堂廻神社の化け猫の怪の3

「先輩が出るんですか?」

「うむ」


 少女の不在など意に介さぬふうに先輩は言い、俺の手から羽子板をもぎ取った。一瞬触れた白魚の如き指は思ったより温かく且つ柔らかい。代わりに土の入った例のビニール袋を手渡され、俺はその役割を選手から観客へ完全移行した。


 ――早くも真打ち登場ってか? まあ誰が来ようが結果は同じだがな! 二十年も生きてねえ小童どもに、朝家の守護たる頼光とも互角に渡り合ったこの俺様が負けるかっての。大体頼光のクソ野郎が忌々しいマタタビなんぞけしかけてこなけりゃ、奴さんにだって余裕で勝てたんだ。それをあの卑怯者が。


「ご託はいい。早くかかって来ぬか」


 先輩は羽子板を八双に構えた。いつもの長剣に見立てているのか? 片や左手は柄の長さが足りないので、右手を包むように握っている。あんな構えで羽根突きに興じる人はついぞ見たことがない。


 ――まあ待て、まだ姉ちゃんのペナルティ決めてねえぞ。


「好きにするがいい。墨でもなんでも。どうせ負けぬ」


 ――随分と威勢がいいな。その服じゃ動きづらいだろ。袖も長くて邪魔だし。着替えなくていいのかよ。


「構わぬ」


 ――そうかい。じゃあ一点獲られるごとに、振袖を脱いでいくってのはどうだ。


 何? 振袖を、脱ぐだと? そんな条件、先輩が引き受けるわけ……。


「構わぬ」

「か、構わないんですか!」


 承諾してしまった。なんという……悪くない話だ。いやむしろご褒美。ナイス化け猫。またとない眼福のチャンスをありがとう。


「今卑猥な想像をしただろう」羽子板を俺に向け、先輩が言う。「絶対殺す」

「し、してませんって」


 一片の嘘偽りもない、真実の吐露。これから本物を拝見できるかもしれないのに、想像なんかしたところでなんの意味がある。

 先輩が負ければムフフだし、勝っても事件は無事解決。どう転んでも俺に損はない。どっちも頑張れ! 口に出せばお仕置き必至の叫びを心中ひっそり上げる。


 ――また俺様が先手でいいのか?


 無言で頷く先輩。やる気は充分の模様。

 よし、早く始めてくれ。先輩の気が変わらないうちに!


 ――よおし、二回戦開始だ。いざ勝負!


 緒戦同様、化け猫が羽根を宙に放り上げる。落ちてくる羽根を、咥えた羽子板で真横にぶっ叩く。そこから信じられない速度に乗って襲い来る羽根を、先輩は平然と打ち返した。さすがだ。あらゆるスポーツに嫌われ続けた万年文系肌の俺とは出来が違う。


 ――そうこなくっちゃな。


 こうして、いつ終わるとも知れぬ苛烈なラリーが始まった。


「なかなかやりおるな、お主」


 ――姉ちゃんもな。こんなに骨のある相手は数百年ぶりだぜ。


 互いが打ち出す羽根の軌跡は常に相手の喉元や急所に正確に向けられ、最早どちらが先に羽根を落とすかなどという勝負ではなくなっている。受け損なえば負傷は必至。正月遊びの名を借りた、それは命懸けのキャッチボールのようでもあった。

 羽根を打ち叩くたびに口から洩れ出る喘ぎが、一発たりとも手を抜かないという決意表明に聞こえる。双方相譲らぬ凄まじい死闘。どっちが勝っても損はしないなんて浅はかな考えは、悔い改めねばなるまい。俺は内心赤面の至りだった。

 激しい動きに後頭部の簪が外れ、先輩の長く美しい髪がふわりと宙に舞った。たとえ正月遊びの延長に過ぎないのだとしても、それに真剣に打ち込む先輩の雄姿は何物にも代え難い神々しさを放っていた。

 羽根突きのレベルを遥かに凌駕する打ち合いに、先輩の動作は益々その速度を上げていき、気づけばその姿は残像を残すほどまでに素早くなっていた。ここまでハイスピードに動き回る先輩はさすがに記憶にない。先輩がひとたび本気を出せば、こうもリアルな残像を創り出せるのか。


 ――いよいよ本気を出してきやがったな。


 化け猫が抑えきれぬ愉悦を吐き出すように哮る。


 ――相手にとって不足はねえ!


