第2章 Ⅷ
――アリスが嘆いた一時間以上前。スコットランド・ヤードに新しく設立されたばかりの
霧は随分と晴れ、月明りが刃に届く。その冷えた輝きは研ぎ澄まされた彼女の戦意。
ヘルメットの下で金色の髪を風に揺らし、フローレンスへ目の前の敵を睨みつける。
「強いな、君は。これまでに数多の犯罪者共を手にかけてきたが、我が一撃を真っ向から防ぎ、あまつさえ武器に傷を付けられたのは初めてだよ。出会いが違えば、君を我が部隊に招きたかった。いや、残念だ。同時に嬉しくもある。仲間を相手にして、ここまで戦意を尖らせられないからな。では、もう一度、手合わせ願おうか」
フローレンスが両足の開きを微妙に変える。花崗岩の砂利を靴裏が削った。小銃を上段に構え直し、その姿勢は前傾。いつ獲物に跳びかかってもおかしくない猟犬風情の殺気。
「……これまでにない上物だと判断します。だからこそ、負けられないと私は誓います」
異国少女の娘・ヒューロが両手に握るのは和傘ではなかった。白木の柄から伸びるのは、一振りの刃。長さは二尺五寸(約七十五・七五センチ)。真っ直ぐな片刃であり、肉厚で剣呑な重量感がある。斬るよりも〝突く〟に特化した系統だった。刃紋は凍てつく冬の息吹を透かし入れたかのよう。鍔がない代わりに、相手の剣を受け止めるためにか、刃の根元に溝が彫られていた。ガス灯の明りを〝ぬるり〟と照らす様は、地獄に住まう鬼共を従える強者の冴え。構えは下段。その姿勢は力が全く入っていない自然体。次の瞬間に自分が死んでも相手を殺しても納得する狂人風情の殺気。
「一つ、問おう。君は〝日本人〟だろう。何故、英国で悪さを働く? その行動は国に恥辱を与えるのではないか? 聡明ならば、ここで素直に負けを認めるべきだろう」
「……そうは出来ないと判断します。私には私がしなければいけないことがありますから。と、私は淡々に説明します。私は彼に恩義がありますから。と、私はさり気なく伝えます」
ヒューロの強情な態度に、フローレンスは違和感を覚えずにはいられない。この女、本当にただの〝愚かな盗人〟なのか? 十代半ばにも満たぬような小娘がどうして、ここまで命を賭ける? 刃と刃のぶつかり合い。そして、こちらは銃剣。ライフル弾をこの距離で腹部にも当てれば、拳が余裕で通り抜ける大穴が穿たれるだろう。人間ならば、恐怖を覚えないはずがない。なのに、何故、ここまで冷静でいられるのだろうか。
(こうも肝が据わっている戦士など、これまでに一度足りとも見たことがない。この娘、生死の全てを〝納得〟している。この幼さで戦場の性を悟ったというのか?)
確かめねばなるまいとヤードの女騎士は無言で地面を蹴った。大きな肢体が極限まで低く体勢を維持したまま一直線にヒューロへと迫る。その動き、イギリスには存在しないジャガーの風格。瞬く間に異国少女との距離を詰め、上段から一気に銃剣を振り下ろす。細かな技術など必要ない。ただの暴力。ただの膂力。豪快な一撃を以って、全ての不条理を打ち砕く。雄牛の頭部を一撃で切り落とすだけの威力を前に、季節は冬へ巡った。
ヒューロは己が脳天を狙う一撃を前に、異国の刃――刀を跳ね上げた。まるで、両腕にバネでも仕込まれていたかのような速度と緩急。迅雷と化した刃が銃剣を鮮やかに滑らせ、軌道を斜めに〝ズラす〟。フローレンスの一振りは虚しくも地面に突き刺さってしまう。異国の剣士は返す刃と刀を振り下ろした。女騎士は大きく身を捻って右足を軸に回転。ダンスのステップを刻むように真横へ移動する。
(やはり、強い。これだけの剣術、初めてみた。この者、一体、どれだけの鍛練を積んだというのか。待て、祖母から聞いたことがある。確か、日本には〝SAMURAI〟と呼ばれる特級の剣術集団が存在すると。まさか、この者がそうだというのか!?)
