第3章 Ⅱ


「え? じゃあ、この新聞に掲載されたヘレン御嬢ちゃんの絵って元は隊長が描いたのかよ。馬も銃も剣も得意で芸術の神にも愛されてるってか。流石は、俺達の隊長だぜ! 鼻が高いってもんだ」


 ウェストミンスター寺院管区警察署のオフィスで、血の気が多そうな若い男が新聞片手に声高々と語る。そんな様子に、同僚達は呆れつつも頬を緩ませていた。誰もが隊長の才能を羨望しているからこそ、彼の大袈裟な言葉を無碍には出来なかったのだ。

 紺色の制服に身を包み、コート掛けや椅子にオランダガラシよりも濃い緑色のコートをかける連中の正体はスコットランド・ヤードが新しく設立した特殊任務部隊アイゼンのメンバーである。パトロール中の者を抜かし、総勢十八名がオフィスで書類仕事に勤しんでいた。といっても、時刻はすでにお昼。皆が思い思いに食事を取っている。

 歩き売りをしている商売人からフィッシュ&チップスを買った者。妻手製の弁当を持参した者。朝に屋台で買ったミートパイをアルコールランプで温める者まで様々だった。血の気が多い男・ジェイクは二つ下の妹が作ってくれた鰻の燻製サンドウィッチを水でも飲むように完食し、椅子に座って再び新聞に視線を落とした。パイプを咥え直し、プカプカと紫煙を天井に昇らせる。休憩時間なのを良いことに、完全にだらけきっている。


「けどよ、この新聞の記事はねえぜ。俺達が獲物を逃がした批判が一面記事を覆ってやがる。あんな妖術めいた手品使う奴なんて、そう簡単に捕まられるものかよ」


 ジェイクの言葉に、周りの同僚も次々と賛同の声を上げたのだ。


「ヘレン御嬢を連れて逃げた二人は、土地を知り尽くした逃走で我々をまいた。セブンダイアルズの盗人集団だって、ここまで腕を磨いていない。こいつは、相当な手だれだな」


「男に女三人っておかしいだろう。この前の地下トンネルは四人だけじゃ不可能だ。きっと、まだまだ仲間がいるはずだぜ。畜生、今度は必ず捕まえてやる」


 握り拳を片手に。歯軋りを激しく。誰もが義憤の炎を強く燃え上がらせていた。その時、オフィスのドアが静かに開かれた。〝彼女〟の登場に、椅子に座っている者は尻を蹴飛ばされたように立ち上がり、全員が直立不動の体勢を取る。胸に赤い勲章を付けて登場したのは、フローレンス・アルデミア。美しくも凛々しき女騎士だ。皆を一瞥し、柔和な表情で微苦笑を零す。その横顔に、ジェイクは心臓を高鳴らせていた。


「昼休憩まで堅い態度を取らずとも良い。皆、楽にしてくれ」


 そう言って、フローレンスが自分の席に座る。オフィスは対面するように机が二列に並び、彼女の席だけ上座に位置する。彼女が尻を少しだけ上げて椅子の感触を直した瞬間、数名の部下が一斉に歩み寄ってきた。その中に、ジェイクもしっかりと混ざっていた。


「隊長。喉は渇いていませんか? 紅茶に珈琲、ココア、なんでも淹れますよ!」


「お食事は済んでますか? もし、よろしければ美味いキドニーパイを出す店を知っているんですが、いかがでしょうか? 御馳走します。いえ、御馳走させてください」


「じじ、じつ、実はぴか、ピカディリーにある人気絶頂中のみみ、ミュージカルのちちチケ、チケットを一枚余計に買ってしまって。い、一緒に、いき、いきませんか?」


 親愛なる女王へ貢物を捧げる兵士かあるいはこぞって求婚する晩餐会の一幕か。フローレンスは目を瞬かせ、喉奥に言葉を飲み込んでしまう。特殊任務部隊アイゼンのメンバーは彼女がスコットランド・ヤード全署に自ら出向き、選りすぐり、スカウトした者達ばかりだ。けっして、彼女に好意を抱く連中だけを適当に集めたわけではない。


(……まあ、そういう俺だって、最初の頃は〝女の癖に〟って見下してた連中の一人だったけどよ。スカウトに乗ったのも、昇進に利用しようって腹だった。下層中流階級(ロウアー・ミドル)のままじゃ、妹を良い学校には通わせられないからな。今となっちゃ、大甘だったぜ。この人は部隊が設立されてから、すでに三十人以上の悪党を検挙した。それも、強盗に殺人鬼。凶悪な連中を前にして、この人は怯まず、果敢に戦った。この人は、本当の戦士だ)


 本来、ヤードには管轄する地区が署毎に分配されている。よって、A管区のヤードが特別な理由でもない限りB管区では行動を制限されるのだ。金融街・シティにいたってはシティ警察が設立され、ヤードそのものが〝動けない〟。これでは、多種多様な犯罪者に対応出来ないのだ。とくに、盗む場所を好き勝手に変える怪盗〝バイオレット・ムーン〟のような存在は厄介極りない。各署と情報の共有、調査は遅れる一方なのが現状だ。


(そもそも、事件が始まる度に〝事件解決調査なんたら係〟を決める会議を決める会議をするのがおかしいんだよ。もっと動けっての。前の部署じゃ、現場まで馬使うなって言われるしよ。迅速な解決が基本じゃねえのかよ。……今のヤードは駄目だ。昔に比べて改善されたけど、それでも足りない。誰かが、今のヤードを変えないといけない)


