第2章 Ⅱ


 ローグ・キャバリーは二分も続かなかった攻防、いや、一方的な暴力を観察し終え、困ったように嘆息を零した。辺りには多分、まだ生きているだろう男達が転がっている。アリスは途中からヘレンの顔を覆って残虐な光景を見せない作業に従事していた。賢明な判断だと思った。一方、セシルは大好きな遊びを堪能した子供のように晴れ晴れとした顔で天井を眺めていた。それは、阿片でトリップした人間と似た瞳だった。


「主殿。全員、脈はあると確認しました。と、私はここに告げました。……どうします?」


「生きてるんなら、それで十分だ。ともかく、さっさと逃げるぞ。《ストーム》! いつまで天国に居るつもりだ? マリア様への挨拶が終わったらさっさと戻ってこい。《茶髪》。ヘレンを抱いたまま歩けるか? ここから二百ヤードもない場所に、こっそりとハンサム・キャブを停めている。そこまで彼女を運びたい。そうすれば、今日の仕事は終わる」


アリスはコクコクと黙って頷いた。ハンサム・キャブとは、ロンドンではポピュラーな、距離に総じて代金を貰う乗り物である。基本的に一頭立て二輪の辻馬車であり、料金は一マイル(約一・六〇九キロメートル)で六ペンスだ。


「ヘレン御嬢さん。貴女を安全な場所まで案内するわ。私達に、ついてきて貰える?」


「ここから逃げられるのなら、喜んでついていくわ。だから、お願い。見捨てないで」


 アリスの微笑みに、ヘレンは目に涙を浮かべて何度も頷いた。つい、ローグも頬を緩めてしまう。


「さあ、行こう。こんな場所、子供には相応しくない」


 せいせい堂々と表門から出るのは愚策だと、ローグはセシルやヒューロも使った裏口から外へと出る。途中の小部屋で三人ばかりが気を失っていたが、生きているようだし、見なかったことにする。とくに金髪女中と日本少女が『ちょっと強く殴り過ぎましたかね』や『睡眠薬の量を間違えたかも。と反省』などと呟いたのは生涯聞かなかったことにする。


「ところで《ウェブリー様》。安全な場所と言っても、この子はどこに連れて行くんですか?」


 小さな扉をしっかり閉めたアリスがローグへと聞く。ヘレンを軽々と抱きかかえる様子から察するに、やはり普通の女性とは比べ物にならない膂力を持っているようだ。


「ライアーク・ストーナーが所有する屋敷がエンブリーにある。そこに信用出来る使用人を数人集めて、ヘレンを匿うそうだ。生憎と、義母を人身売買の罪で起訴するだけの証拠が揃っていない。事を進めるに足りる情報が揃うまで、彼女には父の元を離れて貰う」


 すると、ヘレンの顔がみるみるうちに強張っていく。アリスの服を、ぎゅっと握ったのだ。


「お、お父様の元を離れるなんて嫌よ! あの女が、私を捕まえにくるかもしれない。あの女に言い返せるのは、お父様だけだもの。使用人だって、何を考えているのか分かったものじゃないわ。あの女は、金の亡者だわ。亡者は自分のためなら、なんだってするのよ」


 夜の裏通りで、その声はまるで闇を薄く裂く火花のようだった。いつ、他の感情、それこそ烈火の怒りに繋がるが分かったものではない。もしも暴れてしまえば、運ぶのはずっと難しくなる。幼き子供に、大人の都合などすぐには飲み込めないのだ。ローグは子供の〝あやし方〟など知らず、言葉に詰まっていると、先にアリスが口を開いた。


「ねえ《ウェブリー様》。どうして、ヘレンお嬢様の義母は金の亡者なんですか?」


「え? あ、ああ。ストーナー家では先代、つまり現当主の父が亡くなった際に、その遺産が本家の家族全員に分配される決まりなんだが、ライアークの父にしてヘレンの祖父であるマルクスは現金でおおよそ二万六千五百ポンドを遺したらしい。で、遺産分配当時は、まだ再婚していなかった。遺産が分配されたのは、父のライアーク、長男一人、次男二人、そして長女のヘレンの五人。どんな計算があったのかまでは聞いてないが、彼女は二千八百ポンドを相続した。しかも、それだけじゃない。マルクスが持っていたオーストラリア国債も彼女が相続することになった。実に、年間二百ポンドの収入だよ。それがどれだけの金額が、アリスには分かるか? それだけの額があれば、一生働かなくても遊んで暮らせる。だが、当然、面白くない人間がいる。それが、義母ってわけさ」