 先輩の残像は常時眼に見えるほどになり、どちらが実像なのか傍目には判らない。まるで二人の先輩が、お互いの死角をカバーするかのように動き回っている。その実質四つの視線が、時折何かを探すようにあらぬ方向へと向けられたが、それでも試合への集中は全く欠いてないところが凄かった。

 化け猫の表情から笑みが消える。遂に己が劣勢を悟ったのだろうか。

 と、先輩の放った会心の一打を、化け猫は左の前肢で弾くように受け止めた。


「えっ……?」


 なんのつもりだろう。まだスコアは動いていないのに。

 悠然と髪を掻き上げた先輩が、手で掴むのは反則ではないか、と口を切った。


「それとも降参の合図か?」


 どうやら残像を消すのもやめたようで、隣に控える先輩の残像は、無言のまま羽子板の角で項の辺りを掻いている。

 あれ……残像のほうの先輩、項が丸見えじゃないか。何故ならだから。


 ――違うわボケ!


 化け猫の怒号が狭い境内に響き渡る。


 ――分身の術か何かかと思ったら、ただの二人がかりじゃねえか! 反則はそっちだろうが。卑怯者どもめ、俺様の感動を返しやがれ。


 二人がかり?

 つまり残像で二人に見えたわけではなく、最初から先輩が二人いたと。


「先輩、双子だったんですか?」


 ――何ボケてんだおめえは。おめえとこの仲間、一人いなくなってるじゃねえか。


「えっ、あっ、そういえば」


 失念していた。少女が姿を消していたのを。


「もう見つかってしまいましたのっいいアイデアだと思ったんですのにっ」


 簪を刺したほうの先輩が、少女の口調でそう言ってぺろりと舌を出した。声色は真似できないらしいが、こと容姿に関しては先輩に瓜二つだ。


「ど、どういう仕組みなのそれ」

「魔法のステッキで、女神先輩そっくりの着ぐるみを創ったのですのっ」


 ――下らねえイカサマで水を差しやがって。おら、罰ゲェムだ。とっとと一枚脱ぎやがれ。


 しっ仕方がないのですのっ、と恥じらいに頬を染め、振袖の裾をちらりと持ち上げる偽先輩。


 ――お前じゃねえよ!


 化け猫よ、今回ばかりは俺の心の声を代弁してくれてありがとう。


「ふむ、仕方あるまい」


 先輩はさほどの抵抗もなく花模様の振袖を脱ぎ捨て、下に着ていた薄手の白装束を少女から借りた細帯で結び直した。更にはゴムバンドで長髪を後ろに束ね、最前抱いていた下心を反省したくなるような、清楚な出で立ちとなった。


 ――さあて仕切り直しといきますか。にしても、姉ちゃんあんまり色気ねえなあ。


 化け猫が呟くと、すかさず先輩は羽子板を呟きの主に投げつけた。それを己の羽子板で軽く受け流し、あぶねえなあとまた呟く。

 その間に先輩は次の行動に出ていた。台座の許に駆け寄り、〈吽形〉の口から長剣を引き抜こうとする。


 ――無駄だって。人間の力じゃあ鎖一本外せやしねえよ。


 必死に剣の柄を揺さぶりつつ、先輩は油断なく四方へ眼を走らせている。試合中にも見せた、何かを探しているような眼の動き。


「先輩、さっきから何か探してるみたいだけど」

「はいですのっ」既に先輩の着ぐるみから解放された少女が俺の横に立っていた。「ニャンコちゃんがマタタビの話をしてたのでっそれを探してるんですのっ実は残像の下準備で隠れてたときもっ女神先輩の言いつけで探してたんですのっでも見つからなかったんですのっ」


 なるほど、マタタビを探しているのか。俺は前の神社で少女が土と一緒に採取していたある植物を思い出し、持っていたビニール袋を拡げてみた。

 あった。


「これ、代わりにならないかな」


 土中より一本のを取り出し、左右に振ってみせる。


「猫じゃらし!」少女の眼が、バーゲンセールの山からお目当ての品を探し当てたベテラン主婦のように輝く。「いけるかもですのっ」


 早速氷で猫じゃらしを固定した矢を弓の弦に番え、颯爽と打ち出した。ヘロヘロと覇気のない軌跡を描いて、それでも過たず台座の真下にヒットさせたのはさすが弓矢フリークというべきか。

 その矢から猫じゃらしを外した先輩は、どういう訳かそれを〈吽形〉の石像の鼻先に翳し、右に左に振り始めた。


 ――ちょっ、待てこらあ!


