不思議の7

 崩れる建物が吐き出す大量の瓦礫が、プールサイドをさらうように流れてきた。


「きゃーっですのっ!」


 俺が安全そうな場所に退避すると、少女も悲鳴を上げてこっちにやって来る。取り残された形の氷塊は、総身に大小の飛礫つぶてを喰らい表皮を削られ……あろうことか閉じ込めていた銅像を今一度外気に曝し始めた。


「うわ、折角の氷が……」


 瓦礫の波が収まった頃には、上体の自由を取り戻すほどにまで氷は破壊し尽くされていた。

 丸太のような腕が腰から下の氷を打ち砕く。氷結のくびきを脱するのもそう遠くないだろう。

 だが、その先には更に絶望的な光景が待ち受けていた。


「先輩!」

「危ないですのっ!」


 斜めに傾いだ屋根に辛うじて取りついていた先輩が、攻勢に転じた模型の蹴りを躱した拍子にバランスを崩し、足を滑らせた。うっかり手放した盾代わりの板切れが、屋根をバウンドしつつ速度を上げて軒先からダイブし、甲高い音を立て床に落ちた。

 障害物のないグラウンドならいざ知らず、地表は解体済みの鉄骨だらけだ。あんなところに生身の人間が落下でもしようものなら……。


「加勢するですのっ」


 少女は子供みたいな幼い手を矢筒に伸ばすが、矢を探る手指は虚しく空を切るばかり。先刻の乱れ撃ちでストックを切らしたのだ。


「たったた弾切れですのっなんてことですのっ」


 君の弓じゃ届かないだろという率直な意見をぐっと呑み込む。一大事に変わりはない。

 不安定な足場をものともしない人体模型の追撃。不可避と悟ったのか、先輩は翳した長剣で多少勢いを殺したけれど、最後の接地面だった片足が屋根から離れてしまうのを防ぐには至らなかった。

 横倒しになった先輩の身体が、宙を舞った。


「先輩っ!」

「やめてですのっ!」


 絶叫に絶叫が重なる。地球の重力に身を任せた先輩が、鉄骨の残骸に叩きつけられる、正にその直前。

 自由を得た巨大な理事長が、伸ばした左の手で先輩を優しくキャッチした。間髪を容れず空を走った右の手は、人体模型の次なる攻撃を封じその四肢をがっちり掴んだ。

 一瞬の出来事だった。


「あの銅像……君が操ってたの?」


 しっ知らないですのっと少女が大きく首を振ると、僅かに遅れて額のゴーグルも左右に揺れた。


「よい子は関係ないですのっ」


 だが、銅像の思わぬファインプレーは明らかに彼女の叫びに呼応したものだ。俺の意思に反応したとは到底思えない。


「でもっ女神先輩がご無事で何よりですのっほんと良かったですのっ」

「なんだか知らぬが助かった」ひらりとスカートを靡かせ、巨人の掌から先輩が降り立つ。「ところで誰に礼を言えばいいのだ? この随分と大柄な理事長は、急に電池が切れてしまったようだが」


 銅像は見えない氷に閉ざされたように停止し、先輩の礼に応える様子も俺に危害を加える気配もない。右手に収まった人体模型も全くの無抵抗となり、申し合わせたように意思のない立像に戻ってしまった。


