第三の事件 ~ボスフォラス以東に何軒もあるであろう豪邸とそこに住まう奇妙な人々と節分と〈鬼〉と

死体と二つどころではない仮面を繞って

「犯人は、この中にいます」


 決まった……!

 広々とした応接間に居並ぶ住人使用人らを前に、俺の発した決定的一言は声質タイミング共に申し分なかった。がしかし、探偵の末席を汚すほどの身分でもない俺は、


「と、我が名探偵・天照女史は申しておりました」


 そう付け足すことも忘れなかった。

 自分はただの使者である。代理人でもない。身の程は弁えている。一介の助手であると同時に、先輩の言葉を伝えるメッセンジャーに過ぎないという点を、実際はそうでなくとも強調しておく必要があった。

 事件解決の手柄は凡て先輩のものである。自分はこの状況を、犯人指摘の瞬間を堪能できるだけで充分だった。


「は、犯人がこの中にですと? まさかそんな、いやバカな」


 紋切り型の狼狽を見せて、円卓えんたく家の血族一同が住まうこの豪邸……その当主たる麻王あさおう氏が苦々しげにハバナ産の葉巻を噛んだ。聞くところによれば平安期にまで遡る大名家の子孫であり、歴代当主が襲名する麻王の名も当代で四十代目を数えるという。


「麻王氏が否定なさるお気持ちは」


 そこまで口にしたとき、右耳の横に垂れ下がった鎖鎌の柄が、先に陣取っていた肩の上の矢羽に当たって滑稽な物音を放った。一同の冷え切った視線が苦行の如く俺を射貫く。こんなことで弁舌の邪魔をされては堪らない。今は我慢するしかないが、鎖鎌のほうにも何か被せておいたほうが良さそうだ。


「お気持ちは、いやというほど判ります」何事もなかったように空咳を放ち、仕切り直す。「先輩と自分が不慮の事故でこちらにお邪魔することになった昨日の段階で、既にご家族の方が四人も殺人鬼の兇刃に斃れており、昨晩と今朝で新たに二人、都合六名もの方々が命を落としているのです。これは由々しき問題です。非常事態といってもいいでしょう」


「そんなことは知ってるさ」初めて会った昨夜から反抗的な姿勢を崩さない、当主の子息で次男坊の我右衛次郎がえじろう氏が若々しい声を上げた。「穏やかじゃないのは、余所者のあんたらが我が物顔で現場検証やら何やらしゃしゃり出て、俺たちの中に殺人犯がいるとかほざく、その無神経さのほうなんだよな」

「もちろん、我々が招かれざる客であることは百も承知です。ですが、ここ数日の豪雪続きで麓との行き来も儘ならず、周到な犯人に電話線も切断された上通信機器も圏外となりますと、警察やレスキュー隊の到着は当分期待できないでしょう。この場合、こちらのお屋敷となんの利害関係もない先輩や自分のような部外者のほうが、むしろ冷静に状況を判断し、先入観に囚われない柔軟な発想をすることが可能なのではないでしょうか」

「チッ生意気な口叩きやがって。若造の分際で」


 次男坊の悪口雑言はすっかり聞き慣れたが、それにしても酷い言いようだ。これも今年に入ってから主要なミステリを渉猟し、一向に探偵らしい所作を身につけてくれない先輩に代わって勉強に勉強を重ねた、その成果の現れだというのに。

 加えて俺には、世間と隔絶していた期間というハンデがあるのだ。ここまでの話術を習得するには並々ならぬ努力があった。先輩にいびられ、少女に射かけられ、最近では新参メンバーの化け猫に

 それなのに、とかく世間は冷たく世知辛い。


「こんな悪天候じゃなけりゃ、今頃は麓の弦楽四重奏団がここに来て年に一度の演奏会を催してくれてるはずだったんだ。それがどうだ。弟たちは次々と殺され、楽団は来ない、挙げ句来たのはふざけたカップルだ」


 カップル。なんて甘美な響きなんだ。実情は次男氏の書棚で見かけた小説にあった、〈麟一郎りんいちろうとクララ〉の関係に近いシビアな主従関係だが。

 そういえば弦楽四重奏団がどうのと言っていたけれど、稀代の名探偵法水のりみず氏が活躍する有名大長編ミステリにも、確かお抱えのカルテットが出てきたはず。あまりの長さと難解さにほぼ流し読み状態だったが、麟太郎りんたろうという法水氏の下の名前は記憶している。