「まさか、ヘレンお嬢様のお金を横取りしようとしているとか、ですか?」


「その通り。これまでに、ライアークに黙って七百ポンドも使い込んだらしい。当然、父親は憤慨するわけだが、これまで話し合いは平行線だったと。とんだ悪女だぜ」


 そして、さらなる不幸が義母が身籠ってしまったことだ。こうなれば、無理に離婚すればライアークの世間体も悪くなる。『あの男はせっかく再婚してくれた女を孕ませたうえに追い出した』と。これまで、金を使い込まれても男は強く抵抗出来なかったらしい。長男や次男は寄宿学校に入り、こちらも当てにならない。父も、常に屋敷へ留まるわけにもいかず、使用人も身分の都合で反発など出来るものではない。ヘレンを常に守ってくれるような者は誰もいなかったのだ。


「ヘレンがいなくなれば、遺産は思いのままだ。だからこそ、彼女を義母の手に渡すわけにはいかない。……ロンドンよりもエンブリーの屋敷に行く方がずっと安全なんだ」


 ローグがヘレンに告げるも、少女は目に涙を浮かべてぎゅっと下唇を噛み締めるだけだった。腹の底で、何かがグルグルと回る。深いストレスを感じた時の症状だ。すると、アリスが胸に抱く娘へと視線を移す。セシルとヒューロは黙ったままだった。


「ねえ、ヘレンお嬢様。目の前に大嫌いな奴が居た時、何をすれば良いと思いますか?」


 急な問いに、ヘレンは困惑するばかりだった。アリスは、ふっと微笑んで彼女を地面に下ろした。ふわりと、幼き娘のスカートが揺れる。ローグは首を傾げるばかりだった。

アリスは少しだけ皆と距離を取り、右足を軽く上げた。そして、


「シッ――!!」


 もしも、地面に南瓜が置かれていれば、粉々に砕けていただろう。それだけ、見事なキックだった。スカートが盛大にはためき、ローグは咄嗟に首を背く。ヒューロとセシルが、『おおおお』と感心の拍手を打ち鳴らした。ヘレンが目をぱちくりさせて困惑する。アリスはスカートの乱れを両手で豪快に直し、得意気に大きく背筋を伸ばした。


「と、まあ。このように蹴れば良いんですよ、憎い相手を。脛を蹴れば大抵の人間は大袈裟に痛がって足を押さえます。その隙に逃げるか、追撃するかは、貴女の度胸次第です」


「そ、そんな。いくらなんでも、蹴るなんて、そんなはしたないこと出来ないわ」


 上流階級のお嬢様にとって〝お転婆〟は禁断。それでも、アリスは彼女に魔法をかける。


「――相手は人買いに手を借りるような〝塵屑〟です。腐ったバケツを蹴っても、誰も文句は言わないでしょう? 《ウェブリー様》。彼女の安全が〝確証〟出来るまで、期限とかありますか?」


 急に言葉を向けられ、ローグが口に拳を当てて咳き込む〝フリ〟をする。


「ゲホゲホ。現時点では、はっきりしないが一週間だ。一週間あれば、義母を追い詰められる。ヤードと弁護士の当てはあるんだ。だから――」


「――だから、一週間。一週間だけ、我慢すればいいんです。貴女の人生を守るために、一週間だけ強くなれば良い。たった、それだけの話です。一週間我慢して、人生が守れるのなら、私は喜んで戦いますよ。ヘレンお嬢様は、戦えませんか?」


 もしも、音が聞こえるのなら、それは極寒の中で雪割り草が咲く音だった。ヘレンの瞳が、大きく見開かれる。ひよっこ魔女が、初めて魔法書を開いたかのように。魔王住まう城の扉を勇者が開いたかのように。恐怖で曲がっていた背筋が、すーっと真っ直ぐに伸びた。そして、幼き娘は見よう見まねで、足を軽く上げて、下ろす。シュッと小さく空気を叩く。きっと、枕が一フィートだけ動く程度の威力だった。それでも、大きな一歩だった。

 ヘレンが、裁縫した服の出来を親方に確かめて貰う見習い小僧のように、アリスへと顔を上げる。すると、女は酒場に似合う笑みを浮かべる。歯を剥き出しにする豪快な笑みだ。

「そうそう、その調子です。良い人間を蹴るのは御法度ですが、悪い人間を蹴るのは正義なんです。酒場の酔っ払い、助兵衛な男、悪党共の脛なんて燐寸みたいに足で擦ればいいんです。ヘレン・ストーナーは戦える女です。それでも、足りないですか?」

 ローグはまるで魔法でも見ているかのようだった。子供に、大人の理論は通用しない。だからヘレンが感じ取ったのはきっと、アリスの〝心〟だった。


「はい! たった一週間ぐらい、私戦えるわ」


 その力強い声に、ローグはとてもではないが『これから逃げるんだから静かにしてくれ』なんて言えなかった。


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