断章


彼が口の中に入れて〝しゃぶっている〟のは何か? アプリコットの蜂蜜漬け? バターと砂糖たっぷりのタフィ? それとも、塩味を利かせた燻製肉? いや、違う。どれも違う。少なくとも、人間の食べ物ではなかった。なのに、男は恍惚とした表情で舌を伸ばし、舐め、しゃぶり、吸う。まるで、初めて血の味を覚えた蝙蝠のようだった。阿片を吸っている人間だって、もう少しは理性的な顔だろうに。今の彼は、堕落の象徴だった。


「ふふふふ。良いわよ、豚。もっと舐めなさい。私の足を舐めることを至上の名誉としなさい。ほら、ほら! ほら! ほら! もっともっと、私の前で無様な姿を晒しなさい!」


 そんな彼を嘲弄と慈愛の笑みを浮かべて見下ろすのは、妙齢の女性だった。ウェーブのかかった金色の髪は腰の中頃まで届き、まるで暁の下で煌めく細波のよう。すらりと背が高く、ボーンチャイナのように白い肌に鮮血のように真っ赤なドレスが映えていた。素材は宝石と同等の価値を持つ天然の絹で、意匠も凝っている。まるで、どんな城だろうと容赦なく焼き尽くす地獄の炎を、古き神々がドレスとして織りあげたかのように。素肌、とくに足を見せるのはもっとも下品とされる英国。だというのに、豊満な胸は大胆にも革紐で強調され、上部が露出している。そして、一番注目すべきはスカート部分の短さだ。彼女の足は太股まで外気に晒され、惜し気もなく豊潤な色気を撒き散らしている。ベッドに腰掛け、妖艶に足組みしながら笑っている女性は確かに美しかった。

 ただし、彼女は清楚とは水と油の関係である淫靡。男の精気を吸い尽くす夢魔の化身。赤銅の瞳孔を持つ瞳の奥は、異性をコカインか阿片のように引きつけ、逃がしてはくれない。真っ赤な口紅で飾られた口元から覗くのは、地獄の業火へと続く悪魔の舌か。

今、女の前で男が跪いている。それも、裸で。二十代後半の男が一糸纏わず、奴隷のように彼女へと奉仕している。そう、奉仕しているのだ。その生足を舐めることで。まるで、足を舐めなければ呼吸が続かないかのように、丹念に、必死に、嬉しそうに、歓喜に身を震わしながら舐めている。ピチャピチャと雨漏りのような音が、室内に艶めかしく響くのだ。男の瞳からは感涙の雫が溢れ出し、その男根は限界まで屹立している。そんな彼を、女は傲慢な愉悦を浮かべて見下ろすのだ。

 オイルランプだけが唯一の光源である部屋は暗い。深夜ともなれば当然だろう。ここは、彼女の寝室だった。日本の蒔絵、インドの赤い絨毯、清国の竹製テーブル、フランスの絵画など様々な国から取り寄せた絢爛豪華な調度品が並べられ、薪が轟々に燃えている暖炉のタイル装飾はサンキュバスの国を夢想させる紫と赤の激しくも繊細な共演。


「ねえ、豚。あなたが従っているのは誰? 私の夫であるライアーク・ストーナー? それとも私の義理の娘であるヘレン・ストーナーかしら? さあ、答えなさい」


「ふぶう! ふぶう! あ、貴女様です。シャルロット・ストーナー様。私が生涯忠誠を誓うのは貴女様だけです。貴女様が私の光であり、貴女様なくして私は盲目の乞食も同然。でで、ですから、ですから、お慈悲を、卑しい豚である私を見捨てないでください!」


 とうとう鼻水を垂れ流して懇願する男に、シャルロットはナイフで血肉を切り裂いたかのような細長い笑みを浮かべる。そして、組んでいた足を解き、男の唾液塗れになった右足で彼の屹立した男根に触れる。足先に熱く硬い感触が届いた。途端に、脊髄に轟雷でも落ちたかのように男が背筋を馬鹿みたいに反らす。