 麟一郎と麟太郎。奇妙な符合に独り悦に入る。


「まあ我右衛次郎兄さん。そう腐らずに」やんわりとした言い回しで俺に加勢してくれたのは、常に柔らかい物腰の四男・晴四郎はるしろう氏だった。「客人相手に大人気ないじゃありませんか。それに助手の彼の言い分にも一理あります。彼だって好きで巻き込まれたわけじゃないんですよ」


 人里離れた山奥にひっそりと建つ、猛吹雪に閉ざされた豪邸。しかも資産家の大邸宅ときている。

 このシチュエーション、決して嫌いではないのだが、ここは四男氏の顔を立てて黙っておくことにした。彼は、肩口から伸びる剣の柄に厚手の靴下を被せた以外は、首の矢も側頭部の鎖鎌も剥き出しでどこから見ても危険人物であるこの俺に優しく接してくれる、貴重な御仁の一人だった。おまけに大の読書家で法水氏の大長編ミステリも射程圏内とくれば、話が合わないはずがない。時機さえ合えば、ミステリ談義に花を咲かせることも充分可能と思われた。


「そうだね。正直言って」口を挟んだのは十二人兄弟の六男でありながら、今や末っ子となってしまった蘭栖六郎らんすろくろう氏。「僕らはこんな展開にもううんざりしてるんだよ。この数日で弟たちは皆殺されてしまった。十二人兄弟が今じゃあ半分しか残ってない。次に狙われるのはこの僕かもしれない。こんな恐ろしい事件に、これ以上神経を磨り減らすのはご免被りたいのが本音なんだ。誰でもいいから一刻も早く事件を解決してほしい。藁にも縋りたい気分ってやつだよ」


 お察しします、と小さく言い、それから全員に聞こえるよう俺は声を張って、


「古今無双の名探偵たる先輩と、不肖の助手たるこの自分が、昨日、突然の天候不良によりこの戌亥いぬい山の山腹で遭難してしまい、夕刻になり運良く発見したこちらの邸宅に身を寄せることになったのは、皆さんご存知の通りです。むろん、昨日に至るまでの恐るべき連続殺人の数々に関しましては、皆さんのほうがよほど詳しいとは思いますが、ここは敢えて探偵助手の自分に、事件の経緯を手短に説明させてはいただけないでしょうか」

「どうしてそんな判りきったことを蒸し返す」次男坊に負けず劣らず挑発的な言動の目立つ、五男の雅麗五郎がれごろう氏が棘のある口調で場の空気を掻き回す。「犯人を暴きたいなら、独りで勝手にやりゃあいいだろう。わざわざ関係者全員を呼び集める必要はない。それに、名探偵とかほざいてたあの図々しい女はなんで来てないんだ」

「先輩は推理の詰めを完璧なものとすべく、現在別室にて待機しております。今暫くお待ちいただきたく存じます」


 俺は嘘を吐いた。多分先輩はまだベッドの中で高いびきだ。

 神経症的に口の端を引き攣らせ、誰も待ってないわ、と次男坊。温室育ちの故か、まだまだ反抗期を抜け出せずにいるようだ。いい歳した大人のくせに困ったものだ。先輩より質が悪い。

 もっとも、去年行けなかったとかなんだとかで、スキー合宿に学年の違う先輩が無理矢理合流したりしなければ、尚且つ俺が止めるのも聞かずに雲行き怪しい山間へ無理矢理分け入ったりしなければ、レモラの弓矢ならぬ天然ものの猛吹雪に凍え死ぬ思いをすることもなかったわけで、困り者という意味ではこちらの次男坊といい勝負かもしれない。

 そもそも他の同級生は受験シーズン真っ只中のはずなのに、先輩こんなことやってていいんですか……。


「雅麗五郎氏と我右衛次郎氏のご不満は察するに余りあります」心の声を押し隠し、丁重に応じる。「しかしながら、犯人の指摘につきましては、自分が得た情報が正しいかどうかを今一度皆さんに確認してもらう必要があるのです。万が一にも取り返しのつかない錯誤をしていた場合、自分の推理……もとい先輩の推理に重大な欠陥を生じてしまいかねないのですから。と同時に、複雑に縺れ合った事件を第三者の観点から整理し直し、見通しを良くするという意図もあります。どちらも重要な意味が込められている点をご了承いただきたく……では早速ですが、事の起こりは四日前」


