不思議の5

 床のシートはほぼ取り除かれて、俺の行く手は白い床面が奥の飛び込み台まで続いていた。

 にしても、これは一体どうしたことか。さっき降りたときにはなかった水が、今では履いている靴が沈んでしまうほどの高さにまで達していた。あまり冷たくないのは幸いだが、水を吸った靴は履き心地が悪い上に重い。バシャバシャと品のない音を立て、とにかく俺はひた走るしかなかった。


「ん?」


 何度も水に足を取られる忌々しさに、自然と視線は足許に向かう。我ながら騒々しいダッシュが立てた波で不安定に揺らめく水面に、奇妙な影を認めた。

 小さく黒い魚影のようなもの。

 いちいち数えてはいないが、よくよく見れば結構な数だ。身悶えるように水面を跳ね回るそれは、銀の粉を散らした細かい鱗を纏い、パニック映画で観たピラニアそっくりの下顎をしている。

 いや、これは……ピラニアそのものだ。

 肉食魚に腱ごと脚の肉を持っていかれる光景を思い浮かべ、俺は文字通り二の足を踏んだ。活きのいいエサを求めてピラニアが遊泳する学校のプールなんて、存在していいはずがない。後ろには理事長の銅像が迫っている。水嵩は更に増し、今や俺の膝丈に達していた。

 俺は醒めない悪夢に迷い込んでしまったのか。


「ち、血染めのプールって」


 もしかして、こういうことなのか?

 最初からプールの水が赤いんじゃなくて、ピラニアに襲われた際の出血で、赤く染まるという。

 前門のピラニア後門の銅像。いっそ横に逃げるか。だが、よじ登るのに手間取ったらそこでアウトだ。プールの横幅を利用して壁沿いに回り込む手もなくはないが、大幅なタイムロスは否めない。

 もう迷っている暇はなかった。


「うおおおおお」


 俺はそのまま突っ走った。ピラニアの群れに構わず足を突っ込む。靴と魚群の水音でプール内はさながらバタ足の練習みたいな大音響に包まれた。

 ピラニアは襲ってこない。俺の決死のダッシュに畏れ入るように逃げ回っていた。

 そう、ピラニアは実は臆病な魚なのだ。

 図書室の本で読んだことがある。群れで暮らす習性もその臆病な性質にるものだし、自分たちより大きな生き物に対しては、健康体であればまず襲いかかることはない。

 結局ただの一滴も血に染まらせることなく、俺は無事梯子を伝ってプールを脱出した。むろん、大事な情報源となった図書室への感謝も忘れなかった。

 梯子を持つ手の親指にちくりと痛みが走ったのは、割れた液晶の破片が刺さっていたせいだが、傷も浅く出血には至らなかった。当のスマホは今頃ピラニアの群れの下で永い眠りに就いているだろう。さすがに今から取り戻す気力も体力もない。持っていたところで先輩との連絡は叶わない。

 あし音の代わりに大量の水を飛び散らせ、銅像がプールを縦断している。

 足取りのほうは意外に軽やかで、腰が浸かるかというほどの水も大した障害になっていないようだ。どうでもいいが、本物の理事長もあれくらい元気なのだろうか。かなりの高齢らしいが。

 指先に喰い込んだ破片を歯で抜き取りながら、次の逃げ場を探している俺の右手前方より新たなる轟音。続いて悲鳴。

 誰だ?

 先輩の声ではない。若い男の声だ。悲鳴というより、雄叫びに近いような。

 物音も叫び声も、プールに隣接する水泳施設の建物から発せられた気がする。そしてその予感は正しかった。

 鈍い破壊音と共に、建物のドアが内側から吹き飛んだかと思うと、運動着に野球帽の男子が独り、血相を変えて走り出てきたからだ。更にはうちの学校のブレザーを着た男子が数人、後を追うように飛び出してきた。


「なんだ……何事だ?」


 見ると、全員汗だくで髪も上着も肌に貼りついていたが、その割には湯気も立っていないし、顔は可哀想なほど青ざめている。

 俺より前に、このプールでピラニアと戯れていたのか? 少なくとも俺が来るまでは、水はなかったはずなのに。

 口々に何やら叫びながら、我が校の生徒と思しき一同は金網に大きく穿たれた抜け穴を見つけて我先にと駆け込んでいった。何を言っているかは発音が不明瞭で聞き取れない。


「あ、あの……」


 引き留めようとしたが、諦めた。あの様子ではたとえ引き留めたとしても真っ当な会話にならないだろう。それに俺の知り合いは一人もいなかった。見憶えのある顔は皆無だった。

