第2章 Ⅳ


 あまり良い戦況とは言えないな、とローグは心中だけで苦々しく呟いたのだった。


(アリスを現場に連れて行くためにわざとセシルとヒューロに彼女から尾行されてくれと頼んだが、予想以上のトラブルが釣れてしまったな。ヤードの特殊部隊――最近になって編成されたと噂は掴んでいたが、こいつは凄いな。教区による管轄を凌駕した正真正銘の戦闘集団アイゼン。常に小銃とサーベルを装備し、隊員として選ばれた人間は選りすぐりの精鋭。百人力の猛者ばかり。それらを纏めるのが、あの〝女〟だよな。女で、いいんだよな? フローレンスって女の名前だし、あの腰つきからして女だよな)


 ローグが容赦なくジロジロとフローレンスの腰を見ていると、ヒューロから露骨に冷めた視線を向けられた。


「女の腰を眺める男は助兵衛で下等だと、私の母が言っていました。と、私は説明します」


「……いや、うん。なんかごめんな。だから、そんなに距離を取らないでくれると嬉しいんだけどな。お、おい、ちょっと《メージ》。頼むから距離取るなよ。悲しくなるだろ!」


 ズリズリと少しずつ、だが確実に距離を広げるヒューロにローグが悲痛な叫びをぶつける。だが、異国の少女は前髪の奥で眼光を光らせながら淡々と語るのだ。


「くふふふ。やだなぁ、《ウェブリー》。私の〝得意分野〟をお忘れですか? ならば、思い出させてあげます。と、私は意気揚々に語りましょう。そこの連中に〝日の本〟の恐ろしさを教えてあげましょう。と、私は自信たっぷりに謳いましょう。くふ、くふふふふふ」


 ヒューロのニヤニヤした笑みに、ローグは引き攣るような笑みを浮かべる。出会って三週間近く経つというのに、未だに全容が掴めない。この少女、一体どれだけ底無しのなのか。セシルとアリス、ヘレンを追って、騎兵の内、十五名のランタン持ちがここを離れた。残ったのは馬から降りて小銃を構え直したヤード五名とフローレンス。お互い、一触即発の雰囲気である。まるで、静電気が溜まったドアノブだ。少しでも触れれば、どんな小さかろうと〝弾ける〟。戦いの火蓋が切って落とされてしまうのだ。


「貴様らに若い女は撃てんだろう。先に男の方を撃ち殺せ。頭の首が飛べば、自暴自棄にならない限りは大人しくなるだろう。色々と、聞かねばならぬこともあるしな」


 フローレンスがローグを睨みつけたまま、部下へと指示を飛ばした。屈強な男達は黙ったまま静かに、されど力強く頷く。イギリスでは男尊女卑が根強く残り、男性社会の色合いが濃い。ゆえに、通常の感覚なら、女性の指揮官にヤードの男が従うなど〝絶対〟に有り得ない。そもそも、女性のヤードさえ認められていないのだから。それだけ、彼女に信頼があるのか。それとも、もっと別の理由なのか。少なくとも、居心地悪そうにしている者は誰一人としていなかった。


「ええっと、ミス・フローレンス。最初に私の相手をしてくれませんか? と願い申し立てます。私は《メージ》。今宵は貴女に本当の〝魔法〟をお見せしましょう」


 何かの冗談だと高を括ったのか、フローレンスは鼻で笑い、ヒューロを見下ろす。異国の少女が持っているのは外に見えるだけで深紅の和傘が一本。唯美主義――日本趣味の人気と相まってロンドンでは一定数の指示を集めている日本製の傘。閉じたままのフォルムは炎が煌めく短い柄の槍にも見える。武器にするには、いささか心もとない。それでも、ローグは何も言わなかった。この少女、その本当の恐ろしさを敵はまだ知らないのだから。

 ヒューロの小さな唇が、張りのある声を凛と紡ぎ、肌寒いロンドンの大気へと静かに轟かせる。それは〝魔法〟へと繋がる彼女の戦法、その序幕に過ぎない。


「では、一手。――その者が荒野で見付けしモノは緋色の欠片。かくして人は火を手に入れた。その厳しくも温かく健啖たるモノは獣同然だった人へ知恵を与えた」


 腹の底を震わす独特のイントネーション。独特の抑揚。この場にいる全員は、それが日本の歌謡を模した歌唱方法だとは知らない。フローレンスがとうとう怪訝そうに眉を潜めた時だ。ヒューロが左手を前に突き出す。その指先から、燐寸を擦ったような濃い橙色の火が滴り落ちた。ヤードの連中の間にどよめきが雷撃のように駆け抜ける。次第に大きさを増し、虚空へ五、六インチばかりの火球が浮かび上がったのだ。


