第4章 Ⅶ

 ――ヒューロもアリスも、馬になど乗ってはいなかった。一方は必死になって自転車を漕ぎ、もう一方は足を完全に地面から浮かせている。まるで、見えない翼でも背中に生えているかのように空を飛んでいたのだ。ちょうど、ムササビが滑空するように時折、背が高い建物の側面に張り付き、人間離れした跳躍を繰り返す。少女は、まるで蛙みたいだなーと思いつつ、完全に飲み込めない驚愕に酒臭い泡を飛ばす。

 右の建物、左手の建物、あるいは地面スレスレ。まるで、蝙蝠が自由気ままに飛ぶような移動に、アリスは驚きを隠せなかった。


「ヒューロちゃん飛んでる! え、なんで、まさか、天使!? 堕落した地上に舞い降りし翼なき天使なの!? お祈りする? ポケットに二ペンスしかないけど寄付する!?」


「振り子の原理を応用し、ワイヤーを使って跳んでいるだけです。この和傘があれば、私は馬よりも早く移動可能だと鼻息荒くして胸を張ります。それよりも、前を向いてくださいと叱責します!!」


 和傘を片手に頭上を飛ぶ仲間から厳しい声が落ちてくる。確かにヒューロの移動は円弧を連続で描く独特の飛行方法だった。アリスは追い抜かれないように必死の形相でペダルを回す。すると、隣に一頭の馬が並んだ。何気なく一瞥し、顔から血の気がサーッと音を立てて引いていく。


「久し振りだな〝茶髪〟」


「はい、私のような卑しい犬畜生にも劣る下賤な身分の小娘などただの《茶髪》で十分です。っていい加減にしろや! 自分が綺麗な金髪だからって調子こいてんじゃねえぞ!!」


 隣を並走するヤード。フローレンスと部下一人の姿に、アリスはアルコールの余韻に手を貸して貰って文句を飛ばす。女騎士は複雑そうな顔で舌打ちを一つ飛ばした。


「まさか、こんな形で再会するとはな。そこの日本娘よ。変装しているようだが、私の目は誤魔化されんぞ。その芸当は、あの夜にもう見ている!」


 ヒューロが数秒間だけフローレンスの真横に並んだ。その顔は、好戦的な笑みを浮かべている。


「こんな真っ昼間から男女二人で仲良く馬に乗りますか。それは、随分と楽しそうですね。と、クスクス小馬鹿にするような笑みを浮かべます」


「なっ。これは事件解決のために仕方なくだ! 手前らこそ、ヘレン・ストーナーを誘拐した癖に。神妙に御縄につく覚悟は出来てんだろうな!!」


「ふざけんなよ手前! 今朝の新聞を読んでねえのか! ヘレンお嬢様の義母、シャルロット・ストーナーは腐れ女なんだよ! 今はまだ、家に返すわけにはいかないんだ!!」


 ワイヤー、自転車、馬に乗る四人の言葉が矢となり弾丸となって交わる。

 ヘレンを捕らえた馬車は、その大きさから狭い裏通りを進めない。なるべく表の目立つ大きな通りは使いたくないのか、何度も道を変え、こちらを振り抜こうとする。流石は二馬力か。簡単には追いつけない。風の中で、皆は後方に言葉を落とさないように、叫びながら自身の心情を語る。だが、そろそろチェルシーから出てしまう。このままでは、大勢の人間に注目されるだろう。まだ日も高い時間帯に人攫いなど、正気の沙汰ではない。

 フローレンスが前を見ながら、その眼光だけはアリスに向けた。一方、ジェイクとヒューロはお互いに睨み合っている。


「イブニングスタンダートの朝刊か。……業腹だが、我々ヤードもシャルロット・ストーナーのあくどさに懸念を持っていた。茶髪よ、サザード銀行で三万ポンドの強奪事件やその他の事件。貴様らが盗みを働いた連中は皆、悪人だった。ならば、今回もそうなのか?」


 大きく右へ反れる曲がり角。ヒューロは内角の建物を利用して円弧を描くように旋回、シャルロット操る白馬が颯爽と曲がる。アリスは歯を剥き出しにした恐ろしい形相で上半身を内側に傾け、三輪を浮かせながら何とか曲がりきった。黒いゴムがアスファルトの地面に一層濃い影を刻む。


「そうに決まってんだろ! 嘘だと思うならヘレンお嬢様に直接聞きやがれ。私はな、たとえ地球の裏側まで御嬢様が連れ去られても助けるんだよ。おい、ヤードの金髪。手前らはあの子を助けたくないのかよ。良い子なんだぞ。私みたいな貧乏でロクデナシの女にも態度を変えずに接してくれるんだぞ! 手前らがどれだけの正義か知らねえが、正義かかげて皆幸せになるんなら、苦労しねえんだよ!」


 足はパンパンに筋肉が張り、口の端に胃液が漏れ出す。心臓は今にも爆発しそうで、少しでも集中力を切らせば、そのままぶっ倒れてしまいそう。それでも、アリスは叫ばずにはいられなかった。


「私は、生きるためにパンを盗んだ! 賭け事でイカサマした! 人の顔を殴ったこともあるし、骨を圧し折ったこともある。そうしないと、生きていけなかったからだ。悪い人間だよ、私は。けどなぁ、それでも、私に助け求めて涙を流した小娘一人守れないような屑にはなりたくねえんだよ!」


 出会って一週間も経っていないとか。その場の勢いとか。正直滅茶苦茶怖いとか。そんなもの、今はどうでもいい。


「手前ら、ヘレンお嬢様を助ける邪魔してみろ。頭が切り落とされても手前らの首に噛みついてやるからな!」


 いつもは人並みの分別を持っているアリス。しかし、この凶暴性こそが彼女の本質でもある。


 シャルロットは何か眩しい物を見るように目を細め、手綱を強く握り直す。


「私は、自分の目で確かめなければ気が済まない性質だ。貴様の全てを信じたわけではないが、一時休戦といこう。どのみち、ヘレン・ストーナーを助けなければ話は進まない」


「ちょ、ちょっと、隊長、いいんですか? こいつらは、これまでにどれだけの悪事を」


 ジェイクが上司の腰に腕を回しながら抗議するも、シャルロットは皮肉気味に微苦笑を浮かべ、淡々と語る。その横顔に、アリスはタダならぬ寒気を覚えた。今頃になって、自分がどれだけとんでもないことを言ったのか、だんだんと実感してきたのだ。


「私の理念は変わらん。必ずや、バイオレット・ムーンを捕まえる。ならばこそ、目先の面倒事を先に片付けよう。それだけの話であり、これ以上の妥協などないさ」


 それはつまり、ヘレンを取り返した後は、標的がアリス達に変化するということだ。きっと、堅物のヤードにしては寛大すぎる譲歩だろう。


「礼は言わねえぞ、金髪」


「悪党の礼などいらないさ、茶髪」


 酒場か賭博場、あるいは戦場で似合う笑みを交わし、アリスはペダルを強く漕ぐ。少しでも早く、ヘレンの元に辿りつけるように。


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