不思議の3

 そして夜。

 それが聖なるものか否かは神のみぞ知るところなのだけれど、それでいていつもとはどこかが確実に違う、心がざわつく夜がやって来た。

 校門の堅く閉じられた通用口をどうにか乗り越え、不穏な暗闇に溶け込んでいる玄関口へ赴いた俺は、一足先に到着していた先輩に一頻ひとしきり愚痴られた後、〈七不思議〉の実地検分に取りかかることとなった。

〈開かずの扉〉を除く五箇所はいずれも場所が判明している。玄関から最も近いというもっともな理由で、先輩に従い教室棟へ向かう。


「家に帰ってないのか?」


 学校指定の上下にマフラーを巻いただけの俺を見て、先輩が問うてきた。


「いえ、一旦帰りましたけど」

「何故着替えぬのだ」


 先輩は私服だった。


「めんどくさいからですよ……」


 肩に剣を刺した人向けの既製服など存在しないのだ。肩口の生地が小さいタンクトップならそのまま着用できるが、この季節には夏炉冬扇かろとうせんも甚だしい。

 冬の月明かりは寒々しい光を窓から射し入れ、暗い廊下を一層冷え冷えした感じにしていたが、昼間の寒さは日が暮れてむしろ弱まったようで、体感温度もさほど低く感じない。帰宅時にテレビで観た、今年は山間部を除いてホワイト・クリスマスはお預けのようですというお天気お姉さんのお言葉が、いよいよ真実味を帯びてきた。

 やっと夜目にも慣れてきて、足許さえ気をつければ校内移動も苦ではなくなった。それでも、真夜中の鏡はやっぱり不気味だろうな……持ち前のチキンぶりを遺憾なく発揮しつつ、モッズコートを羽織った先輩の背後に隠れるように少し身を縮める。


「寒いのか情けない。今宵は息も白くならぬというのに」

「はあ、すいません」


 臆病風に吹かれた寒さを指摘されるよりは自尊心が傷つかずに済むので、敢えて訂正しないでおいた。

 昼間の件に思いを馳せる。怪我の功名というべきか、過去の失踪事件を振ってみただけで、こうも先輩が調査にノリノリになるとは思わなかった。というより、よほど教師の失踪に触れられたくないのだろう。先輩自身なんらかの関わりがあると見て間違いなさそうだ。かなり気にはなるが、容易く口を割ってくれそうにないし、こっちも追々調べてみよう。

 そんなことを考えているうちに、教室棟一階の突き当たりに差しかかった。鬼が出るか蛇が出るか、はたまた噂通りの落武者か。


「しかし何故に落武者の亡霊なのだろうな。この辺りが昔古戦場だったとは聞いたことがないが」

「そうですねえ」


 俺はスマホを取り出し、資料調査や聞き込みで得た情報をまとめたメモアプリを開いた。

 我らが名探偵殿はメモの類いを一切取らない。ではその超人的頭脳に凡て記憶しているのかというとそんなわけでもなく、入手した情報は俺の手許にしか残らない。

 情報共有を口実に、先輩とSNSで繋がりたい旨も以前伝えたのだが却下された。SNS自体使っていないらしい。連絡先の交換だけは済ませているが、向こうからメッセージが来ることはまずなく、こちらで送信しても〈ああ〉〈いや〉〈うるさい殺す〉程度しか返ってこない。SNSも使ってないなんて、もしかしてこの人も俺みたく友達少ないんだろうかと思ったりしたが、クラスメイトとお喋りしているところも結構見かけたし、俺ほど孤立しているのでもなさそうだ。

 あの性格にも拘らず、である。どうにも納得がいかない。


「さて、着いたはいいがどうしたものか」


 先輩の声に、スマホから顔を上げる。

 前方に巨大な鏡面。昼間と同じ場所だが、たった半日の経過で印象は一変する。

 暗色に塗り込められた視界。風音一つない全き静寂。空間はおろか時間すら凍てついてしまったかのような、静物画の世界に先輩と俺は佇んでいた。ここでは人間のほうが異物なのかもしれない。そんな気さえした。