「二体とも、動かなくなりましたね」

「我が手で葬れなかったのが心残りだがな。理事長の助太刀は、そこの娘子の指示か?」

「れっ礼には及ばないですのっ当然のことをしたまでですのっ」


 関係ないと宣っていたその口で少女はぬけぬけと言い放ち、小さな人差し指を俺に向けて唇を尖らせた。


「先輩に引っつく悪い虫も、よい子が懲らしめてやるですのっ」

「懲らしめるとな。威勢がいいのは結構だが、生憎此奴は悪い虫ではない」


 諭すように言いながら先輩は俺に詰め寄り、手にした刀剣を俺の肩にと、此奴はただの下僕だと微笑した。

 俺に刺さった剣を見て、少女は見てはいけないものを見たような物凄い形相になったが、そこには一切触れずに無理矢理表情を戻した。それから、


「下僕だったんですのっよい子の早とちりでしたのっ」


 先輩の言をすんなり承け、何度も頭を下げる。


「ごめんなさいですのっ下僕さんに申し訳ないことしてしまったのですのっ反省するですのっ」

「あの、その下僕さんっての、どうにかならない?」

「役立たずの下僕には身に余る尊称であろう」


 先輩が割って入る。


「勘弁してくださいよ……」俺は話題を変えるべく少女を指差し、「それよりもね、君には訊きたいことが山ほどあるんだ。一体この七不思議は、君が引き起こしたものなのか?」

「違うですのっ知らないですのっ関係ないですのっ」


 少女はまたもゴーグルをぶるんぶるん振り回した。頭を下げたり横に振ったり、本当に落ち着きのない子だ。


「そんなはずないだろ。おかげでこっちは大迷惑なんだからね。スマホ弁償してくれよ。どこからプールに水引いてきたんだ?」

「冗談じゃないですのっそんなの貯水池の水がっ勝手に溢れ出たに決まってるですのっ」

「勝手にって」

「よい子はただっ女神先輩と契りっ……お話がしたかっただけですのっ!」


 いやそれはよく判ったから。尚も彼女はもじもじしながら、


「ほんとにほんとですのっよい子は女神先輩と結婚っ……お近づきになりたくてっサンタさんにお願いしただけですのっ」

「サンタさん?」


 思い出した。今宵はクリスマス・イブ。真紅の衣を纏った白髭の老人が、これまた真っ赤なお鼻のトナカイにかせたそりを駆って、年イチの出血大サービスを繰り広げる狂乱の夜。


「お願いしたらっほんとに女神先輩ここに来てくれたですのっよい子の夢が叶ったのですのっ」

「お願いしたらって……」


 そんなはずはないだろう。それは結果論に過ぎない。

 確かにこれだけ怪奇現象が続けば先輩の気を惹くことはできるだろうが、願っただけでプールにピラニアが湧いたり、人体模型や銅像が動き出すわけがない。

 俺はやれやれとばかりに先輩を見た。

 ところが、先輩の眼差しは真剣そのもの。


「娘子。願いごとがどうとか言っていたが、もしやお主が持っているその弓」


 用済みの弓は少女の肩を通して背中に提げられていた。取り回しの容易なサイズと胸部を斜めに走る弦がバナナショルダーを思わせ、武器という感じは全くしない。


「その弓……弓ではないな」


 意味不明なことを口走る先輩に対し、少女はぎくりと身を強張らせ、やがてこくりと頷いた。まさかの図星。


「元は、木の杖か、棒のようなものであろう。それを弓の形に変化させたのだな」

「……さすがよい子の見込んだ女神先輩ですのっなんでもお見通しですのねっ」


 少女が弓を取り出し顔の前に掲げると、一瞬だけその表面を光輝が包んだ。

 直後、弓はその両端を短くしてしなりを失い、弦も消え、手の中には片側に丸いこぶのついた木製のバトンだけが残った。銅像の周りに落ちていた矢も、光の帯と化して瘤の中に一つ残らず吸い込まれた。


「剣……聖杯……金貨」棒と化したかつての弓に視線を落としたまま、先輩が呟いた。「……棒」

「なんなんですか、その棒」

「ぼっ棒じゃなくてっ魔法のステッキですのっ」


 少女はそう言ったきり口を噤んでしまった。代わりに先輩が、


「詳しくは知らぬが、なんでもその棒には願望を現実化する力があると聞いている。娘子の願いに応じて、弓に変じたのであろう」

「願望を現実化……」俺ははたと思い当たった。「じゃあ、七不思議の噂を実体化させていたのも」

「うむ。その棒の作用であろうな」


 クリスマス・イブの夜、少女は先輩と一緒になれるようサンタクロースに願いを込めた。それをサンタに代わって聞き届けた掌中の棒が、七不思議を現実に引き起こして出会いのチャンスを設けた。