 異論反論の類いを封じるべく、慌てて語を継ぐ。


「この戌亥山を含む戌亥市一帯が記録的な大雪に見舞われた、その初日のことでした。降りしきる雪に誘われるように、こちらの円卓邸におきまして、血も凍る殺人劇が幕を開けてしまったのです。自分が……先輩が思うに、犯人は特定の芸術的嗜好の信奉者であると考えられます。何故なら、こちらの邸宅には歴代の当主が蒐集した価値ある骨董品や美術品が数多く収められており、のみならず犯人は連続殺人を実行するに際し、己が信奉するとある芸術作品に関するを施していたのですから」

「見立て?」


 異口同音に家人らが言う。


「死体に色々細工がされていたのは、そういう理由からなのか」


 四男の感心したような呟き。


「どんな見立てなのかね?」


 先を急ぐ現当主の声を慣れない手つきで制し、俺は口を開いた。


「見立ての内容については追々説明いたします」


 物事には順序というものがある。名探偵は決して結論の開陳を急がない。徐々に手札を切っていき、犯人指摘の瞬間を一層効果的なものに仕立て上げねばならない。


「勿体ぶりやがって。とっとと犯人を言いやがれ」

「そうだそうだ」


 野暮の極致とでもいうべき野次を飛ばす次男氏に、五男氏が同調する。

 どうにか両者をなだめ、襟元を正した。やはり著名な探偵たちのようにすんなり事を運ぶのは難しい。再び耳許に響いた鎖鎌と矢羽の接触音が、さながら警告音のように聞こえた。


「話を戻します。見立ての観点から申しましても、犯人の芸術的指向は明らかでした。一連の犯行は、何よりも芸術的な視点に貫かれていたのです。因みに、殺人事件において犯人を芸術家、探偵を批評家に見立てるという有名な比喩は、かのファイロ・ヴァンスがベンスン殺人事件にてご高説を披瀝したのが嚆矢こうしかと存じますが」

「S・S・ヴァン・ダインだね」さすが四男氏。補足にもなっているこの手の容喙ようかいはむしろ歓迎したい。「懐かしい。僕は『僧正殺人事件』が一番好きだね」

「僕も読んだよ」六男氏も追従する。「晴四郎にいの部屋にあったやつだ。パタリロだ」

「俺も六の字に付き合わされて読んだが」五男氏が口許を歪めて、「退屈で途中で読むのをやめちまったよ。あ、でも犯人は気になったから、他は飛ばしてそこだけ読んだっけ」

「しかもその犯人を僕に言うんだよ。酷くない? 僕まだ読んでなかったのにさ」

「あっははは。あのときのお前の顔、傑作だったなあ」


 少々脱線が過ぎるようだ。五男氏のミステリ読みにあるまじき蛮行を胸中呪いつつ、俺は再度話を戻した。


「では、事件のあらましについて今一度確認させていただきます。最初の被害者は、当主麻王氏のご子息で八男の雅羅八郎がらはちろう氏。四日前の正午過ぎ、正面玄関の先にある螺旋階段の踊り場で雅羅八郎氏が倒れていたのを、当主の秘書を勤めている神谷かみたにさんが見つけたのでした。そうでしたね、神谷さん?」


 思い思いの座席に着いた円卓一族からやや離れた壁際で独り佇んでいた神谷女史は、名を呼ばれ僅かに背筋を反らせたように見えた。綺麗な顔立ちをしているけれども化粧っ気はなく、カシミヤのセーターや黒一色に縁取られた眼鏡もいかにも実用的といった趣きだ。


「え、ええ」

「しかも、そのときの被害者は荒縄でグルグル巻きにされた大変痛ましい姿だったとか」

「はあ、そうですが」

「あれのどこが芸術的な見立てなんだ? ふん縛ってオークションにでも出すつもりかよ。あ、り市か」


 五男氏の不謹慎な横槍に冷ややかな眼差しで応じる。どっちでもいいしどうでもいい。


「団鬼六の愛好家が、俺の他にいるとは思えんがな。それとも沼正三か?」


 次男氏の指摘には一瞬ドキリとしたが、俺は構わず話を続けようとした。


「ちょっと待ってくれ」


 好事魔多し。制止の声がかかる。それまで神妙な面持ちで緘黙かんもくしていた毬栖三郎まりすさぶろう氏だ。四男と六男を親探偵派に、次男と五男を反探偵派と呼称するなら、三男の彼はさしずめ中立派といったところか。


