第2章 Ⅴ


 ハンサム・キャブは使えず、アリス達はセシルを先頭にしてハイド・パークを背にするように東方向へ駆け出した。追手は騎兵。機動力は段違いながらも、こっちは小柄な人間だ。そして、この一帯は古くなっても取り壊しがされていない小さな建物が密集している。裏道を何度も使い、上手く尾行という楔を外す。そして、三人が向かったのは、一大ショッピング街、リージェント・ストリートの、さらに〝向こう側〟だった。 


「ねえセシ、じゃなくて《ストーム》。あのさ、ここって、私の知識が正しければ〝ソーホー地区〟だよね。あれれ~、おかしいな。どうして、私はこんな場所にいるんだろう?」


 ソーホー地区――ロンドン一いや世界一の風俗街にして一大売春地帯。辺り一帯には派手な外装の娼館が無数に並んでいる。ガス灯の明りが周囲を照らし、夜はこれからだと生やし立てていた。アリスが建物のドアに貼られている色画用紙を見て、辟易する。あれは、売春をしている目印なのだ。ちなみに、売春は五年前に法律で禁止されたのだが、だからと言ってはいそうですかと素直に聞くほど、男の欲望は容易なものではない。

 アスファルトで舗装された通りを歩く男は、中流階級以上の恰幅が良さそうな男や、金と暇を余らせている貴族の次男坊のような男、まさに今から戦場に赴く騎士のような形相をする男まで様々だった。そして、なんと言っても女、つまり売春婦の数が桁違いだった。まるでお祭り騒ぎのような活気と人混みが根付く場所だというのに、これが全部、金と性欲目当ての集まりだなんて。下は十歳、上は四十歳程度か。金髪、茶髪、赤毛、黒髪、灰色。肌の色も、白、黒、黄色と勢ぞろい。フランス人、ドイツ人、アイルランド人、イングランド人、デンマーク人、スウェーデン人、インド人、清国人、黒人と様々だ。ここだけで、二十国以上の人種が集まっている。誰もが黄色い声を飛ばして、客を誘っていた。

 どんな場所か、薄々感づいたらしい。アリスの胸に抱かれたヘレンが顔を真っ赤にしていた。


「あ、あの、ここって、その、所謂、いけない場所ではないでしょうか」


「あははは。平気、平気。こっちの通りまで進めば普通の宿屋やパブが並ぶ場所に着きますから。さ、ここを早く突破しましょう。じゃないと、私達が娼婦って勘違いされますよ」


 それを聞いたアリスが歩幅を広げて歩く速度を速めたのは、言うまでもないだろう。セシルが言う通り、なにもソーホー全域が全て娼館だらけというわけではない。夜中の十一時。まだ窓から明かりを漏らす建物は数多くあった。三人がさらに歩を進めた通りはソーホー地区の北東位置、その末端。比較的新しい年代に建てられた様式の店が目立つ。二階建ての宿屋兼用パブに、煉瓦で五階まで築いた大型賭博施設。白い化粧漆喰のこぢんまりとした店は、個人営業のレストランらしい。遊んで、食って、飲んで、泊まる。まさに、ここを繁華街と言わずなんと言おうか。そして、行き着いた先にあったのは、表の大通りからかなり離れた位置に陣取っている三階建ての店だった。正面扉の上に、大きな看板が提げられている。木製の板に、赤いペンキで豪快に描かれていた。


「クリーニング屋、ホワイト・エレファント? エレファントって何? 森?」


「それは〝フォレスト〟です。エレファントは象という大きな動物です。鼻が長くて灰色で、牙が生えているんですよ。私、リージェント・パークの動物園で何度も見ましたから」


 そんな微笑ましい会話を交えつつ、三人は裏口へ回る。セシルが代表してノッカーを叩いた。アリスのノッカーがコン、コン、コンなら、彼女の音はゴン! ガツ! ガン! だった。暫くすると、緩慢な動作でゆっくりと扉が開かれる。


「今、何時だと思ってんだ。もうとっくに店じまいだよ。物乞いならとっと帰、れ……」


 不機嫌そうな声と不機嫌そうな顔だった四十代前半程度の男性がセシルと目が合った途端に目を大きく見開き、息を飲み、表情を反転、破顔する。その変わり様、お湯に落とされた途端に固まる卵の如く。