「鏡に異状は……なさそうですね」

「見れば判る。試しに割ってみるか。この程度の造りなら一撃で終わる」

「そ、それは最後の手段にとっておいてください」

「ならばどうする。痺れを切らした落武者がのこのこ出てくるのを待つか?」


 言いながら、とっくに痺れを切らした様子の先輩が素手のまま鏡に向かって上段斬りを繰り返している。不必要なやる気がみなぎっているのは一目瞭然だった。


「確かにおっしゃる通り、ここが古戦場だったとか、墓地や刑場の跡地があったという情報はないんですよね。でも、火のないところに煙は立たないとも言いますし」

「落武者だ。落武者であることがおかしいのだ。何かと見間違えたのだろうな。問題は何を落武者と見間違えたのか。よもや鏡に映った己の姿などではあるまいな」


 正直な話、自分としては〈七不思議〉の信憑性はかなり低いと見ている。殺傷事件に発展しかねない先輩の暴挙を抑えるべく用意したに過ぎないのだから。

 とはいえ、こうして捜査の真似事をすることで、正しい探偵ごっこを経験してもらうという効果はあるはず。なので、この場が不発に終わっても個人的には大した問題ではなかった。

 しばらく大鏡に見入っていた先輩が、ゆっくり振り返る。

 その動きに呼応するかの如く、鏡面が音もなく

 ん……回転? 鏡が?

 なんでだ?

 鏡面があったはずの、今や黒々と空いた漆黒に浮かぶ影。

 人のような何かの影。

 外界の光はそこまで届かず、不明瞭な輪郭以外はさっぱり判らない。

 俺は怖気おぞけ立った。


「ここは後回しだ。ほかを当たるぞ」


 無感情に先輩が言う。後ろの人影に気づいていないらしい。


「せ、先輩」


 渇いて張りつきそうな喉を懸命に震わせ、先輩を呼ぶ。がしかし、肝腎なその先が言えない。

 闇溜まりから人影が身を乗り出す。まだはっきりした姿は確認できない。いや、確認はできないのだが。

 ……ここは〈学園七不思議〉の一つ、落武者の霊が映る大鏡なんだぞ。てことは。あの影は。

 落武者の霊以外の、なんだというのだ。

 人影が、落武者の霊かもしれない人影が、先輩に忍び寄る。

 何をする気かは判らないが、まさか自分を見つけてくれたご褒美を与えるわけではないだろう。人影の眼に当たる部分が、禍々しい輝きを放っている。

 先輩はまだ気づいていない。


「せ……先輩」俺は全力で声を絞った。「う、うし……」


 後ろ、と言い終えるよりも早く、先輩は俺の肩から剣を抜き取った。

 振り向きざまに一閃。

 だが躱された。影は横ざまに飛び退いて、廊下の隅に身を潜めた。


「貴様、何奴だ!」


 夜の静寂を切り裂く誰何すいかの声。しかし相手は答えない。這うように廊下を滑り、最前まで鏡のあった空間の奥へ呑み込まれるように消えてしまった。


「待て!」


 剣を手に、なんの躊躇ためらいもなく先輩は暗闇に飛び込んでいく。


「せ、先輩、ま、待って」


 ください、の言葉を待たずに再び突き当たりの壁は回転し、先輩の後ろ姿を一部の隙なく覆った暗闇は、鏡面の向こうに閉ざされた。血色の悪い間抜け面が、ただただ俺を見つめ返している。

 今やなんの物音も聞こえてこない。数秒前までの出来事が夢か幻のようだ。いや、厳然たる事実が二つ。

 先輩が消え、肩の剣も消えた。

 狐につままれた気分で、恐る恐る大鏡の前に立つ。

 まさかこれが回転する隠し扉だったなんて。だが、どうしてこんな仕掛けを用意する必要があるのか。やはり今し方出現した謎の人影――落武者の霊的な――が、自由に往来できるようにか。けれども幽霊であれば、鏡など素通りできそうなものだが。