「いかがいたしました、毬栖三郎氏」

「済まないが、ちょっと催してしまった。手洗いに行かせてくれ」


 雪隠せっちんか、と次男氏が卑俗に嗤う。三男氏はそわそわしつつ、返答を待たずに席を立った。マイペースで空気の読めない発言が多いのは数日来の付き合いで熟知していたが、この期に及んでまたそんなことを。


「あの、少しだけ待っていただけませんか」


 今度は俺が制止する番だ。舞台も役者も出揃っているのに、肝腎のストーリーが進まなくては文字通り話にならない。可及的速やかに大団円まで迎えなければならないのだ。でないと我が名探偵が起きてしまう。そうなってしまっては元も子もない。名探偵のメッキが剥がれてしまう。こんな尾籠びろうな用事で中断させるわけにはいかない。


「少しってどれくらい?」

「そうですね、十分ほど」

「無理。洩れる」


 すぐ戻ると言い残し、三男氏は幾分前屈みに応接間を出て行ってしまった。

 なんとよろしくない幸先だろう。ただでさえタイトなスケジュールが更に厳しいものになる。しかも直前の下らないやり取りが緊迫した雰囲気を見事に削いでしまい、広々とした室内に白けた空気が漂い始めた。

 燕尾服にメイド服という今となっては寸劇っぽい衣装の老執事と若い給仕が、この機を逃さず一同に紅茶を振る舞い出す。早くも一息吐けというのか。当初の心地好い緊張感は望むべくもなかった。


「大体お前が」

「なんだと?」

「ええい、煩わしいな」


 俄に騒がしくなる室内。今度は何事だ?


「す、すみません、どうしたんですか」


 応答はないが、一族の誰かが言い争っているのは明白だ。使用人らが仲裁に入る。俺も足早に騒動の震源へと向かった。

 掴みかからんばかりの勢いで詰め寄っていたのは、血の気の多い次男氏と五男氏だった。全くこの二人は生来のトラブルメーカーだ。俺の邪魔ばかりしてくれる。


「俺が怪しいだと? この俺が犯人だとでもいうのか」

「だってそうだろ。こんな非常識なことを平然とやってのけるのは、非常識な奴に決まってんだよ」

「ふざけんなてめえ。俺のどこが非常識なんだよ! 雅麗五郎」

「お前のどこが常識的なんだよ! 我右衛次郎兄貴」


 浅からぬ血の繋がりを感じさせる応酬だ。俺の眼の届かぬところで勝手に犯人当てに興じていたらしい。それが掴み合いにまで発展してしまうところが、逆に真犯人の特徴たる芸術的美学とはかけ離れていたのだけれど。


「昔っから気に喰わなかったんだよ。人の女に手出しやがって」

「そりゃお互い様だろ。喧嘩両成敗じゃねえか」

「やめんか二人とも!」堪りかねた当主が葉巻を噛み千切って言った。「客人のいる前ではしたない」

「うるせえな。誰に似たと思ってんだ」

「そうだそうだ。一ダースも子供作りやがって」

「最後の晩餐ごっこでもするつもりかよ。そりゃお袋も躰壊して早世そうせいするわ」

「麓の街に行きゃあ一グロスはいるだろ、隠し児がさ!」


 絶句して頭を抱える当主。


「よしなよ」健気にも六男氏が割って入る。「今はそんなことしてる場合じゃないだろ」

「なんだお前、優等生ぶりやがって」

「気に喰わないのはお前も同じだからな、蘭栖六郎。薄ピンクのスカした仮面なんざ嵌めやがって」

「何言ってんだよ。我右衛次郎兄のだって大差ないじゃないか」

「俺のショッキングピンクと一緒にするんじゃねえよ。今年のトレンドカラーだぞ」


 仮面。

 そう……この豪邸の住人には、余所者には理解し難い奇矯な風習があった。円卓家の血を引く一族の者は、全員顔に仮面を着けているのだ。

 素材は金属であったり白磁や青磁であったり様々だが、人前では常時その薄皿めいた仮面をつける決まりなのだという。おかげで顔の上半分は二本の切れ目から覗く瞳の色くらいしか窺い知ることができない。反面、どの仮面も鼻梁のてっぺんまでという中途半端な造りのため、口の周りは剥き出しだ。麻王氏の口髭や、次男氏及び五男氏の口唇の動きが確認できたのはそのためだった。


