不思議の4

 これが大鏡に続く、七不思議の現前なのか。

 俺は俄然興奮した。が、その興奮は七不思議との思わぬ邂逅がもたらしたものではない。内なる知的好奇心が、俺にその七つの色彩の正体を告げてきたからだ。


「これ……ブロッケン現象じゃないか」


 主に山頂などで、太陽を背にして前方の霧や雲に向かうと、そこに映った自身の影の顔付近に大きな光輪が現れる光学的現象を、それが度々起こったというドイツ中部の山の名前に因んでそう呼ぶらしい。確か文豪ゲーテの『ファウスト』にも出てくる山で、ヴァルプルギスの夜にほうきに乗った魔女たちが集まり、サバトを開催すると言い伝えられている。

 その言に従えば、年に一度の聖なる夜に、この地にも怪奇現象の数々が集結しているのかもしれない。

 しかし俺は、そんな思いに駆られつつも、他方では冷静に物事を分析する思考を放棄してはいかなかった。探偵の助手として、いや、今では連絡もつかない先輩に成り代わり、探偵代理として七不思議の解明に当たらなくてはならないのだ。

 俺にできるか?

 違う。できるかどうかはこの際どうでもいい。これはやらなければいけないことだ。幸い、銅像の謎を解き明かしたことで手応えは感じた。やれる。俺ならやれる。ああ、やってやるさ!

 気合いを注入すべく両の頬を張る。


「! ってぇ……」


 結構な勢いで叩いてしまった。急に腕が軽くなったせいか、力加減が判らない。だが今の俺には頬肉の痺れも気にならない。使命に目覚めた一匹狼は存外に力強いのだ。


「よっしゃ!」


 心の片隅に、理事長の銅像がはしたものの、はしていない事実を突いてくる何かがある。

 実際に見てみなければなんとも言えないが、仮説なら立てられる。霧の壁がもっと奥に引っ込めば、映る影は更に大きくなるだろう。霧と銅像の距離が離れることで、影の形状や光源との位置関係が判断しづらくなり、影の正体が銅像であるとは気づきにくくなるはずだ。まして敷地の外……柵向こうの道路から遠目に眺める程度であれば、霧に浮かんだ光彩つきの影に、物言わぬ理事長の関与など察知できるほうが難しい。

 つまり七不思議の一つ、七色に輝き巨大化するという理事長の銅像は、霧の発生と常夜灯の明かりが創り出した、偶発的なブロッケン現象によるものだったわけだ。いざ蓋を開けてみれば、なんのことはない。とんだ枯れ尾花だ。


「よし、次行くか」


 次なる不思議を求め、屋外プールのある高台へ。

 高台といっても大した高低差はなく、芝生の緩やかな勾配を二十歩も進まぬうちにプール周辺のコンクリートタイルを囲繞いにょうする金網に辿り着いた。出入り口は当然閉鎖されていたが、高さ自体は身長程度なので乗り越えるのは容易い。軽くなった肩胛骨けんこうこつの可動域を目一杯使って金網をよじ登る。鉄条網じゃなくて良かった。

 正方形のタイルで埋め尽くされたプールサイドに着地。

 暑い時期に裸足で歩いたことしかないので、真冬に土足で立つと違和感が凄い。当たり前だがプール内部に水はなく、青っぽいビニールシートが底面を隠すように拡げられ敷いてあった。

 シートは四箇所ある昇降用のステンレス製梯子に、それぞれ紐で結わえてある。プールの底面を確認するためには最低でも一箇所は外さなければならない。

 俺は手近なところの梯子を降りて、ロープの冷たさに難儀しつつもどうにか結び目を緩めた。

 頭上で樹々のざわめき。

 続いて起こった折柄の突風にするすると紐が解け、俺の作業を手助けするかのように足許の底が一部露わになった。プール底の色は夏に見た記憶と違わぬ、側面部と地続きの純白。改装したという話も聞かないので、多分白のままだろうと予想はしていた。もちろん血に染まった形跡もない。