「あ、ああああ、ああああああ~~~~!! ひへ、ふぉ、あへ、あああああああ」


「とても可愛く、醜い豚。私に忠誠を誓うのね? なら、御褒美をあげないといけないわね? ……なら、私の命令をちゃんと聞きなさい。我が夫の行動を、私に逐一知らせること。良いわね? 少しでもおかしな言動を示せば、すぐに教えなさい。ふふふふ。どうして、あの人がロンドンで悪ふざけしている怪盗バイオレット・ムーンと繋がっていたのか分からないのは業腹だったけど、良いわ。エンブリーの屋敷に集めている使用人はとうの昔に、全員が私の僕。夫の子供さえ、私の僕。くふふふ。あーっははっはっはっは。男も女も関係ないわ。甘い声をかけて性器を刺激して抱かせれば、全員が全員、想いのまま。ほら、ほら! 嬉しいでしょう豚! もっと喘ぎなさい! もっと醜い声を上げなさい!」


 軋む音が聞こえてきそうな程、シャルロットの足が男の性器を踏みつけ、擦り、刺激する。男が大きく開いた口から涎を撒き散らして興奮の坩堝へと落ちる。


「ほう! ひゅうう! ひふうううへへへあがががほおおうおうおうおうおう! はあっはははっはほほほほほおほひひいひいいいいいふうふふうううううう! いぎ! あ、ふ、いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」


 とうとう臨界点に達し、男が白濁した生温かい液体を撒き散らす。それも一度や二度ではなく、何度も腰が痙攣する。その度に粘度の濃い汚水が女の足に付着し、赤い絨毯へと滴り落ちた。白目を剥いた男が、そのまま意識を失い、背中から後方へと倒れ込んでしまった。


「ふん。だらしのない豚ね」


 シャルロットは傍に落ちていた〝紳士付き紳士(ヴァレット)〟用の服で足を拭いた。男の正体は、屋敷の主人であるライアーク・ストーナーの傍で仕える上級使用人であるヴァレットなのだ。

 主への忠誠心を圧し折るのは実に簡単だった。阿片入りのワインを飲ませて一晩も抱けば、もう男は女の虜。忠実な僕でしかない。

 恍惚とした表情で舌舐めずりするシャルロット。しかし、その表情が苛立ち混じりの焦燥へと反転する。今日、義理の娘であるヘレンは幼女趣味の好事家に売られ、彼女は大金を手にする予定だった。だというのに、そうならなかったのは、怪盗バイオレット・ムーンという邪魔が入ったからだ。ヤードの介入もあり、ヘレンの居場所は掴めていない。


(《黒い犬(ブラック・ドッグ)》をようやく〝飼い犬〟にしたっていうのに、ついていないわね。まあ、いいわ。たとえ、私が手懐けた頭目が口を割ったとしても、証拠がない。ヤードの中には、協力者がいくらでもいる。……私が欲しいのは、金。何万ポンドという大金。こんな、つまらないジェントリの妻で人生が終わるなんて、死んでも嫌。私はもっと、輝かないといけない。太陽は輝いてこそ華になる。くふふふふ。そのために、ヘレンちゃんには商品になって貰わないとね。ロンドンには人買いが大勢いるわ。どんな手を使っても売って、邪魔者は消す。そうすれば、娘に溺愛しているライアークだって〝調教〟してやるわ。どうせなら、怪盗さんも、うふ。男も女も皆、私の前に平伏せばいいんだわ)


 声なき笑みを浮かべるシャルロット。彼女は元々、フランスの名家に生まれた高貴な娘だった。だが、堕落を覚え、そのまま淫蕩の快楽に耽り、そのまま堕ちてしまった。歳を重ねても、いや、歳を重ねる度に、その欲求は高まるばかりだった。ライアークとの結婚でさえ、自分が伸し上がるための〝手段〟としか考えていない。


「いいわぁ。全部、しゃぶりつくしてあげる。骨まで残さないほどにね」

 




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