「セシル嬢じゃねえか! いやはや、こいつは驚いた。なんでこんな時間に? ……いやいや、わかったわかった。何か、立て込んでいるんだろう? とにかく皆、中に入りな」


 手招きする中年男性の様子に、アリスは目を瞬かせるばかりだった。あれよあれよと言っている間に室内に入らされる。男性は裏口の鍵を入念にかけた後に慌てた様子で二階へと上がった。

 一階は客と応対するためだろうカウンターがあり、その後ろの壁に料金表提げられていた。暖炉には火が入っておらす、三つの大きなテーブルには何も置かれていない。どうやら、一階全体を壁で二分しているらしい。アリスはカウンター奥にドアを発見する。あの向こう側が、洗濯でもする場所なのだろうか。


「クリーニング屋か。ろぐ《ウェブリー様》に頼んで、うちも使わせて貰おうかなー。そっちの方が楽だし」


 大都市ロンドンの空気は御世辞にも〝綺麗〟とは言えない。過密住宅から発生する石炭の火や、工場の煙突から昇る煙、一般浮遊する粉塵ですぐに汚れてしまうのだ。アリスやセシルは、いつも屋敷の中で衣服を干している。また、衣服の素材によっては専門的な技術が必要であり、気苦労が多い仕事である。貴族の中には、わざわざ地方の領地へと汚れた衣服を届けて洗わせ、再びロンドンに送らせる者までいるのだ。

 洗濯女中(ランドリー・メイド)としてスキルを磨いた女性が結婚後にクリーニング店を営むのも珍しくない。

 アリスとヘレンが興味深そうに辺りを見回していると、カウンター奥の階段からドタドタと二人分の足音が下りてきた。一人は先程の男性。今度はオイルランプを右手に持っていた。そして、もう一人は寝間着姿の三十代前半程度の女性である。白いナイトキャップを被ったままだ。少々目付きが鋭く、鼻の周りにソバカスがある。セシルを見るなり、感極まった様子で彼女へと抱きついたのだ。


「セシル嬢。お久しぶりです。お元気でしたか? ちゃんと、ご飯を食べてますか?」


「うん。いつも沢山食べてますよ。だから、元気一杯です。お二人も健康そうで何より」


「がはははは。店も繁盛してるし、順風満帆だぜ。ガキも大きくなりましたよ」


 三人の様子に、アリスは首を傾げるばかりだった。すると、寝間着姿の女性がこちらに視線を移す。


「ところで、セシル嬢、こっちの二人は? ローグさんやヒューロちゃんはいないのかい?」


「アリスとヘレンです。御主人様とヒューロは、今〝仕事中〟なので、もうちょっとで来ます。私達、ヤードに追われているんです。どうか、暫くの間、匿ってもらえませんか?」


 それを聞いた夫婦二人は顔を見合わせ、無言で頷いた。そのまま二階へと案内される。短い廊下の奥までオイルランプを持つ女が先導し、わざわざドアまで開けてくれた。


「狭いですが、こっちの部屋を使ってください。窓もないし、外からじゃ見えませんから」


 内部は、物置程度にしか使えないだろう狭い部屋だった。大人の男性四、五人が雑魚寝すればすぐに床は埋まってしまうだろう。何もなく、あるのは埃ばかりだ。女性がオイルランプをセシルに渡す。アリスはヘレンをやっと、床に下ろした。すると、男性が幼き彼女へと心配そうな視線を向ける。


「こっちのお嬢ちゃんは随分と疲れているようだな。何か、飲み物でも用意しようか?」


「お願いします。それと、差し出がましいんですけど、私にも何か貰えると助かります」


 ここまで一マイル以上の距離を、アリスはヘレンを抱えながら走って、歩いた。すでに、疲労困憊である。男性が恰幅の良い腹をポンと叩いた。


「よしきた。紅茶と、ビールを用意しよう。今すぐ取ってこよう」


「じゃあ、私は椅子と毛布だ。すぐに取ってきますから、待っててくださいね」


 夫婦二人は部屋を出てしまい、室内はしんと静まり返る。アリスはみっともなく足を伸ばして床に尻をつき、壁に背中を預けた。流石に疲れた。もう、一歩も歩きたくない。何度も大きな深呼吸を繰り返すと、心臓の鼓動がようやく、破裂しかける寸前から徐々に大人しくなっていく。額に貼り付いた前髪を剥がしながら汗を拭った。すると、今度は寒さで身体が震えてしまう。汗が火照った身体の熱を奪い出したのだ。ただでさえ気温が低いというのに。当然、この部屋に暖炉の類はない。オイルランプだけが唯一の熱源だった。