 七不思議とは一見無縁の、よくある学校のプール。

 自然が捲り上げてくれたビニールシートをそのままに、再度プールサイドに上る。


「よっこらせっと」


 俺は血染めのプールの謎に肉薄しつつあった。過去に読んだミステリの中に、〈補色残像効果〉による色覚トリックがあったのを思い出したからだ。

 詳しいメカニズムは忘れたが、ある一つの色を凝視した直後に白無地のものを見ると、網膜に存在する錐体すいたい細胞の働きにより、さっき見ていた色の〈補色〉がそこに見えるという一種の錯覚を引き起こす。青の補色はイエロー、緑の補色はマゼンタ即ち赤紫、そして赤の補色はシアン、即ち青緑というように。

 昔は真っ白だった手術着が今では青緑色が一般的なのは、血液や傷口の赤を見続けた後で、白を見てシアンの補色残像を起こさないようにという配慮らしい。

 ということは、その逆も成り立つのではないか。

 つまり、青緑色……例えば、校舎の方向に見える緑青塗れの銅像とかを長時間見つめた後、素早くこちらのプールに、汚れなき白のキャンバスに眼を転じれば、そこに青緑の補色……赤が見えてくるのではないだろうか。

 血染めのプールというのは、わば手入れのされない不憫な理事長との共犯関係が生んだ、錯覚によるものではないのか。

 興奮冷めやらぬ俺は、すかさず金網に取りつき、高台の下に臨む理事長の銅像を凝視した。そっぽを向いて右手を差し出す青緑色の理事長を眼に灼きつける。

 もういいかな?

 素早く首を巡らせる。

 視野に拡がるプールの底面は、赤く……。

 ない。

 もっと集中して見ればいいのか? 再度銅像に眼を凝らす。ゲシュタルト崩壊を起こしそうなほど対象を見つめ続け、もういいだろうと視線をプールへ。

 ダメだ。

 プールは血に染まる気配もなく、依然として白いまま。どれだけ繰り返しても、全然赤く見えてくれない。いやいや、一つ目の不思議は見事解いてみせたんだ。ここで挫けてなるものか。

 俺は半ば金網にしがみつき、躍起になって交互に見比べ続けた。裏庭の銅像からプールの底へ視線を動かす。白い。緑青だらけの銅像から、プール底へ。まだ白い。左腕を掲げた銅像から、プールへ。やはり白い。

 ……ちょっと待て。左腕を掲げた銅像?

 ついさっきまで、上がっていたのは右の腕じゃなかったか?

 慌てて銅像を見る。左腕は大地のほうへ真っ直ぐ下りている。重力に逆らうように上がっているのは反対の手だ。


「なんだ……見間違えか」


 それほどまでに焦っているのか俺は? ガチガチに固く掴んだ金網から手を離す。

 相当緊張していたらしい。肩の力を抜いて眼を擦る。そうだ、焦る必要はない。もっとリラックスしないと。見えるはずのものすら見失いかねない。

 改めて銅像をロックオン。

 差し出しているのは左手ではなく右手。問題ない。じっと見入っていると、心なしか銅像が大きく見えてくる。ゲシュタルト崩壊が始まったか。目線を切れば元に戻るはずだ。ここは気にしない。

 相変わらず補色残像が現れないのを確かめ、舌打ち混じりに金網へ向き直る。

 理事長の銅像。やはり少し大きくなった気がする。

 補色云々は抜きにして銅像を見据える。

 前の大きさを憶えていないので確証はないが、微妙にその背恰好が高くなっているような。いやいやまさか。そんなはずは。気のせいだろう。相手は銅像。無機物の背が伸びるなんて、そんなバカなことがあるはずがない。

 ……いくらそれが、巨大化する噂を持つ銅像だとしても。

 俺は不安を断ち切るように首を振り、暫しプールを眺めて気持ちを落ち着けることにした。何を今更蒸し返しているんだ。一つ目の七不思議はとっくに解明し終えている。あれはブロッケン現象。そして二つ目は、多分補色残像なんだ。