 これが顛末だったのか。直接操っていたわけではないが、やはり彼女の存在が主要な因子の一つではあったのだ。


「娘子よ。その棒どこで手に入れた」

「まっ魔法のステッキですのっ」先輩の鋭い声音に、少女は半泣きになって、「拾ったんですのっ盗んだりとかしてないですのっ」

「どこにあったかと訊いている」

「理科準備室ですのっ」


 か……と先輩は独り納得したようだが、その表情は昏くいつもより伏し目がち。疲れているようにも見える。激闘の後なのだし無理もないけれど。

 それでも先輩は質問を続けて、では何故弓矢になど変えたのだ、と尋ねた。言外に、お主に扱いきれる代物ではあらぬと匂わせつつ。


「ゆっ弓矢はっ銃器が発達する前まではっ個人が使う武器としてはっ最強の名をほしいままにしてましたのっ八幡太郎義家はちまんたろうよしいえの例を引くまでもなくっ鳴弦めいげんの儀が示すようにっ弓矢には邪気をはらい悪霊を退散させる力があると信じられていてっしかもよい子の弓は最強の中の最強とうたわれる複合弓っコンポジット・ボウですのっ更に更によい子の矢はっ炎の獣サラマンドルを退治したっレモラの冷却効果のおまけつきですのっ」


 最後のほうはよく判らなかったが、確かにあらゆるものを凍らせる付加価値は目覚ましいものがあった。いかんせん肝腎の弓の腕前があれでは宝の持ち腐れなのだが。

 結局先輩は、弓には向いてないとはっきり伝えることはしないで、


「お主がそうしたいのであれば、今後も弓として扱うのは構わぬが、かような騒ぎを起こすのはやめよ」

「でっでもっ」

「そもそもわたしと懇意になるのが目的であろう? ならばお主も我が家来の一人としよう。さすれば以後も同行できようし、見たところ、そこなる役立たずよりよほど使えそうだ」


 ショックだ。それが正鵠せいこくを得ているだけに余計。俺の献身は無意味だったのか?


「ま、待ってくださいよ。俺リストラですか?」


 先輩は俺の肩を、もとい肩から伸びる剣の柄をぽんぽんと叩いて、鞘がなくては剣が使えぬではないか、と慰めるように言った。お役御免は回避されたが複雑な心境ではある。鞘と家来は果たしてどちらが格上なのか。


「どうだ娘子、まだ不服か?」

「とっとんでもないですのっありがたき幸せですのっ」


 片膝を突いて忠誠を誓うポーズになる。

 先輩は満足げに見下ろしていたが、


「さすがに今宵は疲れた。残る不思議は後日に回すか」

「はあ、そうしましょうか」右に同じくである。その上スマホも靴もない。「お疲れ様でした」

「残る不思議はなんなのですのっ」

「深夜になると、音楽室のピアノが鳴り響くらしいのだが」

「でしたね。元々その音楽室を調べるために、夜中に来たんでしたっけ」


 言葉が途切れたのを機に、なんとなく耳を澄ませてみる。もちろんピアノの音は聞こえない。

 その代わり耳に入ってきたのは、次第に近づいてくる警察と思しきサイレンの音。


「一体誰が通報したのだ。さっき解放したクラスメイトか? 恩を仇で返しおって」

「ま、まあこれだけの騒ぎなんで、近隣の住人かも」


 瓦礫の山となった水泳施設。巨大化して人体模型を掴んだ理事長の銅像。縁の壊れたプールにはピラニアの群れ。金網の亀裂が些事に思える。改めて周囲の惨状を見て取り、俺は後々のことを考えぞっとした。

 一刻も早く逃げないと。


「逃げるぞ」

「はいですのっ」

「あの、いいんですか? ここ、このままにしておいて」


 思いとは裏腹に正論めいたことを言ってみる。


「喧しい。いいから逃げるぞ」

「はいですのっ」


 この二人、案外気が合うのかもしれない。俺は焦げつくような胸苦しさを憶えた。まさか嫉妬しているのか?