 羽根も羽子板も放り出し、高々と跳躍した化け猫が風を切って襲いかかる。しかし先輩は見向きもせず、平然と猫じゃらしを揺らし続ける。石像の目の前で。


「先輩!」

「危ないですのっ!」


 化け猫の鉤爪が、先輩の白装束を鮮血に染めるが如く引き裂いた。かに見えた。

 けれどもその前肢は先輩を通過して虚しく空を切るばかり。


「心配無用。此奴は手出しができぬ。めでたき日に血を見るのを好まぬ故にな」


 やがて雷獣たる威容は半透明の幻影へと移り変わり、程なくして夢幻の如く掻き消えてしまった。


「う……う、うにゃあああああ!」


 代わってネコ科特有の奇声を上げたのは、最前より猫じゃらしを嗾られていた石像のほうだった。しっかと刀剣を咥え込んでいた沈黙の〈吽形〉は見る影もなく、規則的に揺れる猫じゃらしの尖端に前肢をだらしなく差し出して身悶えている。


「〈吽形〉が、本体だったんですか」

「そういうことだ。此奴と打ち合っているうちに、妙なことに気づいた。打ってくる角度や打ち返す反応速度に、右と左で僅かだがズレがあるのだ。動作と視点のズレとでもいうべきものがな」

「動作と視点のズレ、ですか」

「数回程度であれば無視もできようが、毎回毎回同じ具合にズレるとなるとそうもいかぬ。そこで一つの結論に思い至った。左からの反応が微妙に遅くなるのは、その方向が実際には見えていないか、あるいは見づらいのか。いずれにしろ、此奴の本体は別の場所……恐らくは右手側の、この台座周辺にいて、虎の化け物を本物に見せかけ操っているのではないかとな。マタタビを探しつつ、その本体の居場所も同時に探っていたのだ」

「それでもう一匹のニャンコちゃんの石像に眼をつけたんですのねっ女神先輩いつもながら凄すぎるですのっ」


 うっとりした表情で先輩を見つめる少女。

 これには俺も感服せざるをえない。相手の動きのほんの些細なズレから視点のズレを推測し、正しい視点の在処まで特定してしまうとは。やはり先輩には探偵の真似事よりも武術の達人のほうが似合っている。


「くそっこんなんで……うにゃあああ!」


 いいようにじゃらされ続け、化け猫の本体は涎塗よだれまみれの長剣を口から滑らせた。空中でそれを受け止めた先輩は、大した力も込めずに纏わりついていた鉄鎖を外しおおせた。


「ひ、卑怯な真似しやがってええ」


 喉元に剣の切っ先を突きつけられ、化け猫は呻いた。虎じみた異形は作り物限定らしく、その本体は近所の野良猫と見紛うばかりのキジトラ風情。傍から見れば単なる動物虐待に見えなくもない。


「こ、これじゃあ頼光の、マタタビの二の舞じゃねえか……人間どもはいつだってそうだ。まともにやっても勝てねえと知るや、平気で卑劣な手を使うんだ。酒呑童子のあんちゃんに、毒酒飲ませたみたいに」