 えらく賑やかな錯乱状態ご一行が全員逃げ帰った後、半壊状態にあったドアがとどめとばかりに吹き飛ばされ、その奥から暗色系のモッズコートが久しぶりに姿を現した。


「先輩!」


 ジュポッ、ジュポッと聞き慣れない靴音をタイルに響かせ、先輩の許へ駆け寄る。

 廊下での煩悶は完全なる杞憂だった。相も変わらず元気そうだ。やっとの思いで合流を果たしたのに、平常通り涼しげな顔をしているのが、俺には少なからず寂しかったのだけれど。

 とはいえ、見た目に関しては別れる前と何点か異なっていた。右手が例の刀剣を握っているのは変わりないが、対する左手が見たこともない長方形の板切れを持っている。それに着ているコートの表面に、ガラス片みたいな透明の欠片が幾つも付着していた。


「大丈夫ですか。なんかガラスの破片が」


 違う氷だ、と先輩は言い、スカートの先にへばりついた大きめのそれを、剣を用いて昼間毛髪を落としたのと同じ要領で振り払った。


「なんでまた氷が」

「話は後だ、奴が来るやもしれぬ」


 奴?


「鏡から出てきた、落武者の霊のことですか」

「前半は当たりだが後半が違う」

「違うって……とにかく逃げましょうよ。そいつが来る前に。もう俺たちの手に負えないですよ。早く警察呼びましょう」

「何を言うか。自らの手で事件を解決してこその名探偵であろうが。ここで逃げては探偵の名が廃る」


 ダメだ。話にならない。探偵の呼称が喧嘩のための免罪符みたいになっている。

 かといって先輩を残して逃げ出すわけにもいかない。先輩の身を案じてというより、ジレンマで動けなくなったというのが本音だ。もっといい雰囲気での一蓮托生なら大歓迎なのだが。

 自分で破壊した戸口の方向を横目に睨み、向き直る先輩。

 盾の如く左手の板を翳す。木でできた板のその表面には、墨で書かれた〈開かずの扉〉なる文字が。


「開かずの扉?」


 固唾を呑んで戸口を見守っていると、あさっての方角から金属同士のぶつかり合う音が。

 銅像の硬質な上体が、プール脇の梯子に取りついて蠢いているではないか。


「先輩、こ、こっちもです!」

「待て」先輩は眼もくれずに剣先でしっしっと追い払う仕種をして、「いくら名探偵のわたしとて、三人同時に相手をするのは骨が折れる。一人ぐらいは自分でどうにかしろ」


 三人。先輩は確かにそう言った。最初の敵と銅像と。一人多い。

 ということは……


「やっぱり気づいてたんですね。あの子のこと」

「当然至極。かように殺気丸出しで窺っていては、寝ていたとて判る」


 男子生徒が出ていった金網の亀裂から、入れ違いに忍び込んできた一人の少女。

 ピンクの可愛らしいパーカーを着て、ホットパンツから覗くほっそりした脚は黒タイツで完全防備。小柄なのは判るが顔はよく見えない。外見に全然そぐわない軍用ゴーグルが、相貌の上半分をガッチリ覆っているためだ。

 しかし、その奥に潜む両眼が俺をきつく睨みつけていることは想像に難くない。渡り廊下を出た直後から、幾度もこっちに射かけているのだから。もしその矢が、蠅が止まりそうなヘロヘロの速度でことごとく地面に落ちるようなことがなければ、俺ももう少し注意を払っていたかもしれない。


「外に出てから、ずっと俺を狙ってるっぽいんですけど」

「もっと前だ。玄関先で待ち合わせたときに、もう物陰に潜んでいたぞ。廊下を移動中も彼奴きゃつは外から見張っていた。これといって我らに仇なす様子もなかったので放っておいただけだ」


