不思議の6

「ああ、相手は落武者ならぬ人体模型。廊下の大鏡の先は、理科の準備室に続いていたのだ。場所柄を考えれば、此奴こやつのほうがよほど合点がいく」


 先輩は一人頷くが、動く人体模型に襲われているこの事実、俺には到底合点がいかないんですけれども!


「ま、まあつるつるの頭が、落武者のそれと錯覚させた可能性は否定しませんけどね」


 右半身の剥き出しな筋肉も、遠目なら赤い鎧か流血の痕に見えなくもない。理事長といい模型といい、今日はつくづく禿頭に縁がある。先輩が赤の他人の髪を切ったりするから。


「下がっておけ。我が獲物である」


 強い口調で言って俺を押しのける。


「大丈夫ですか」

「手強いが、広い屋外に出てしまえば存分に剣を振るえる。勝負はこれからだ」


 狭い室内でも縦横無尽に振り回していた疑いは残るが、今は指摘する暇もない。

 先輩が飛び出す。間を置かず人体模型も距離を詰めた。そして壮絶な打ち合いの火蓋が切られたのだった。

 見たこともない先輩の太刀筋から、その本気度が窺われた。今日この日まで俺に見せていたのは、ほんの余技に過ぎなかったのだと思い知らされた。なんだかんだ言って手心は加えていたのだ。

 しかし、それでも今度の相手に剣先が届くことはなかった。剣の描くあらゆる弧をインプットするかの如くにその両眼を見開いたまま、一糸纏わぬどころか筋繊維も内臓も剥き出しの模型は軽やかに舞い、跳ね、先輩の攻撃を躱し続けた。


「うう……」


 俺は身震いした。全力の先輩でも太刀打ちできないとなると、為す術はない。もう一度身震い。特に足先の冷えが酷い。水に浸かった靴をずっと履いているのだから無理もない。

 ふと下を向くと、ぐっしょり濡れたスラックスと靴が作った足許の水溜まりが、薄ら寒い光を反射させて早くも凍り始めていた。

 いよいよ夜も更けて、気温が下がったのだろう。にしても、こんなに早く凍るか?

 正確な時刻や気温はスマホが撃沈してしまったため判らないが、外気に曝されている顔や手は別段寒くない。息も白くならない。

 足先だけが異様に寒い。

 もうじき完全な氷と化すであろう、かつての水溜まり。その一端に落ちている一本の矢を認め、俺は心身共に震え上がった。


「まさか、この矢」


 ……近くのものを、凍らせているのか?


「今頃気づいたんですのっ!」


 誇らしげな高い声が聞こえたが、地声が柔らかいのでさほど脅威は感じない。少女はゴーグルをしたまま尊大に胸を張ってみせた。


「あんたも矢の餌食にしてやるですのっ麗しい女神先輩に言い寄るバカ男どもはっみーんな氷漬けにしてやるですのっいい気味ですのっ」


 やっぱり俺も氷に閉じ込めるつもりなのか。、〈

 いやしかし、少なくとも俺は言い寄った記憶などない。


「ま、待って」諸手を挙げて降参のポーズ。「何か勘違いしてない? 俺別に、先輩に言い寄ったりなんか」

「煩いですのっこの数日先輩にべったりだったくせにっ」

「いやいや、べったりじゃないって。それただの聞き込み、七不思議の」

「黙らっしゃいですのっ!」


 少女は語気を荒げ、足許を彩る真紅のスニーカーをコンクリートにバシンと叩きつけた。やはり怖くはない。子供がむくれているようにしか見えない。それよりも、矢に触れた物体を凍らせるこの厄介な能力をどうにかしなくては。

 即席スケートリンクから足を無理矢理引き剥がす。いや、剥がせない。靴をがっちり取り込んだ氷は俺の脚力をまるで寄せつけない。仕方なく靴をその場に残し、靴下姿で氷から離れた。