 長々と息を吐いた。雑念もそこに乗せて吐き出すよう意識しながら。


「よし」


 気を取り直し、裏庭に眼をやる。

 銅像が、さっきと逆の腕を持ち上げている。


「…………」


 が、そんなことはどうでもよかった。

 銅像が、さっきより明らかに大きくなっている。


「…………」


 しかし、

 何故逆側の腕が上がっているのか。何故大きく見えるのか。いずれの疑問も、たった今氷解したからだ。

 眼を逸らし、プールのほうを向く……ふりをしてまた銅像を見る。

 それぞれの腕と脚を動かしかけていた青緑色の理事長が、ぎくりと静止した。ように見えた。

 これも錯覚か?

 しかし、銅像の足許に足場が見当たらないのは絶対に錯覚ではない。

 。唯一の足場を元の場所に置き去りにして、不動であるはずの銅像は、歩いて、こっちに近づいているのだ。


「あの」


 金網の向こうに声をかける。返事はない。聞こえているかどうかも判らないが、とにかく俺は続けた。


「動いてるの、バレてますよ」


 相手は無言のまま微動だにしない。


「なんか、〈ダルマさんが転んだ〉みたいになってますけど」


 やはり動きも返事もない。俺は裏庭のほうを指差して、


「元いた場所から、だいぶ離れちゃってますよね?」


 次の瞬間、銅像は全力で突進してきた。


「うわあ!」


 イノシシの如き勢いで、頭から金網に激突。衝撃で俺はアスファルトの地面に背中から叩きつけられた。


「ってえ……」


 背筋に走る痛みを怺え、金網を見る。つるつるの頭頂部は、ただの一撃で金網を凹ませ、その一部に亀裂を生じさせていた。能のないラガーマンじゃあるまいし、もっとその燕尾服姿に相応しい紳士的行動を採ってほしいと思わなくもない。

 とはいえ頭突きの効果は覿面だった。もう俺が直視しているのも構わず、銅像は自由気儘に動き出した。破れた金網に両手を突っ込み、力任せにバリバリ引き裂き始める。


「うわわわわわ」


 まずいな。あの様子からして、俺に害を為そうとしているのは間違いない。侵入を……いや突入を果たすのは時間の問題と思われた。さっさと逃げ出さないと。怪力の理事長から距離を置くべく、慌てて起き上がった。

 まさか俺と握手なりハグなりして親睦を深めようというわけではないだろう。仮にそうだとしても、あの馬鹿力でそんなフランクな行為をされたらどのみち大ケガだ。

 なんてことを考えつつプールサイドを駆け出した俺は、ブレザーのポケットから何かが落ちたのを視界の隅に捉えた。

 あ、スマホ?

 気づいたときには手遅れだった。コンクリートのタイルにスマホが落下せんとするその軌道上を、次の一歩を踏み出そうとした俺の右足が掠めた。


「やべっ」


 蹴り飛ばされたスマホは、吸い込まれるようにプールの内部へ落ちていった。


「あちゃー……」


 スマホの安否も気になるが、まずは逃げなくては。

 そう思ったのも束の間、結局俺はプールの中へ飛び降りるほうを選んでいた。スマホ中毒でも依存症でもないこの俺が、ただ先輩との唯一の連絡網を失いたくないという一心のみで、死地に残る途を選んでしまったのだった。

 そして、それはやはり最悪の選択だったらしい。白地の上に横たわる憐れなスマホを拾い上げると、まず前面の液晶が見るも無惨にひび割れている。続いて本体から滴り落ちる生温い水。どこから湧いて出たのかプールの底にうっすらと水が溜まっていて、そこに落ちた防水仕様でないスマホは一切の操作を受けつけなくなっていた。


「おい、マジかよ」


 俺に舌打ちする間も与えず、プールを揺るがす不吉な震動。同時に轟音が響き渡る。金網を突破した恐るべき理事長が、プール内への着地を果たしグラグラと揺れ動いていた。


「いっけね」


 急いで逆方向に走り出す。

 近場の梯子は危険すぎる。とにかく、追手より早く向こう側の梯子に辿り着かなくては……!

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