータリー中央の時計塔。他に呼び方が分からないから時計塔と呼ぶけれど、実態は銀色のポールの先にアナログ表示の時計盤がついただけのシンプルなものだ。
その存在感は貧弱で、街のシンボルにするにはあまりにも心許ない。無くなっても大半は気づかないだろう。僕だってきっと気づかない。だけどあれば「あ、まだある」と思うのだから、人間の意識は不思議だ。
僕はバス停を探した。そして誰一人並んでいない、一番人気のないバス停が目的のものだと確認すると、その傍に立つ。そのまま暑さでぼうっとしていると、耳に澄んだ女性の声が届いた。
「すいません。一つ、お聞きしたいのですが」
声が凛としていたので、若い女性だと思った。しかし振り返った先には、色の薄いサングラスをかけた老女がいた。皺の数と深さからして随分と年を召しているように見える。たけど背骨は全く曲がっていない。声だけが特筆して若いわけではないようだ。
「何ですか?」
「この辺りに霊園があるでしょう。このバス、そこまで行きます?」
霊園。それなら――
「行きますよ。僕は今から、そこに行くところです」
僕の返事に、老女がホッと胸を撫で下ろした。
「良かったわ。ありがとう。この辺り、すっかり変わったから、全然分からなくて」
この街と顔なじみであることを匂わせる言葉。しかもすっかり変わっているとは、僕よりもずっと古い友人らしい。
「住んでいらしたんですか?」
「ええ。霊園なんて無い頃ですけど」
「あの霊園は最近出来たばかりですから。僕が住んでいた頃もありませんでした」
老女が「あら」と驚き、開いた口を隠すように手を当てる。随分と上品な仕草だ。
「貴方も住んでいらしたのね」
「はい。けれど、僕はこの街はあまり変わっていないと思ったので、貴女の方がずっと古い住人だと思います」
「でしょうね。失礼ですけど、貴方、おいくつ?」
「二十八です。最近なったばかりですが」
「なら、私がこの街に住んでいたのは、貴方が生まれる前ね」
そりゃあ、凄い。僕はほうと感嘆の息を吐いた。そして老女は、ロータリー中央の時計を眺めながら呟く。
「でもあの時計は、その頃からあったわ」
老女がしているように、僕も時計を見上げた。一応、針は動いている。だけどディーゼルエンジンのバスが行き交う場の中央で、排気ガスに晒され続けた文字盤は、遠目でも分かるぐらいに薄汚れている。
そんなに昔からあるのか。僕の時計が見守ってきた歴史を思い、感傷に浸る。横の老女も同じ気持ちだろうと、当然のように思いながら。
だが、全く違った
「誰も見てやしないんだから、無くしちゃえばいいのに」
なんて情感のない言い草。僕はつい、苦笑いを浮かべた。
「何十年も残っているものを無くすのは、なかなか難しいですよ」
「でもボロボロよ。景観を損ねているわ」
「ボロボロのものほど、案外、長く残るものですから」
ボロボロのものほど長く残る。これから会いに行く、あの人が教えてくれたことの一つ。しわがれた声が僕の鼓膜に蘇る。
「――これは、ある人の受け売りなんですが」
何となく、話したくなった。僕はあの人の言葉を借りて、思い出をなぞりながら語る。
「みんな、『花瓶を割る人』を押し付け合って生きているそうです」
「花瓶を割る人?」
「はい。薄いガラスで出来た、簡単にヒビが入る花瓶を想像して下さい」
少し待つ。老女の想像が終わった頃を見計らって、続ける。
「その花瓶に色々な人がヒビを入れて行きました。やがて花瓶は、見ていて痛々しいぐらいにヒビだらけになります。そしてある人が、花瓶をとうとう割ってしまいました。すると花瓶は、その人が壊したことになりました。元から壊れていたようなものだったのに、全部、その人のせいになってしまったんです」
老女がふむふむと頷いた。まあ、それはそうよね。そんな態度。
「どれだけボロボロのものでも、最後に壊した人が壊したことになる。だからみんな、花瓶にヒビを入れるのは良くても、割ることは嫌がる。『花瓶を割る人』を押し付け合って生きている。その人が言っていたのは、そういう話です」
僕は、すっと時計を指さした。
「あの時計もそうなんじゃないでしょうか。要らないのは分かっているんだけど、トドメを刺したくはない。みんながそう思って、結果として、あんなボロボロの状態でここまで来ているんじゃないかと思います」
なるほどねえ。老女が感心したように呟いた。そして考え事をするように、軽く腕を組みながら首を捻る。
「その話、どこかで聞いたことがあるような気がするわ」
「教師をやっていた人の話なので、道徳の教科書に載っているのかもしれません」
「あら。恩師の教えだったのね」
「恩師、とは少し違う感じですね。近いものは感じますが」
僕の思わせぶりな言葉に、サングラスの下の老女の目が怪訝そうに歪んだ。だけどその説明を施す前にバスが到着してしまう。僕はひとまずバスの乗降口に足を踏み入れた。しかし老女は、後をついてこない。
「乗らないんですか?」
僕は親指を立てて車内を示す。老女は、ゆるゆると首を振った。
「まだ早いの。後で行くわ」
「そうですか、では、僕はこれで」
「ええ。バス、教えてくれてありがとう」
礼を告げる老婆に会釈して、バスに乗り込んだ。座席に座り、窓から時計をもう一度見やる。
僕が生まれる前から時を刻み続けてきた時計。老女は無くしてしまえば良いと言ったけれど、僕にはやはり勿体なく思える。あの頃も、誰も見ていないのにここでチクタク動いていたのだろうなと思うと、無性に愛おしい。
