幕間 ~バレンタインデー
魔術師マーリン
「ねえ君。面白い恰好してるね」
夜にはまだ早いが既に宵闇に包まれているいつもの帰途を逸れ、寒々しい川縁の芝生を
円卓邸玄関ホールでの不安は的中してしまった。あれから三日後の今日、先輩はどこかへ姿を消してしまったのだ。秘書の言伝に従うかのように。俺は普段、中毒というほどスマホに熱中することはないのだが、先輩からの返信をチェックした回数は今日だけで三桁に達しただろう。ついさっきも路上でスマホ歩きをしてしまい、弦楽四重奏団振替公演の立て看板に膝を強かにぶつけたばかりだ。
俺はスマホから顔を上げ、声の主を見つめた。
すらりとした白衣の美女が、眼前に立っていた。
銀の細いフレーム眼鏡が、聡明そうな相貌を更に知的なものにしている。化学室が似合いそうな容姿。アッシュ系のブラウンの髪は首筋に添って伸び、肩に達する辺りでその下降を止めていた。だが、俺の視線は女性の胸先に降りたところで停止し、そこに釘づけになってしまった。豊かな胸の隆起に気を取られたからではない。少しはそれもあるかもしれないが、本題は違うところにあった。
胸許の丁度心臓のある付近から、短刀の柄のようなものが伸びている。長さは十センチほど。しかもそれだけではない。
初めて赴いた円卓邸で、秘書が三男氏の喉を切り裂いたのに用いたレプリカの短剣。あれの柄と同じ形状をしていたのだ。
「頭に鎌刺して首に矢を刺して、肩には剣が深々と。あたしが言うのもなんだけど、凄い恰好だね」
砕けた調子で女性は続けた。
誰だろう? 俺は無言のまま記憶と知識を総動員して正体を探った。
銀縁眼鏡。
長身。
あのお方。
本物と思しき〈不死の聖剣〉。
すぐさまとある人物が浮上する。傍証を思い起こして再確認する。名前を聞いたのはつい最近だけれども、こんなに早く出会えるとは思ってもいなかった。
「あの、その胸に刺さってるのって……」
「これ? ちょっと刺されちゃってね。痴情の縺れみたいな」
「はあ」
「欲しいの? それだけ刺してるのにまだ足りないとか? ダメダメ、実はこれ結構気に入ってるの。第一君には抜けないし。これ刺された本人にしか抜けない仕組みなんだ」
「魔術師マーリンって、貴女のことですか?」
相手の話には応じず、単刀直入に質した。
「うーん通称としては当たり。でも本名は秘密」
女性は悪戯っ子のように微笑んだ。大人っぽい声音に反し、喋り方だけは不釣り合いなほど若々しい。
「本名ってのは、昔はそうそう知られちゃいけないものだったんだ。
本名を知られてはいけない理由。一体なんなのだろう。俺が首を振るのも待たずに女性は、
「
はあ、と曖昧な相槌を打ちながら、俺は次なる質問の機会を窺っていた。知りたいのは、むろん女性の本名などではない。
先輩との関係。これだけはどうしても訊いておきたい。
「あ、そうだ」女性は自分の胸をぽんと打って、「これいる? 今日貰ったんだけど、あたし甘いの苦手なんだ」
そうだ。今日はバレンタインデーだった。
昼間には家来仲間の少女から親指の爪サイズのチョコを頂戴していたものの、その唯一の収穫も胸ポケットに放り込んだままだった。
女性が懐から取り出した箱を見て、俺の心臓は一際大きく脈打った。
斜めに青のラインが走った箱の包み紙。俺が買って、先輩に渡した包装紙と同じデザイン。
それが何故かここにある。先輩との浅からぬ縁を持つらしい、女性の手許に。
「どしたの? 要らないの」
俺は何も言い返せず、その場を走り去った。
ダメだ。ダメだ考えたくない。誰が女性に、チョコを手渡したんだ? いや、答えは判っている。判ってはいるが信じたくない。もうダメだ。
世間から鬼は消えたが、俺の中に巻き起こった疑心は暗鬼を生じるのに充分過ぎるほどだった。
先輩。
鬼騒動が発生してから、俺は先輩に、なんと呼ばれていた? 未だ本名で呼ばれたことはない。ならば通称だ。愚か者か? たわけ者か? もっと別の呼び名か?
ダメだ。思い出せない。
何か色々とどうでもよくなってきた。どこまでも走り続けたかったが、情けない脚力と心肺機能は俺を呆気なく立ち止まらせた。
逃げることすらできないのか。喘ぐ俺の視界に、悔し涙が滲んだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
その夜、河川敷で爆発事故があったという。知ったのは翌日のことだが、すぐに忘れてしまった。先輩は何事もなかったように登校してきた。
意気地のない俺は、結局何も訊き出せなかった。
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