  特殊任務部隊アイゼン。早急に解決しなければいけない強盗や殺人などの〝重大事件〟に限り、全ての管区で自由に行動可能な権限を持つ。銃器の装備を許可され、その戦力は英国陸軍の一個小隊にも匹敵する。剛力を以って暴力を征する。それだけの力を彼女と彼らは持っている。当然、批判の声もあった。設立されて二カ月も経過しない間、何度ゴシップ誌に叩かれたことか。元同僚からの嘲弄もあり、給与も前と比べて上がったわけではなく、けっして待遇は良いとは言えないだろう。それでも、ジェイクはここを辞めようとは思わない。ここなら、本当に正義が必要な時と場所に〝届く〟からだ。


(こんなに真面目で正義感に溢れた人。俺は他に知らない。確か、亡くなった父親が軍人だったんだよな。その人の影響を受けて、こんな風に? ……俺って、この人のこと、まだほとんど知らないんだよな。せいぜい、紅茶よりもココアが好きってことぐらいだし)


 ジェイクが知らず知らずフローレンスを興味津々に眺めていると、とうの本人から声をかけられた。


「ジェイク。先程から私の顔をジロジロ見ているが、私の顔に何かついているか?」


 隊員暗黙の了解が一つ。フローレンスに誰かが話しかけられた場合、その者が返答し、会話が途切れるまで他の者は口を噤む。よって、オフィスは沈黙し、皆がジェイクの言葉を待った。男は己が失態に頬を羞恥で染めた。男性が女性の顔をジロジロ見るのは、英国紳士として恥ずべき事態である。ここで返答を間違えれば、同僚からどんな嫌味をぶつけられるか。何より、敬愛する隊長に申し訳が立たない。


「……えっと、いや、その。何か、考え込んでいるような様子だったので、気になってしまい、ました」


 ロンドン生まれは賭け事大好き。ジェイク、これまでにない渾身の賭けに出る。ここまでの緊張感、エプソム・ダウンズのダービーレースで五ポンド賭けた時以来だ。彼の周りだけ、空気が張り詰めていく。すると、フローレンスはやや驚いたように目を見張り、そして申し訳なさそうに目を細め、後ろ髪を掻き上げた。


「そうか、顔に出ていたか。隠していたつもりだったが、君は人を見る力が強いらしい。部下に心配されるとは、私も〝まだまだ〟だな。すまない。心配せずともいいんだ」


「い、いえ、隊長が憂鬱を抱えていると言うのなら、俺が喜んで聞きます。隊長も仰っていたじゃないですか。『情報は共有してこそ真価を発揮する』と。……今抱えている事件と何か関係あるんじゃないんですか?」


 ここが好機だと一気にたたみかけるジェイク。その剣幕に、フローレンスは若干、面をくらってしまうも、降参するように肩を竦めたのだった。この辺りで、数人の同僚が悔しそうに歯軋りしていた。


「少々、バイオレット・ムーンについて調べを進めていたのだが、予想外の事態に発展してしまってね。今、各署に連絡を回した次第だ。……もしかすると、我々はとんでもない事案に首を突っ込んだのかもしれない。君達に、私の憂いを聞く勇気はあるかな?」


 挑発ではなく、あくまで問い。フローレンスの傍に集まっていた者、自分の席で耳を傾けていた者、誰もが黙ったままだった。代表するようにジェイクは、首を縦に振る。女騎士は満足そうに、やや嬉しそうに頷いた。そして、表情を厳しく張り詰めていく。


「数日前にバイオレット・ムーンがサザード銀行で三万ポンドの強奪をした事件があっただろう。あの銀行は裏で相当に悪事を働いていたらしい。数多の企業、数多の銀行、数多の貴族から、騙すあるいは強引に奪った金銭の総額は五万ポンドを超える。他にも一ヶ月前のレルダー家屋敷から盗まれた特級のブルー・カーバンクル含めた宝石数点の盗難。あれは、もともと別のジェントリが持っていた物を、レルダー夫妻が詐欺当然に騙し取った物だと調べがついた。この意味が分かるか? あやつらは、悪人相手にしか盗みを働いていないんだ。これには参ったよ。きっと、今日の夕刊にでも載って大ニュースになってしまうだろうな。情報規制が遅れてしまい、今頃警視庁の方は大混乱だろうさ」


 ジェイクは眉を顰め、そのまま顔を顰めてしまう。悪党からだけ、盗みを働く怪盗?


(義賊のつもりなのか。けっ、気に入られねえな。そういうのが、頭のおかしい模倣犯を生み出すんだよ)


 ジェイクがフローレンスの方を一瞥すると、女騎士は腕を組み、憎たらしげに窓の外を眺めている。馬車や人が行き交う通りのさらに向こう側、北西方向へと鋭き視線を向けるのだ。


「一体、あいつらは何を考えている? 悪人から盗むのは罪に問われないと本気で思っているのか? その上で、我々の正義と語るのか? ……くだらん。そんなもの、子供の戯言に過ぎない。法がなければ、人は正義に准じない。己が正義で自由に生きるのは単純な悪よりも性質が悪い。今、この国は貧富の差に喘いでいる。世界一の大国と謳いながら、このロンドンは光と闇があまりにも深すぎる。ならば、我々が正義を導かず、誰が国を支えるというのか。我々は、これまでの怠惰を清算しなければいけないのだ。この国は、あまりにも急激に成長してしまった。問題点だらけで、民は疲弊している。ならば、ならばこそ、我々が銃を取らなければいけない」


 熱き隊長の意志に、誰が言ったでもなく全員が立ち上がり、敬礼する。それは、紛れもなく結束であり、信頼だった。フローレンスは表情を和らげ、敬礼を返す。そして、やっと肩から力を緩めたのだった。


「必ずや、我々でバイオレット・ムーンを捕まえよう。皆には、期待している」


 部下の声が轟雷のように重なり合い、外を歩いていた野良犬がその場で跳んでしまう程、驚いたのだった。

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