「ちょ、ちょっと皆さん。落ち着いて」


 場を収めるべく懸命に声をかけるが、好き放題言い合う彼らに効き目はまるでない。現実は小説みたいにいかないのだという当たり前のことを、今更ながら痛感した。

 そんな大広間の混乱は、思わぬ形で終焉を迎えることになる。


「た、たた、助けてくれ!」


 戸口近くで発せられた悲鳴に、人々の視線が一斉にそこへ集中した。もちろん俺の視線も込みで。


「ま、毬栖三郎兄!」


 かわやに出かけた三男氏が、首筋に短い刃を突きつけられて震えていた。玄関ホールに飾られていた、複雑な模様の柄が印象的な諸刃の短剣だ。そしてその柄を握り締めていたのは。


「か、神谷さん……」


 秘書の神谷女史だった。


「な、何をしてるんですか」


 言った後で、自分でも間抜けな問いだと気づいた。訊くまでもないことだった。神谷女史は円卓家の三男坊をに取っていたのだ。


「お、おい!」実の兄弟や父親にまで噛みついていた狂犬の如き次兄が、驚愕に声をおののかせた。「お、弟をどうするつもりだ」

「席を外した隙にこっそり殺そうと思ってたけど」神谷女史の声は好対照を成す冷静さだ。「やっぱりやめたの。こうしたほうが話が早いと思ってね」


 刃物の扱いに慣れているらしく、持つ手つきや構えも堂に入っている。


「真犯人は、貴女だったんですか」四男氏が諦念の籠もった口調で言った。「すっかり騙されました。僕は当初、我右衛次郎兄さんの犯行なのではないかと疑っていたんです。助手の彼もおっしゃっていたように、この事件の犯人は見立てによって己の芸術的センスを誇示する節がありました。兄さんは自身のSM趣味を公言して憚らない人でしたし、このくらいのことならやりかねないと」

「晴四郎、お前……意外と恐ろしい奴だな」

「しかし実際は違った。貴女は死体を縄で縛ったり、蝋燭を垂らしたりギャグボールを噛ませたり三角木馬に乗せたりすることで、SM方面に造詣が深い我右衛次郎兄さんを犯人に仕立てようと目論んだのですね」


 秘書は自尊心に満ちた表情で頷いた。


「ちょ、ちょっと待ってください」俺は諸手を振り上げて言った。違う。俺の推理と違う。そんなはずはない。「すると、一連の見立てはただ単にSM的な象徴物をちりばめただけで、SMということですか?」


 秘書はゆるゆると首を振った。


「家畜人ヤプー? ああ、我右衛次郎兄の部屋にあったなあ。兄の愛読書だ。悪趣味な」

「煩いな。お前みたいなひよっこにはあの偏執症的記述の深みが判らないんだよ」

「じゃ、じゃあもなかったってことですか?」


 俺は確認せずにいられなかった。


「人物の、入れ替えトリック? なんだそりゃ」

「自分はまたてっきり、今そこにいる長男の柚上一郎ゆうえいちろう氏が実は最初の犠牲者と目された八男氏その人で、極端に無口なせいでいるのかいないのか判らない、ファイロ・ヴァンス物の記述者ヴァン・ダインみたいな長男氏の為人ひととなりと、どういう訳か金属の丼みたいな器を逆さにして常に頭に乗せている長男氏の謎の風習を利用して、殺害した長男氏に自分の仮面を被せ、代わりに長男氏の仮面と器を被ることで顔と髪型を隠し通し、今の今まで長男氏に成り済ましていたと、そう思っていたんですが……あ、いや思っていたのは名探偵先輩ですが」

「あんたさっきから何言ってんだよ」


 一番端の席にひっそりと坐していた長男氏の本日の第一声は、露骨に呆れ返っていた。頭部を覆う黄金の器は、燦々さんさんと降り注ぐシャンデリアの輝きに金色の彩りを添えて眩いばかりだ。


「存在感なくて悪かったな。それに謎の風習ってなんだよ。俺だって好きで被ってんじゃないよ。一族の正統後継者は、こうやって聖なる杯を頭に被るしきたりなんだよ。余所者にとやかく言われる筋合いはない」