僕は膝の上に乗せたビジネスバッグのフロントポケットを開け、一枚の葉書を取り出した。僕をここに呼んだ葉書。黒い縁取りで飾られた文面が、知らぬ間に過ぎ去った時間の重さを僕の胸に押し付ける。
『訃報』
じいちゃん。囁くように、あの人を呼んでみる。バスが出発前のアイドリングを始めて、車体がガタガタと揺れ出した。
◆
バスは霊園内の広場に止まった。降りた途端、新緑が照り返す眩い光に襲われ、僕は目を細める。主機能は墓場のはずなのに、広場から墓らしきものは全く見えない。もはやこうなると、雰囲気はただの公園と変わらない。
ほんの少し歩くと、目指していた休憩所が姿を現した。景観を損なわない瓦屋根に漆喰塗りの壁。しかしその入口は自動ドア。まあ、利用客の年齢層を考えれば当然だ。バリアフリーにしてし過ぎることはない。
中に入り、辺りをざっと見回す。手前のテーブル席にも奥の畳の席にも、それらしき人物はいない。僕は無料提供されている冷たい緑茶を紙コップに注いでから、畳の席に向かった。
足を崩して座布団の上に座り、しばらく待つ。しかし現れるのは老人や家族連ればかり。もしかして間違えただろうか。これだけ広い霊園ならば休憩所ぐらい複数あってもおかしくない。不安が僕の胸を襲う。
しかし間もなく不安を解消する人物が、休憩所に足を踏み入れてきた。
僕と同じ年ぐらいの女性。長かった髪は肩ぐらいまでに短くなり、シュッと細かった顔つきもだいぶふくよかになった。背は、小さくなったわけはないけれど、僕が大きくなったから小さくなったように見える。
変わっていないと評するのは無理がある。だけど僕には、すぐに分かった。
「佐伯さん」
呼びかけに、女性はにこりと微笑んだ。そして僕の前に座り、「久しぶり」と髪を掻き上げる。優しい石鹸の匂いが、周囲にふんわりと漂った。
「僕のこと、すぐに分かった?」
「うん。苗字呼ばれた時は、ちょっと戸惑ったけど」
「え?」
「私、もう佐伯じゃないから。飯田って言うの」
僕は「ああ」と頷いた。佐伯さん――いや、今は飯田さんか――の手元を見ると、細い薬指に銀色のリングが光っている。そうか。そりゃあ、そういうこともある。
「なんか、悔しいな」
「どういうこと?」
「男にとって初恋の人って言うのは、特別なんだよ」
「初恋だったの?」
「言ってなかったっけ」
「聞いてないよ」
飯田さんがコロコロと笑う。幼かった昔より無邪気に見えるのは、おそらく、僕の方から邪な想いが消えたから。
「でも変わったね。昔はそういうの、思っても口に出す人じゃなかった」
「まあ、最後に会ってからだいぶ経つからね。変わりもするよ」
「そっちも、誰かの旦那様でしょう」
「どうしてそう思う?」
「指輪」
飯田さんが、テーブルの上に置かれた僕の左手を指さして不敵に笑った。僕は反射的に自分の右手を左手に乗せてそれを隠す。
「ただの恋人かもしれない」
「そういう雰囲気じゃない。分かるよ」
得意げな飯田さん。とりあえずは当たっているから、僕は反論しない。自分の左手の薬指に輝くリングを眺めながら、緑茶を一口喉に流し込む。
分かる、ねえ。
じゃあ二週間後のあれも、分かってしまうのかな。
「その服、これから仕事なの?」
物思いに耽っていたところを、現実に引き戻された。僕はゆるゆると首を横に動かす。
「違うよ。これは、見せたかったんだ」
「誰に?」
問われて、名前を飛ぶかどうか悩む。だけど結局、あの頃と同じ呼び方をした。
「――じいちゃん」
野太い声。こんな声でそんな風に呼ばれても、あの人はあまり嬉しくないかもしれないな。そんなことを考える。
「……そっか」
飯田さんが物憂げに目を伏せた。僕は、ぼんやりと中空を見上げる。全く違う方向を見ているのに同じものを見ている。そんな気がした。
じいちゃん。
会いに来たよ、じいちゃん。
幻に呼びかける。心の声は、あの頃のまま、甲高い。
◆
あの頃、「僕」は「ぼく」だった。
全ての人間が過去そうであったように、僕も昔は子どもだった。たまに膝裏が成長痛で痛む身体を精一杯に動かして、与えられるもの全てを受け止めて、時には受け止めきれずに泣いていた。綺麗なものも汚いものも今よりずっと鮮明に見えていた。生きることに、一生懸命だった。
時折、ふと思い出す。森の奥の秘密基地。そこから見上げた満天の星空。記憶は心に染みついて、すっかり僕の一部になっている。忘れようとしたことなんてないけれど、忘れようとしても忘れることは出来ないだろう。忘れる時は死ぬ時。そう言い切れる良い思い出がある人間は、きっと幸福だ。
だから、ぼくに秘密基地をくれたあの人は、僕を幸福にしてくれた。
あの人も、ぼくのことを死ぬまで覚えていた。覚えていたから、僕に訃報が届いた。それが良い思い出であればと僕は祈る。そうでない可能性も十分にあることを知りながら、それでもあの人が幸福であったことを、強く、強く希う。
色々なことがあった。僕でも、ぼくでも、語り切れないぐらいに。だから、僕とぼくで語ろう。僕は振り返り、ぼくは感じ取る。そうやって伝えよう。それでも全ては、伝わりきらないかもしれないけれど。
一九九〇年代後半。切り開ける自然や更地も少なくなり、都市開発の大波も収まり、その代わりとばかりにインターネットと携帯電話の普及が急速に進んでいたあの頃。
ぼくは、「花瓶を割る人」になった。
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