逃走にはファウストも呪文も不要
「先輩!」
昨日着ていたのと同じ派手な柄物のスキーウェア上下に、口許にはこれまた昨日と同じ大きな白いマスク。外出の準備万端といった装いだ。事実、先輩は自分に注がれる視線の中から俺のものを探し出すと、周囲の異様な雰囲気を知ってか知らずか、
「帰るぞ。雪も止んだし」
顔色一つ変えずに言った。なんたる空気の読めなさ。しかし今はその冷静な口調が救いの祝詞に聞こえる。少女ならずとも女神先輩と呼びかけたくなる。
「あの、そうしたいのは山々なんですが」
「口答えするな」先輩の眉が険しくなった。「何が山々なのだ。わたしは山を下りると言っているのだ」
「いえその、なんといいますか……実はつい先程、新たな事件が起きてしまいまして」
「新たな事件だと」先輩は一層眉を険しくしたが、すぐに元に戻して、「わたしには関係ない」
「えっ」
我が耳を疑った。信じられない言葉が飛び出した。名探偵たる先輩にあるまじき宣言。
「それはまた、どういう意味で」
「言った通りの意味だが」
おかしい。絶対に変だ。先輩のこの掌返し、必ずや裏があるに違いない。
思えば、この建物に到着してから
「ええと、こういうときはなんと言えばよいのかな。一宿一飯のお礼を伝える際の……ああそうそう、お世話になりました」
そう言ってぺこりと頭を下げる先輩に、俺は見てはいけないものを見てしまった気がして胸がぞわぞわした。
「お待ちなさい」この室内で最も危険な女性から声がかかった。「貴女の推理は、そこの助手の少年から伺いました。真相を外した上、関係ないと逃げ出すのを黙って見過ごすわけにはいかないわ」
「推理だの真相を外しただの、言っている意味がさっぱりなのだが」
幸運なことに先輩は俺のスタンドプレーに思い至ってはいないようだ。
「は、早く帰りましょう先輩、雪も止んだようですし」
三十六計逃げるに如かず。俺は口早に先輩を促したけれども、爆弾を腹に括るという凄まじい腹の括り方をした秘書は、そう簡単に逃がしてくれそうもなかった。
短剣を構えた秘書を見て、先輩がマスク越しに深々と息を吐いた。
「おい、何を被せている」俺の肩口を見咎め、先輩が突き刺すように言う。「柄は隠すなと言ったろうが。そんなに殺されたいか」
そして被せておいた靴下をもぎ取り、露わになった柄を逆手に握った。
「むっ! それは」
「ふ、〈不死の聖剣〉に似ているようだが」
「
「そっその剣……まさか」
「〈無傷の秘剣〉では!」
「ふんっ!」
周囲のどよめきを無視して先輩は剣を縦横に振るった。
起こした風圧でまず秘書の短剣を弾き飛ばし、煽りを受けた長男氏の被り物を横殴りにする。きゃっと叫んで膝を突く秘書と、声もなく転倒する長男氏の間を先輩は素早く通り抜けた。
俺も行かなくては、と思った瞬間、首の回りに強い衝撃。首を貫く矢をよけるようにして、いつの間にか縄が結わえられている。縄は俺の前方に長々と伸び、その先を先輩が握っていた。
「何をボケッとしている。早く来ぬか」
縄を引き引き戸口の向こうへ消えていく先輩。これ以上引き摺られぬよう俺も慌てて駆け出した。背後で呼び止める声がしたが、追いかけてくる気配はない。
名探偵とその助手は、こうして進行中の殺人現場から逃走しおおせたのであった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「抜け駆けなぞするからバチが当たったのだ」
外は一面白銀の世界。山間の空気はひんやりと頬を撫でるが、上空の蒼穹はどこまでも澄み渡り、昨夜まで延々と雪を降り落としていた雲は影も形もなかった。
「すいません」
「大体逃げ場もないのに殊更犯人を刺激してどうするのだ。犯人捜しなんぞに現をぬかしているから、しょうもないことに巻き込まれるのだ」
「す、すいません。でも、先輩ちっとも名探偵らしく振る舞ってくれないじゃないですか。なんだか様子も変ですし。髪型も急に変えたりして」
「名探偵の深謀遠慮に家来如きが及ぶと思うてか。このうつけ者め」
ぐいと縄を引かれ、俺は前につんのめりそうになった。
洋館の右翼はその先に森林が拡がるだけだが、今出てきた左翼側は少し歩くと急勾配になっている。道らしきものは雪に埋まって全く見当たらないものの、このまま降りていけばスキー場には戻れそうだ。
先輩はスキー用具一式を前もって戸外の一角に用意していた。遭難時に放置したレンタル物とは素材もデザインも違う、一見しただけで高級品と判る代物だ。この家から拝借したのだろう。きっと無断で。
「これ、一人分しかないんですか?」俺は気づいた点を口にし、ついでに、「あとこの縄なんですけど、そろそろ外してもらえないですかね」
「何を言う」先輩は縄を切らぬよう注意深く俺の肩に剣を戻すと、「その縄は
これから使う?
その心がなんなのか、俺にはまだ判らない。だが、この縄を見ているとなんだか胸騒ぎがする。これとよく似た縄を、
脆くも崩れ去った、見立てのモチーフたるSM文学。クララに
そこまで考えたところで、円卓家の人々から聞かされた最初の殺人現場の光景が脳裏を過った。
そうだ。眼にしたのではなく、伝え聞いたのだ。八男氏の死体は、荒縄でグルグル巻きにされていたという。
「ま、ま、まさかこの縄……荒縄……」
死体に巻かれていたのと、同じ荒縄なのか?
気がつけば、俺は寝袋にすっぽり入れられて雪の上に
「せ、先輩……これって、まさかこのまま」
「喋るでない」先輩がゴーグル少女のお株を奪うスキーゴーグルを目許に引き下ろして言った。「喋ると舌を噛んで、白いゲレンデに鮮血のシュプールを描くことになる」
スキー板を装着した脚で雪を蹴り、先輩は俺に背を向け斜面を滑り降りていく。手にした縄がピンと張り、その直後、俺を収めた寝袋はずるずると雪上を滑り始めた。
「マ、マ、マジですか!」
ナイロンの寝袋は雪の摩擦を物ともしない。先輩は俺を引き摺ったまま、地獄の直滑降に繰り出すつもりなのだ。勾配に差しかかり、畏れは幾何級数的に膨れ上がった。
「うわ、うわ、うわわわ……」
長閑に晴れ渡った雪山に、俺の絶叫が谺した……かどうかは定かでない。
鎖鎌に引き続き、これで本年二度目の記憶喪失である。今年はどうもペースが早い。
記憶のブレーカーを落とすには充分な恐怖体験だったのだろうが、忘れているので単なる想像でしかない。憶えていることと言えば、その後無事合宿所に辿り着いたら昨日今日と二日に亘ってレスキュー隊や警察が出動する大騒動になっていたことや、昨夜のうちに駆けつけた母親に泣きつかれ、父親に思いっ切りぶん殴られたことくらいだが、こういう辛い記憶は消えてくれないところが益々辛い。
あの豪邸にいた人々のその後は、窺い知ることができなかった。いくら山深い
こちらから調査を再開するという方策も考えないではないけれど、実現には至らなかった。今やそれどころではなかった。遠く戌亥山の事件になど構っていられる状況ではなかったのだ。
スキー合宿から一週間後の二月三日、節分の日の朝。父親に殴られた際にできた唇の傷もすっかり癒えた頃。
丑寅市内に〈鬼〉が出始めたのである。
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