「この子は炎に命が吹き込まれた精霊・サラマンドラです。このように、私の意志を汲み取り自由自在に動きます」


 火球がフローレンスの元へと銃弾のように飛翔する。ヤードの女が真横に跳んで回避すると、火球はブーメランのように弧を描き敵の頭上を舞い踊る。その動きは、蝙蝠にも似ていた。


「お、おい、なんだこれはマジックか?」「鬼火だ。死者の魂が暴れているんだ! 呪われるぞ!」「そんなわけあるか。今の科学で解明されない謎なんでないんだよ!」


 ヤードの男、その中でも血が多そうな一際若い男がサーベルを抜き、勇敢にも火球へと近付く。そして見えない幽霊と戦うかのようにブンブンと弧を描く刃を振り回したのだ。


「こういうのはな。見えない糸か何かで操ってんだよ。俺が化けの皮を剥いでやる!!」


 だが、火球は一向に宙へ浮いたままだ。火球とヒューロの間を何度も刃が往復するも、異国の少女はせせら笑うだけだ。闇雲な様子に、ローグは『そういえば、俺も間違えたな』と小さい声で悔しそうに言った。とうとう男が息を乱し始めた時、フローレンスが鋭い声を飛ばす。その左手が霞む速度で真横に振られた。

 ヤードを弄んでいた火球が空中で砕け散った。濃い橙色の欠片が飛び散り、虚空へ溶けるように消えてしまう。ローグの目は見た。この女、短い柄のナイフを投擲して直接、火球を狙ったのだ。空を飛ぶ蝙蝠を射止めるなど、至難の技でしかない。なんという技術、なんという修練か。フローレンスは肩で息をする部下へ、特大の喝を飛ばす。


「馬鹿者! 敵の攻撃、その正体が読めぬうちに闇雲な行動をする奴があるか。我々は大衆酒場で暴れる阿呆と対峙しているのではない。その浅慮、戦場では簡単に命を落とすぞ」


「はっ。申し訳ありませんでした! この罰は、なんなりと受ける所存です!!」


 しかし、ビシッと背筋を伸ばして敬礼する部下を、フローレンスは一蹴する。


「大馬鹿者が! 勇敢にも独りで敵に立ち向かった者を私は罰則したりなどしない。その精力をちゃんと頭を使って活かせと言っているんだ。我が部隊に弱卒はいないのだからな」


 剣を振り回していた男の目から、汗ではない別の塩辛いものがダバダバと流れ出す。他の部下も、鼻を啜る始末だった。取り残されたヒューロが前髪の奥で顔を顰めてしまう。

 フローレンスがスペンサー・ライフルを中段に構え直し、ヒューロと対峙する。


「その奇術。よもや、私にも通用すると思ってはいないだろうな? そうならば、止めておけ。私はお前が使う小細工の種が〝見えている〟。次も同じ手が通用するとは考えるな」


「ならば、二手。――天空へと届く光を見失ったがために我々は地を這う蛇に知恵を借りるしかなかった。ゆえに、その者、手は汚れ、足は汚れ、顔が汚れる。それは、鉄の時代」


 ヒューロの左手がクルンと手首を回す。次は球体ではなく、線だった。指先から濃い橙色の炎が線状に伸びる。まるで、鞭がしなるかのように。毒蛇が鎌首をもたげるように。二十フィート先にいるフローレンスへと迫る。火の怖さは子供でも知っている。当たれば、ちょっと皮膚が赤くなる。なんてレベルでは済まされない。


「言ったはずだ。次も同じ手が通用するとは考えるな!」


 フローレンスが眼前に迫った火の線へ、槍のようにスペンサー・ライフルを突き出す。銃剣の刃が炎の鞭を容易く切り裂いた。だが、ヒューロはさらに左手を軽く動かす。すると、途中から断たれた炎合わせて二条の毒蛇が再び、ヤードの女へと襲い掛かったのだ。

 女は後方に下がり、ヒューロの足元へと発砲する。甲高い銃声が闇夜を鋭く貫いた。瞬時に用心金を銃口側に引き、空薬莢を排出。元の位置に戻し、次弾装填。撃鉄を起こす。真鍮製の殻が鈴にも似た音で待機を微かに震わす。フローレンスが片眉を上げた。