 鏡の縁に手を添える。ごくり。唾を飲み、さっき動いた方向へ押す掌に力を込める。動かない。大鏡はびくともしなかった。


「……なんだよこれ」


 俺の腕力が足りないのか。どれほど力強く押し込んでも、鏡はあたかも壁と一体化したかの如くだ。謎の人影の正体を探る間もなく、名探偵たる切り裂き魔とその頭脳たる助手は、〈七不思議〉の一つにハマってこんな形で分断されてしまった。もしこの場に先輩がいたなら、嬉々として両断に及んだか、あるいは体当たりでもかましたかもしれないが、俺にはそんな破壊活動に着手する力も度胸もない。

 寒かった。

 左肩が薄ら寒い。どうせ刺さっていても、使いこなせなければ無用の長物。重荷が取れて楽になったはずなのに、心細さは募る一方だった。

 鞘としての理不尽な任務からは解放されたが、解放感はゼロに等しい。日頃は先輩の迷探偵ぶりに辟易へきえきしていても、いざ荒事あらごとになると俺は全く無力なのだと痛感せざるをえない。

 待つしか、ないのか。

 今はただ、先輩が戻ってくるのを待つよりほかになかった。



 どれほど経っただろうか。

 ガラス窓を揺さぶる風音に、ふと窓の外に眼を向ける。

 月影と防犯用の常夜灯に蒼白く照らし出された裏庭に、宵闇を攪乱かくらんせんと霧が立ち込めていた。

 既に何度か先輩宛にメッセージを送信しているが、案の定梨のつぶて。それまで鏡を直視する怖さと完全に眼を離す不安の折衷案として、大鏡を横目に教室側の壁にもたれ三角座りをしていた俺は、表の様子が気になりそろそろと立ち上がった。

 鏡の果てに消えた先輩の消息はもちろん気がかりだったが、いつまで手をこまねいていてもらちが明かない。引き離された事実は拭いようがないのだ。いい加減こっちも動かなくては。

 渡り廊下まで引き返し、裏庭に降り立つ。

 恐らく貯水池の方角からだろう、学校の敷地を隔てる鉄柵脇の常夜灯に照らされたミルク色の濃い霧が、裏庭の制空権を脅かすべく辺り一帯を覆っていた。

 貯水池から緩やかに吹く風で霧は朧気に揺らめいていたが、それでも真冬の寒さは感じない。むしろ霧の発生は気温の高さを示していた。壁や床の冷たさに震えているより、よほど過ごしやすい。

 幾分気が楽になり、視野を巡らせる。

 この付近には、〈七不思議〉のうち実に三つが密集している。

 落武者の映る大鏡のほか、七色に輝き巨大化するという銅像と、数十メートルあまり離れた高台に位置する屋外プール。〈七不思議〉では血染めのプールと呼ばれているその屋外プールだが、開かずの扉とプールに関しては、そのシンプルな名称が示す通り情報はほとんど集まらず、詳細もほぼ不明。開かずの扉に至っては場所すら特定できていないのが現状だ。


「ん?」


 深い霧は我が校の最高責任者におそれをなしたのか、手前の暗闇を薄ぼんやりした乳白色に染めるばかりで、それ以上の侵蝕を阻まれている。まるで水際から湧き出る亜空の瘴気しょうきを、銅像に宿るこの地の守護神が伸ばした片手でもって制しているかのよう。実際には、台座も低く目許も極めて柔和な銅像にそんな威容があるはずもないので、単に気流の悪戯なのだろうけれども。

 むしろ俺が気になったのは、常夜灯が濃霧のスクリーンに映し出した、銅像の影のほうだった。緑青でくすんだ銅像は、光を浴びてもその鈍色を際立たせるばかり。

 だが、その先に群がり集う霧の塊に、茫乎ぼうこと浮かび上がる銅像の影は、少し様子が違った。人型をした暗い影の周りに、後光の如く奇妙な輝きがまとわりついている。

 幾つもの色合いが混じり合うことなく、思い思いの方向に光芒を飛ばしているのだ。それは銅像の影から放射される、虹色の光背こうはいのようでもあり。

 ……七色に輝いて、巨大化する理事長の銅像……。


「ま、まさか、これ」


 これが大鏡に続く、〈七不思議〉の現前なのか!

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