 そんな胸中を知ってか知らずか、俺の近くに来た少女は小声で、


「約束ですのっよい子が女神先輩と結婚したがってることはっここだけの秘密ですのっ」


 先輩はいち早く金網を潜り抜けると、短い別れの挨拶を発したのを最後に、常夜灯の届かぬ闇の向こうへ消えてしまった。


「あの、一つ訊いていいかな?」

「なんですのっ」

「七不思議の中に、女子トイレに出没する美少女というのがあるんだけど、もしかして君が」

「しっ失礼にも程がありますのっよい子トイレになんか行かないですのっ」


 何もそこまで否定しなくても。


「よい子はっ校内でも評判の美少女転入生ですのっ変な噂を流さないでほしいですのっ」

「転入生……」


 そういえば、聞き込みの最中に悪鬼やら神社やらに混じってそんな話も聞いた気がする。ということは、この子は単なる弓矢信者の高校生なのか。

 だとすると、トイレの美少女は一体……。


「よい子の質問にも答えてほしいのですのっ」

「質問?」

「その剣、どんな仕組みになってるのですのっ?」


 仕組みって……大方手品か何かだと思っているんだろうな。

 正直に答えた。仕組みはないと。見たままだと。


「ほんとですのっ?」疑わしげな少女の表情は尚も晴れない。「もしかしてっ養分を吸い取ったりするんですのっ」

「俺の? まさかあ」


 鼻で嗤ったものの、体内で生き血をすする妖刀を想像して気分が悪くなったのは否定できない。いや、まさか。いやいや、それはない。ないだろう。多分。


「いっけね」俺はとんでもない忘れ物に気づき立ち止まった。「スマホ置きっぱなしだ」

「取りに戻るんですのっ壊れてるのにっ?」

「警察に見つかると厄介だから」

「なるほど証拠湮滅ですのねっ抜け目ないですのっプロの犯罪者みたいですのっ」


 後半は承服しかねるが、口では何も言わずに少女から離れ、独り元来た道を引き返す。

 無事なほうの梯子でプールに降下し、逃げ行くピラニアを掻き分けスマホ型のがらくたを拾い上げた。

 今夜は散々な目に遭った。何より、今日も先輩は俺の名前をまともに呼んでくれなかった。愚か者だの下僕だの役立たずの下僕だの、耳に届くのは蔑称ばかり。いつになったら、先輩は俺の名を口にしてくれるのだろう。

 そもそも、俺の名を知っているんだろうか?

 さっきまで夜の外気を震わせていたサイレンが不思議と聞こえなくなり、張り詰めた静寂に揺蕩たゆたうのはか細くも流麗な旋律。

 ……ピアノの音。

 校舎を見上げる。

 三階の一室だけ窓が開いていた。恐らくあそこが音楽室。

 窓辺に、制服の少女が立っている。

 少女は部屋の中を向いていて、背中と後頭部しか見えない。ピアノを見ているのか。

 音色が不意に止み、少女がゆっくり振り返る。

 少女の顔が。

 顔だけが。

 何故か俺の眼の前にあった。

 俺は卒倒しそうになった。

 少女の表情は。

 トイレにいるはずの、少女のその表情は。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 後のことはよく憶えていない。

 先輩と初めて会った日の、屋上からの決死のダイブと同じだ。あまりの恐ろしさに、俺は自らその記憶を封じ込めてしまったのだった。

 後日、休み時間に出没し生徒の髪を切り刻む美貌の女幽霊の噂がまことしやかに流れ、長らく空位だった〈学園七不思議〉の末席に堂々エントリーされることになるのだが、それはまた別の話である。

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