「私、忍者の末裔なので火遁の術が使えるんです。……というのは冗談ですと、私は自嘲気味に笑いましょう。これは簡単なトリックです。種も仕掛けもある、人間の〝悪知恵〟だと私は明言します。さあさあ、お立会い。一番最初に焼かれるのは誰でしょう?」


 得意気に語るヒューロ。だが、フローレンスは首を横に振ったのだ。

 二条の火を滞空させたまま左手を動かすヒューロへと、フローレンスは告げた。


「その日傘、素晴らしいデザインだな。――少し、近くで見せてはくれないか?」


 フローレンスが一気に地面を蹴った。まるで、地を滑る猟犬。瞬く間に距離を食い千切り、異国の少女へと肉薄。銃剣付きのスペンサー・ライフルが縦一閃に振り下ろされる。

 激突音は、硬い金属同士の冷たくも熱い抱擁だった。頭蓋骨を砕かんと上段から容赦なく振り下ろされた一撃を、ヒューロは閉じられた和傘の側面で刃を滑らせるように受け流す。通常、和傘の素材は紙と竹だ。鋼鉄の刃を捌くだけの強度など、あるはずがない。だが、銃剣の刃が削った和紙が真紅の花弁となって乱れ飛ぶ中で〝それ〟が姿を現す。

 和紙が破れて顔を出した数本の親骨。ヒューロが使う和傘の骨組みは鈍い灰色を湛える金属だった。苦い顔をする異国人に反し、フローレンスがニヤリと頬の端を吊り上げる。


「炎を操っていた糸の出所は傘と右手。その骨組みに数本の見えない糸を繋ぎ、右手で精密な操作を可能にする。相手へ、左手にこそトリックがあると錯覚させ、秘密を隠す。なかなか上手い手だが、残念だな。この私には、通用しない」


 二条の火蛇が音もなく地面に落ちて静かに燃え尽きた。細く燃えにくい糸に油を染み込ませて、火を着けたまま飛ばすヒューロの十八番。それが、牽制にすらならなかった。ローグは顔に出さないが息を飲んだ。彼は種明かしをされるまでトリックを見破れなかった。『その傘から糸が伸びてます! 私、目が良いですから!』と言ったセシルは例外だとしても、これまでにたった数分でトリックを見破った相手などいない。

 ヒューロは両手で和傘の柄を構え直す。その双眸は前髪で隠れたままだ。だが、その眼光はロンドンにおいて、なおも冷たい。


「《ウェブリー》さん。この人は私が足止めすると誓いましょう。だから、三人の元へ」


「おい《メージ》。いくらなんでも、それは駄目だ。アイツは強い。これまでの連中とは別格だ。それに、あっちには《ストーム》がいる。だから――」


「――私一人の方が〝簡単〟に全力を出せると言っているんです。と、私は宣言します」


 その背中はヨーロッパの人種と比べればかなり小さい。それでも、ローグは彼女の背中に訪れたはずのない異国の風を見た。〝大和の鬼〟は、確かに、そこに君臨していた。


「……信じるぞ《メージ》。帰ったら、美味いカレーでも食べような」


「……その台詞。非常に返答に難しいと私は微苦笑を零しましょうか」


 二人の会話を聞いていたフローレンスは、その間、攻撃しなかった。部下にも目線で合図を送った。そして、休憩は終わりとばかりに数秒だけ目蓋を閉じる。何を、想うのか。


「その者。若いながらに余程、鍛練を積んでいるようだな。……面白い。ならば私も本気を出そう。腕の一本や二本、覚悟して貰おうか。貴様らはそっちの男を仕留めろ!」


「「「「「おおおおおおおおおっ!」」」」」


 部下達がフローレンスの覇気に応えるようにローグへと突っ込む。拳銃使いの男は一目散に近くの路地裏へと駆け出す。その背中に小銃弾が発砲されるも、間一髪で回避。建物の壁を微かに掠めただけだった。


「これで、一対一だな。安心しろ。殺しはしない。しっかりと、罰は受けて貰うがな」


「ならば、貴女も安心してください。私も、殺しはしません。と、忠告しておきましょう」


 銃剣付きスペンサー・ライフルを構えるフローレンス。和傘を剣のように構え直すヒューロ。互いに互いを睨み合い、彼我の距離、約十八フィート。一歩を以って凌駕する殺人の有効範囲だ。ガス灯の燻りさえ聞こえそうな静寂の中、野犬の咆哮が遠くで天高く伸びる。瞬間、両者がほぼ同時に踏み込んだ。――二条の鋭い銀閃が虚空を駆ける。


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