「貴男の、いえ名探偵先生のご慧眼は畏れ入りますが」四男氏が追い討ちをかける。「いくら警察の正式な鑑定を経ていないとはいえ、入れ替わっていればさすがに気づきます。長年共に過ごした、血を分けた同胞ですからね」

「深読みし過ぎです」


 秘書が発したとどめの一言に、俺は開いた口が塞がらなかった。

 廃墟と化した推理の跡地。ぽっかり空いた心の隙間に容赦なく吹きつける吹雪。寒い。とにかく心が寒かった。

 誰かが殺害した理由を問うた。誰なのかまでは判らない。そこまで余裕はなかった。

 秘書の答えが辛うじて耳に入る。

 秘書は特殊な性癖を持っていた。一言で表せば嗜虐しぎゃく的性向。対して、被害者の面々である円卓一族の若年層は、いずれも被虐的な性向を有していた。引き合う磁石の両極のように――SとNならぬSとM、みたいな地口も聞こえた気がした――秘書は彼らと口にするのも憚られる淫靡いんびな狂宴を、夜な夜な繰り広げていたらしい。それも兄弟同士には決して悟られぬよう、巧妙に時間帯をずらしてだ。

 第一の殺人は不可抗力だったという。荒縄を締める力加減を調節しきれず、八男氏は窒息死。正に昇天である。

 がしかし、その出来事が秘書の中に眠っていた新たな性癖を目覚めさせてしまった。第二の殺人以降は明確な殺意を以て犯行に及んだ。

 殺害現場に遺されたSMの道具立ては、次男氏へのミスリードを誘うと同時に、片付けの手間を省くという経済的理由も含まれていたという。

 なるほど話は判った、と当主が言う。なんという呑み込みの早さ。よほど度量が大きいのか、はたまた犯罪心理に疎いのか。


「だがその剣は使うな」当主の声音が変わった。「お前も知っているだろう、その剣は」

「これはレプリカです」秘書はあくまで冷静だった。「〈〉ではありません」

「なんだと?」当主が愕然と身を揺らした。「どういうことだ! ならば本物はどこに」

「本物は、既にの手許に」

「あのお方?」

「ええ、わたくしに嗜虐的性向の萌芽を植えつけた、あの見目麗しいお方。眼鏡の奥に輝く蠱惑的な瞳。わたくしにとっての偉大なる。ああ! 思い出しただけで全身が火照ってしまう」


 かの名作SM文学の登場人物を引き合いに出し、秘書が身悶える。その拍子に、短剣の刃が三男氏の喉元をすっぱり撫で切った。

 動物の咆哮に近い断末魔の叫びを上げ、天井目がけ噴射した鮮血の雨にその身を濡らし、三男氏はとうとう七人目の犠牲者となって床に斃れてしまった。

 一族の生き残りが口々にその名を呼ぶ。自身の血を存分に浴びた三男氏は返事どころか呻き声を上げることも叶わず、周囲の人々もまた三男氏に近寄ることができない。短剣を汚す紅い液体を舐め取った秘書は、まだまだ血に飢えているようだった。

 その秘書が、何を思ったかセーターの裾を勢いよくたくし上げた。


「…………!」


 その下に見えたのは妙齢の女性のほっそりした白い腰……などではなく、腹巻の如く腹部を覆う、バトンか巻物の如き筒の連なり。ひとたび火種を受ければ腹巻など比較にならぬ高熱を発するであろう、それは原始的ウェアラブル爆弾……所謂腹マイト。


「まっ待て!」

「正気か?」

「今のわたくしには正気も狂気も関係ないのだわ」そう言い返す眼鏡の奥の瞳は、焦点がまるで合っていなかった。「ありとあらゆる精神の彼岸に、わたくしは今立っているの」


 もし彼女が腹部の爆弾に火を放てば、あの数量から察するに、いかに広大な応接間といえどもひとたまりもなく吹き飛ばされるだろう。自爆からの大量殺人。自分が関わったことで、被害が拡大するかもしれない。その可能性が重圧に形を変えて俺にのしかかる。

 名探偵とは、かくも苦しいものなのか。探偵の、いや名助手の眼前で更なる事件が起きようとしていた。事件の進行を喰い止めることができるのは、やはり本物の、名探偵だけなのか。

 俺は抗えぬ諦観に眼を閉じた。瞼に浮かぶのは傲岸不遜の自称名探偵。

 先輩……。

 助けてください。

 瞼を上げる。

 ……戸口に、ツインテールの天照宛南先輩が立っていた。

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