唯美主義――日本趣味の者はロンドンでも数少なくない。ジャポニスムブームにより、日本風のインテリアが一部で流行しているのだ。フローレンスの祖母は社交界の場で京都の扇子を持参した程の日本贔屓でもある。そんな祖母から、孫娘は幼いころから飽きるほど話を聞かされていた。つまり〝SAMURAI〟の話を。
「そうか。貴女が〝サムルァイ〟か。この巡り合い、神に感謝しよう」
「サムルァ……ああ、それはもしや〝侍〟ですか? と私は納得します。そして、訂正しましょう。それはきっと、間違いです。確かに、私に剣技を教えてくれたお爺ちゃんは到達者である真の侍でした。しかし、私は違います。私は〝亡霊〟です。だから、命を賭けて国のために死んだ連中と一緒にしないでください。と、私は願い申し上げます」
その黒曜石のような瞳に映る冷たい光の奥に、フローレンスは視たことがあるはずのない異国の戦場を幻視した。背中に噛みつく冷気は、殺気? 違う。これはもっと深く重い、増悪。ヒューロは嘆息一つ零し、あろうことか女騎士に背を向けた。そして、地面に落ちていた傘を拾い、組み合わせる。仕込み刀と、人は言う。
「待て、逃げるのか? こちらには馬がある。まさか、駆けっこで馬に勝とうというのか」
フローレンスが口笛を吹くと、後方に控えていた白馬が彼女の元まで歩み寄ってきた。人間の足で馬に勝てるはずがない。だというのに、ヒューロは首だけを後ろに曲げて、女騎士を小馬鹿にするように微苦笑を零したのだ。
「確かに、馬速い。人間が乗る動物の中で、一番早い。と、私は推測します。けれど、一つ問いましょう。その馬は、空を飛べますか?」
――フローレンスの瞳孔が大きく見開かれる。危うく、ライフルを落とすところだった。有り得ないと脳が否定するのに、視線は釘付けになってしまう。ヒューロの足裏が地面を踏んでいないのだ。まるで、風の手に掴まれたように身体が浮いている。目の錯覚か。いや、違う。確かに浮いているのだ。あっと言う間に小柄な体は浮き上がり、ガス灯に音もなく着地する。今度は女騎士が異国少女を見上げる番だった。
「まさか〝ヌンジャー〟だったというのか。今日は驚くことばかりだな。是非、写真にでも撮って祖母に見せたいところだな」
「……忍者を〝ジンジャー〟と一緒にしないで貰いたいと求めます。では、これに失礼」
ペコリと頭を上げ、ヒューロがガス灯を軽く蹴る。小柄な体はふんわりと柔らかく浮かび上がり、四階建の建物、その屋根に優しく着地する。フローレンスは咄嗟に銃口を向けるも、ガス灯の明かりが届かない高さへと闇雲に撃つのは愚策。標的から外れた弾丸が遠く離れた住民まで届き、傷付ける可能性があるからだ。弾丸は〝飛ぶ〟だけなら、一マイルを軽々と突破する。スペンサー・ライフルを下げ、女騎士は馬の頭を撫でた。
「ふふふ。逃げられてしまった。……まさか、この背中に翼は隠していないだろう?」
馬が小さく鳴く。まるで『それは無理な相談ですわ』と嘆くように。フローレンスはライフルを背中に吊るし直し、慣れた調子で馬に跨った。手綱を掴み、軽く引く。白馬は主の忠実な僕として軽快に足を動かした。荒い鼻息が蒸気機関車のように白い煙を上らせる。
「また、会おう。バイオレット・ムーン〝諸君〟」
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