 待てですのっ、という少女の叫びを掻き消すように、またしても何かが壊れる物音。

 先輩の仕業かと辺りを窺うと、目下人体模型と格闘中の雄姿をプールサイドにて確認。

 読みは外れた。ということは。

 音の主は、プール内部に嵌まっていた銅像のほうだった。改めて記憶と比べるまでもない、理事長の銅像は上半身がプールの縁からはみ出すほどに、その恰幅かっぷくを一回りも二回りも大きくしていた。


「お……おいおいおい」


 巨大化、しているのか。

 七色に光り巨大化する。理事長の銅像は、とうとう噂通りに不思議を成就してしまった。

 もう理由を考えている余裕はなかった。原理はどうあれ人体模型は先輩と互角の俊敏さで動き回り、銅像はプールの側面を破壊しながら常人の倍近い背丈にまで急成長している。

 元の大きさでさえ、一撃で金網を穿つのだ。あんなのに襲われたらケガどころじゃ済まない。先輩の口癖まで成就しかねない。


「先輩!」


 一応呼んでみたものの、案の定人体模型にかかりきりのご様子。

 こうなったら自力でなんとかするしかない。しかし己の非力はいやというほど判っている。ならば。

 俺は濡れた靴下でタイルを蹴った。弓矢の少女に突進するために。


「なっななっなんですのっ」


 予期せぬ展開に慌てふためく少女。背に提げたバズーカ砲みたいな矢筒からどうにか矢を取り出し、あたふたしながら矢をつがえるが、狙いが全く定まっていない。


「しっかり構えろって! ほら、俺はここだ」

「なっ何言ってんですのっ」

「いいから早く射ろってば」

「よっよい子の腕前をっ甘く見るなですのっ!」


 一人称がよい子……どれだけいい子ぶってるんだ。いや、今はそんなことどうでもいい。俺は自称よい子目がけて直進した。


「よよっよい子の邪魔をするなですのっ」


 引き絞った弓から、ぶおんという間の抜けた音がして、矢が放たれた。

 俺は矢の軌道を見極めるべく一度立ち止まったが、再び走り出した。

 この鈍さならその必要もなかった。遅い。遅すぎる。俺の情けない文系ダッシュに比べても数段遅い。一体どう射ればこうもゆっくりした矢を飛ばせるのか。そのほうがむしろ不思議だった。

 遅すぎる矢を放つ少女。女子トイレの少女に代えて、こっちを七不思議に推薦したいところだ。


「もう終わりか? まだあるだろ、もっと飛ばして!」

「言われなくてもそうするですのっ」新たな矢を手に取り、少女は射かけた。「レッレレレッレモラの弓矢のっ威力を思い知れっですのっ」


 噛みまくりで正式名称のよく判らない弓から二本目の矢が放たれた頃、俺が悠々と躱した一本目は未だ空中をふらふらと泳いでいた。それが完全に失速して地に落ちたのは、なんと少女が三本目を放った後のことだった。矢の周囲だけ時の流れがおかしいみたいだ。

 これはこれで、とんでもない才能なのかもしれない。射手としての適性はマイナス査定間違いなしだとしても。

 更に数本射させた後、俺は無事彼女の許に到着した。


「なっななっ何するですのっ噂の美少女にっ何するつもりですのっ」

「噂?」

「そっそうですのっあんたここの生徒のくせにっ知らないんですのっ遅れてるですのっ」


 噂とは七不思議のことか。とするとやはりこの子がトイレに出没する美少女? その割には普通の人間っぽく見えるが。


「まあいいか」気を取り直して少女に話しかける。「そんなことより、ほら、あいつも俺狙ってるみたいで」


 プールからの脱出を果たした三メートル近い銅像は、両腕を拡げて一歩一歩迫ってくる。巨大化の副作用なのか動きは多少鈍ったようだが、床を踏むたびにミシミシと不穏な音が地を這った。