 そこまでは気づかなかった。


「誰なんですかね」

「知らぬ。待ちくたびれてトイレから出てきたのではないか」


 トイレ……〈学園七不思議〉の一つ、女子トイレに現れるという謎の美少女。


「じゃああの子も七不思議なんですか?」

「知らぬと言っておろうが。興味もない。第一あの腕前では、今生の間に生き物を射ることは叶うまい。取り敢えず放っておけ」


 先輩のお言葉を拝聴している俺の数歩先のタイルに、ぽとりと新しい矢が落ち、それを放った射手が脱兎の如く走り去っていく。ヒットアンドアウェイのつもりだろうか。タイルに落ちた矢は、長さはないもののやじりは鋭く矢羽やばねもしっかりしている。本格的な作りの矢に見える。どう射ればあんな不恰好な軌跡になるのか。弓かもしくは射手の技量に相当難があるとしか思えない。


「時に、あの変色した海坊主はなんなのだ? さっきから梯子のところでガチャガチャやかましいのだが」


 先輩の言う通り、銅像は金属の擦れ合う耳障りな音を発するばかりで、ステンレスの梯子を上手く登れずにいた。手や足の裏が滑るのだろう。じきに、梯子のもげるような破壊音を立てて禿頭の人影はプールの底に消えていった。怪力が裏目に出たようだ。


「一応、七不思議の一つです」


 バイクか何かが落下したような盛大な水音を聞き流し、俺は言った。


「ほう、一応とはいえ七不思議の検証は進んでいるようだな」危難が一つ去ったのを察した先輩は、盾代わりの板を見せて、「もちろんわたしも遅れは取っておらぬがな。奴と戦っているうちにこんな場所に来てしまったが、男子更衣室の前にこれがあってな」


 なるほど、その〈開かずの扉〉と書かれた木の板は、この水泳施設の一室にあったのか。詳細不明の手強い謎と思われていた開かずの扉は、ご丁寧に掛札まで掲げてあったわけだ。


「当然ドアは鍵が掛かっている。蝶番を少しばかり外して、こっそり中に……なんだその疑わしい眼は。無理矢理ドアを打ち壊したとでもいうのか? 最早証拠はないぞ。生徒らを助けたすぐ後でそこも戦場となったからな。今やドアも壁もただの粗大ゴミだ」

「生徒を助けた……?」


 ドアや壁の件は保留扱いにして、より気になったほうを尋ねた。


「うむ、更衣室の中に巨大な氷の塊が転がっていてな、その一つ一つにうちのクラスの男どもが埋まっていた。氷漬けにされていたのだ。てっきり死んでいると思ったが、氷だけでも壊してやろうと切り崩してみたら、皆ピンピンしていてな」

「てことは、さっきの集団は先輩に襲われてほうほうの体で逃げ去ったわけではないと」

「何故わたしが襲わねばならんのだ。殺されたいか、この愚か者ッ」


 いかにも人斬りっぽい物言いだが、どうやら昼間みたく善良な生徒を追い回して散髪の練習台にしていたのではなさそうだった。あくまで自己申告なので、全面的に信用するのは差し控えるにしても。


「す、すみません。じゃあ先輩の服に付いてた氷は、そのときの切り屑なんですね」


 もう興味を失ったらしく、無言で背を向ける先輩。

 まずい。ここは何か気の利いたことを言って、機嫌を直してもらわなくては。けれども先に口を切ったのは先輩のほうだった。


「それはそうと、何故返信を寄越よこさない。さっきメッセージを送ったのだがな」


 なんと!


「マジですか! いつですか?」

「ついさっきだ」


 なんてことだ。こっちから送ってもろくすっぽ返信してくれない先輩からの、数少ない貴重なメッセージが、今やピラニアの海に沈んでいるのだ。なんたる運命の悪戯か。


「まあ返事したくないのであれば仕方ない。わたしも無理強いはせぬ」

「ち、違いますって。スマホ壊れちゃったんですよ」

「むう……来るか」


 先輩が身を引き締め呟く。

 それが会話を打ち切るための言い訳でないことは、程なく戸口に件の影法師が一つ、亡霊のように浮かび上がったことではっきりした。

 拍子抜けするほどゆっくりした動作で、朧な影が歩み寄る。月明かりを用なしにさせる常夜灯の輝きに照らされ、そののっぺりした体躯たいくが露わになる。


「人体模型!」


 思わず叫んでしまった。

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