「何を言うか。同じ手に何度も騙されるお主にも問題はあるのだぞ。何百年も生きていながら少しも成長しておらぬとは、なんたる学習能力の無さ。情けない」

「それに虎の幻覚で俺たちを騙してたこともあるからね。その辺はお互い様ってことで」

「ですのですのっ虎の威を借るニャンコちゃんですのっ」

「くっそお……うにゃあ……」


 急に辺りが明るくなった。頭上を覆っていた雲が晴れたのだ。化け猫が観念したおかげで、周囲に張られていた結界じみたものが解けたらしい。


「さ、三が日じゃなけりゃあ、お前らなんかギタギタにしてやれたのに」

「三が日に出くわしたのが運の尽きであったな。ところでお主、何かこう、変わった様子のは持ってないか」

「金貨?」

「ああ。例えば星型の刻印があるとか」

「星型の刻印?」


 先輩の突飛な質問に、化け猫の声が裏返る。


「猫に小判とはよく言ったものだが、お主ほどの強欲猫ならば金貨にも詳しかろう」

「強欲は余計だ」化け猫は貧相な上唇毛を上下に震わせて、「元々神社の再建資金にするつもりだったんだぜ。涙ぐましいだろ」


 先輩が〈金貨〉という言葉を口にしたのは、これが初めてではない気がする。俺は記憶の糸を手繰り寄せ、そして引き当てた。

 クリスマス・イブの夜。少女が手にした弓を本来の形である木の棒に戻したときに、〈〉〈〉そして〈〉と呟いていた。あのときの〈金貨〉と同じものを先輩は今尋ねているのだろう。

 では、その金貨とは一体なんなのか?


「メダルの類いか? いや、記憶にねえな」化け猫の返事は要領を得ない。「うちにあるのは造幣局が製造した貨幣だけのはずだが」

「まあよいわ。後で金庫を破壊して、存分に調べさせてもらうとしよう」

「えげつねえなあ」


 哀愁を帯びた溜め息が化け猫の口から洩れた。


「その後で盗まれた賽銭を元の神社に返せば、この事件も完全解決というわけだ」

「さすが女神先輩っ名探偵の名采配ですのっ新年早々縁起がいいですのっ」

「あの、話の腰を折るみたいであれなんですが」


 俺が口を挟むと、六つの瞳に睨み返された。先輩はともかく、他の一人と一匹に睨まれる筋合いはない。


「先輩のおっしゃる金貨ってなんなんですか」

「それは言えぬ。企業秘密である」


 全く相手にされていない。哀しい話だがこれも想定内だ。しかも先輩は刀身をギタギタと濡らす涎を一切拭かずに、俺の肩口に戻そうとした。


「ガタガタぬかすでない。鞘は鞘らしく大人しくしておれ。墨で塗りたくったような薄汚れた面をしおってからに。柄を汚そうものならただでは置かぬぞ」


 墨で塗りたくった張本人からまさかの発言。それなら、せめて顔をきれいにする暇が欲しいんですけど。


「そもそも猫じゃらしがあると知っていたなら、何故もっと早く出さぬのだ。たわけが」


 今日の呼び名は活躍云々に拘らず、たわけ者で統一されているようだ。これも輪をかけて哀しい話だが、俺の予想が覆ることはないだろう。本名で呼ばれるなんて以ての外だ。そんな願望は、たとえ賽銭込みで神に頼んでも到底叶いそうになかった。


「そういえば、絵巻物はどこにあるのですのっやっぱり金庫の中なのですのっ?」


 正義の金庫破りを敢行すべく、堂々と神様の通り道を闊歩し本殿へ向かう途中、少女が思い出したように疑義を呈した。

 左肩のぬるぬるした感触に塞ぎ込んでいた俺はその発言にはっとしたが、再び振袖に身を包んだぬるぬる剣の持ち主は、事件さえ解決できれば原因究明には興味がないため無表情のままだ。


「いや、ここにはねえ」


 猫につけるには些か大袈裟すぎる太い鎖を引き摺りながら、降参した面持ちの化け猫がマーキングの如く唾を吐く。


「どこかに捨ててしまったんですのっ?」

「違う。俺様が盗んだんじゃねえよ。別の人間に見せられたんだ、絵巻物の中身をな」

「見せられた?」


 この化け猫が盗んだのではないとすると、少々話がややこしくなる。賽銭泥棒の実行犯であるこの化け猫の他に、犯罪心理を誘発して未来の泥棒猫をそそのかした、黒幕とでも呼ぶべき存在が浮上することになるからだ。


「一体何者なんですのっ誰が絵巻物をニャトランに見せたんですのっ」

「知らねえよ。つうか誰だそのニャトランってのは。俺様をそんな威厳の欠片もねえ名前で呼ぶんじゃねえ!」


 ……ブウーンン。

 奇妙な物音が耳許を擽り、少女と化け猫の舌戦が遠のいていく。お寺の鐘、いや巨大な柱時計の音だろうか。それが神社で聞こえる道理はないのだが。

 ……ブウーンン……。

 一切の音声が溶け合わさり、読み方も判らない神社の片隅で、俺は気が触れてしまったのかと思った。

 ……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。

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