「ヘレンお嬢様、座らないんですか? 立ったままだと疲れが取れませんよ?」


「え? あ、あの、その。私、床に直接座ったことはないのです」


 じゃあ、今すぐ座って初体験しろ。と、ジェントリの娘に言えるはずもない。すると、アリスのように座っていたセシルが羽織っていたショールをヘレンの足元に置いた。


「それ、シート代わりに使って構いませんよ。もうちょっとで、メアリーが椅子を持ってきますから、それまで私ので我慢してくれませんか? 結構、温かいですよ」


 にっこりと笑うセシル。これには、ヘレンが小さく息を零し、そして、ショールを拾う。


「もうちょっとなら、我慢します。……我儘を言って、申し訳ありませんでした」


「あははは。良いですよ別に。こんな場所で床に座るなんて、初めてでしょう?」


 と、セシルが言うも、ヘレンはショールを金髪の少女へと返し、アリスの隣に座った。余程、疲れていたのか。壁に背中を預けた途端に、全身からガクッと力が抜けてしまう。

 ここまでアリスが抱いて運んだにしろ、この小さな体に精神的負担は甚大だっただろう。本当なら、ベッドに眠らせてあげたいところである。


「ところで、せし、いや《ストーム》。って、もう偽名はいいか。誰もいないし」


「そうですね。メアリーもジェームズも私の〝友達〟なので、秘密は守ってくれますから」


「そうそう、そのメアリーさんとジェームズさんって何者なの? セシルのこと御嬢って呼んでたじゃん。なんか、すっごい親しいっていうか、尊敬? 普通の関係じゃないよね」


 親しいにしても〝セシル嬢〟とは、一体。すると、セシルは照れ臭そうに右手の人差し指で鼻の頭を掻いたのだ。


「メアリーとジェームズは私が住んでいた屋敷で働いていた使用人だったんです。今でも交流があるんですよ」


「へえ、住んでいた屋敷の。って、え!? 屋敷? 屋敷って、ローグ様のところの?」


「いえ、私の実家です。といっても、もうありませんけど。結構、大きな屋敷でしたね」


 とんでもない発言に、アリスは顎が外れかけた。この、セシルが、元屋敷住まいのお嬢様? 到底、信じられなかった。


(え、だって、セシルって朝も昼も夜も人の十倍以上は食べて午後のティータイムもお茶とお菓子を貪って昨日なんかローグさんの分のアップルパイまで食べて怒られたあのセシルがお嬢様? いつ大きな声で教養とは真逆の人生歩んできたようなこのセシルが!?)


 割と酷いことを思案するアリスだった。その時、コンコンとドアがノックされた。茶髪は反射的に立ち上がり、ドアを開ける。夫婦が戻ってきた。そう、錯覚した。だが、目に飛び込んだのは、短く切り揃えられた黒髪。そして、鼻に届いたのはライムに似た香り。


「無事に着いたようだな。なによりだ。……ああ、本当に良かった。一時はどうなるかと」


 遠雷のような声。二十代前半の容姿。黒髪で、顎髭はナシ。右手は空で、左手に握るのは黒い樫の杖。ほっと胸を撫で下ろす彼へ、アリスはビシッと右手の人差し指を伸ばす。


「し、知らない人だ! 誰ですか貴方。セシルの元使用人とかそういう類ですか!?」


「……誰が元使用人だ、手前。自分の雇い主を忘れるたぁ良い度胸じゃねえか」


「やだなー冗談じゃないですか。ローグ様の顔なんて、嫌でも忘れられませんよ」


「そこはかとなく嫌味に聞こえるのは、単なる俺の気のせいだって、信じたいね」


 頬をピクピクと引き攣らせるローグの影から、ひょこっと顔を出したのは異国の少女だった。ヒューロの無事に、アリス、ヘレン、セシルが歓喜の声を重ね合わせる。


「ヒューロちゃん。無事だったんだね。良かった。ほら、座って座って」


「東洋の女性とは強く可憐なのですね。この巡り合わせを神に感謝しましょう」


「ヒューロ~。無事で良かったです。やっぱり、ヒューロは強いですね」


 すると、ボロボロの傘を両手に握るヒューロが、ふっと頬を綻ばせた。未だ、廊下に立ったままのローグを尻目にしながら先に部屋へと入ってしまう。主の威厳が砂上の城よりも脆く崩壊する音が確かに聞こえる。


「俺、泣いても良いかな?」


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