「それがどうしたんですのっあんたの悪業の報いに決まってるですのっよい子には関係ないですのっ」

「かもしれないけど、このままだと巻き添え喰うかもよ」

「じょっ冗談じゃないですのっ早く離れろですのっ!」

「ほら、無駄口叩いてないで早く射って射って」

「命令するなですのっ!」


 しかし少女の抵抗もそこまでだった。俺の視線を振り払うように身を翻し、迫り来る緑青塗れの巨体に細い脚を震わせつつ、立て続けに矢を放つ。それらは例の如くヘロヘロヘロとやる気のない曲線を描き、一本たりとも銅像に達することなく力尽きてしまう。


「無理かな?」

「レモラの弓矢を甘く見ないでですのっ」少女は弱気な俺の囁きを咎めて、「生き物は時間かかっちゃうけどっあんな金属の一体や二体っ速攻で凍らせてやるですのっ」


 少女と銅像を結ぶ直線上に、矢の残骸が疎らに散っている。

 一瞬というのは誇張のようだが、それでも地表の矢を踏み締め突き進む銅像の足取りは目に見えて速度を落とした。俺が作った水溜まりに端を発する氷の池は、各々の矢が連携して直進する氷の道となり、遂に立ち止まった銅像の足先を早くも氷結し始めた。

 一旦捉えた氷は見る間に二本の脚部を這い上り、次々と結晶化して銅像を包み込む。

 少女は氷の道を器用に滑っていくと、どんなもんですのっと得意げに振り向き、銅像を頭の先まで埋没させた氷の巨塊をぺしぺし叩いた。

 一時的な足止めをという俺の期待を遥かに上回る出来だった。壮観といえば壮観だが、男子更衣室に閉じ込められていた連中もこんな感じだったのかと思うと、暢気に眺めるのもはばかられた。彼女の本来の標的は紛れもないこの俺だ。明日は我が身かもしれないのだ。


「いや、ほんと、凄いな」


 調子を合わせ乾いた拍手を贈る。どうにかして敵意を逸らさねば。どうしたものか。

 俺の思索を中断させるには充分すぎる規模の地鳴りに、何事かと顔を上げる。

 数多の学生が水泳の授業でお世話になった建築施設が、地響きを発して倒壊を始めていた。銀幕の映像のように現実離れした情景ながら、転がり出る瓦礫と不安定な浮き沈みを繰り返す床タイルの揺れに、俺は一歩も動けずしゃがみ込むしかなかった。


「先輩……どこだ?」


 姿を探すが、付近には見当たらない。素早すぎる人体模型もだ。

 まさか、あの崩れゆく建物の中に戻ったのか?

 いや、順番が逆か。室内での激闘の末、その狭さに耐えきれなくなり、思わず建物の支柱をバラバラに……。


「ああっあそこですのっ!」


 細かい震動と共に徐に沈んでいく建物の屋根に、長髪の女性と相対するのっぺりした体型を見つけて少女が叫んだ。まだ決着がつかないのか。先輩が肩で息をしているのが遠方からでも判った。

 月光に照らされた先輩は、いつにもまして美しかった。長い髪を風に舞わせ、長剣を構える凛とした佇まいについ見とれていると、女神先輩かっこいいですのっ、と惚けた声が少女のいる辺りから洩れ聞こえた。うっとりした様子といい先輩に言い寄る男を氷漬けにする過激な行動といい、女神たる先輩に並々ならぬ思慕の念を抱いているのは間違いない。

 だがしかし。軍用ゴーグルを額の上に持ち上げて屋根を見上げる少女の口から、


「月光を浴びた白刃の輝きがっ凝縮した氷の冷たさを感じさせますのっ……」


 というよく判らないが情念の籠もった表現に続いて、


「ああっ女神先輩とっ契りを結びたいんですのっ」


 という穏やかならぬ台詞まで聞こえてくると、色々な意味で不安を憶えずにいられなかった。

 この子大丈夫か?

 ゴーグルを外したその下には、思った以上に屈託のない可愛らしい素顔があったのだけれど。

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