第2章 Ⅰ


(天国にいるだろうお母さん、お父さん、そして妹と弟。今、アリス・ヨンデンシャーは窮地に立たされています。どれぐらい窮地かといえば、道端に落ちていた一ギニー金貨を巡って殺傷沙汰に発展した去年の秋頃よりも〝危険な状態〟です。もしかすると、私もあの世に逝ってしまうかもしれません。その時は、どうかよろしくお願いします)


 故人への想いを心中で述べつつ、アリスはローグに言われた通りに隅へと移動する。両陣営、すでに熱気十分。いつ、火蓋が切って落とされても不思議ではない。ヘレンが、少女の胸で寒さに苦しむように、身体を震わしていた。この子だけは、守らなければいけない。もしも、いつもの彼女なら上流階級の人間が不幸に合えば『ざまあ見ろ』とせせら笑うだろう。しかし、こうやって幼女の温もりを感じている内に、義憤を覚えた。この子だけは平和な世界に返してあげないといけない。そう、確信したのだ。

 アリスの耳に、バキバキバキ! と乾いた木の枝でも折ったかのような音が届く。その方向に首を曲げ、目を瞬かせてしまう。セシルが両腕を顔の高さまで上げ、十指の感触を確かめるかのように動かしていたのだ。そして、一歩、男達へと近付く。


「私、一人につき〝一発〟しか許されていないんです。だから、かわさないくださいね」


 にっこりと笑うセシル。男達は何を勘違いしたのか。下卑た笑みで臭い合唱を奏でる。その中の一人が、彼女へとナイフを見せつけるように近付いてきた。


「なにが、一人一発だって? まさか、そのデカイパイオツで俺達を楽しませよ――」


 空を飛ぶのに、翼も、風船も、火薬も必要ない。――ただ、拳一つあれば〝十分〟だ。

 アリスに視認可能だったのは、右拳をアッパーのように振り上げたセシルの姿。揺れるスカート。大きく開かれた股。硬く握られた右拳。犬歯を見せるような女中の笑み。そして、顔面を、鼻を陥没させて宙に浮かぶ男の姿だった。そのまま空中で三度も回り、顔面から落下。夥しい量の鼻血が床に広がり、その四肢はピクピクと痙攣している。やがて、ぷっつりと糸切れた操り人形のごとく、動かなくなった。

 黒服の男達は、唖然とし、誰もが沈黙した。セシルは首の骨をゴキゴキと鳴らし、肩をグルグルと回す。ヒューロはニヤリと笑い、ローグは苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちする。アリスとヘレンだけが、口をあんぐりと開けたのだった。


「もう少し、手加減しろ《ストーム》。首の骨が折れたら、普通の人間は死ぬんだぞ?」


「えー、御主人様。だって、これ以上の手加減は無理ですよ。私、ただでさえ力加減が下手なのに。あいつら、悪い人間なんだから、骨の一本や二本、折ってもいいじゃないですか。聖母のマリア様だって『ムカつく野郎は皆殺しでオッケー』って仰ったんですよ?」


「お前が言っているマリアはハギスと同じく空想上の生き物だ。本物は天の国で人々の平和を祈ってるんだ……多分。頼むから、俺の前で人を殺さないでくれ。これは、お願いだ」


「はいーはーい。分かりましたよ。もう、御主人様はどうしてそんなに〝お優しい〟んでしょうね。まあ、そういう性格だから、私も好きでこんな世界に立ったわけですけど」


 男の一人が恐怖に顔を歪めて拳銃の銃口をセシルへと向けた。だが、金髪の女中は首をグルンと曲げて視線を合わせ〝にっこり〟と笑ったのだ。それは、悪魔の笑みと同じだった。いつもの天真爛漫な姿はなく、あるのは地獄の亡者を食い殺す獄卒の笑み。


「いいですよぉ、撃っても。けど、ちゃーんと当てないと私は殺せませんよ? それとも、その弾丸は銀ですか? 銀の弾丸ですか? 神の御加護があると思いですか? それなら、残念ですけど、私は〝人間様〟なので、そういうオカルト的な物は効きませーん」


 アリスは自分の勘違いを一つ訂正する。セシルはいつものセシルだった。ただ、思考回路の一つが変化している。天真爛漫なままご飯を食べるのではなく、天真爛漫なまま人を傷付ける。それは、力に酔って溺れる鬼の子と同じ笑みだ。


「ふざけるな! これをくらって死なねえ人間なんていねーんだよ!! くたばれ!」


 男が拳銃の引き金を絞る。ローグが使う銃よりも数割早い速度で弾丸が飛ぶ。彼我の距離、四十フィートもない。人間が避けられる距離でもタイミングでもなかった。アリスは咄嗟に目蓋を閉じてしまう。短い間とはいえ、同僚が死ぬ光景など見たくなかったからだ。

 なのに、暗闇から聞こえたのは、慄く男の呻き声。そして、鈴が鳴るような声。


「効きませんよ、私には。その程度じゃあ、私は殺せない。私を殺したければ、ドイツ製の大砲を用意することですね」


 アリスは恐る恐る目蓋を開ける。ふと、疑問符を頭に浮かべる。セシルの身体に、傷はなかった。血も、一敵も流れていない。しかし、発砲音は確かに聞こえた。単純に、男が外したのだろうか。それでも、外したにしてはやけに恐怖していないか。まるで、とんでもない光景に直面でもしてしまったかのように。今度は別の男が拳銃を構えた。

 今度は、アリスは目蓋を閉じなかった。だから、分かった。セシルが何をしたのかを。金髪女中は両腕を交差させて顔を隠した。ただ、それだけだった。男が拳銃を使う。甲高い発砲音が一つ。ほぼ同時に、何か硬い金属に直撃したかのような激突音が一つ。弾丸は、女の右腕にちゃんと当たった。なのに、まるで鋼鉄の塊にぶつかってしまったかのように弾丸は地面へと弾き落とされてしまう。板張りの床に、人差し指が入る程度の穴が開いた。


「ば、馬鹿な、鉛玉を弾いただと!? 手前、身体が鉄で出来てるってのか!?」


 男達の動揺に、セシルは腕をヒラヒラと振った。もしも、彼女が客を接待する専用の客間女中ならば、男達は鼻の下を猿のように伸ばしていただろう。もっとも、今は全員、顔を蒼白に変えていたのだが。アリスは何も言えない。まさか、本当に肉体が硬いわけではない。種明かしは満足そうに頷くヒューロの役目だった。どれだけ自信があるのか、両腕を組み、えっへんとばかりに胸を張る。ローグが何か言いたそうに異国人の旋毛を見た。


「我が国に伝わる〝カタナ〟と同じ素材、同じ材質で鍛え上げた〝鎖〟を編み込んで作った特注のチェーンメイルを下地にした〝最硬〟の戦闘服をセシルさんに与えましたと私は宣言します。今の彼女はゼロ距離から放たれたライフル弾さえ防ぐと私は断言しましょう。衝撃吸収のために、雄牛の皮も足したと私は秘訣をこっそり打ち明けます」


「なにそれ。そんなに便利な物があるなら《ストーム》だけじゃなくて私にもちょうだい」


「……総重量、約八十八ポンドだと伝えます。それでも、着てみたいですか? と問います。正直、あんなもの、人間が着て動いて良い領域ではないと断言しましょう」


 一ポンドが約〇・四五キログラム。八十八ポンドは、約四十キロだ。アリスは顔の右半分だけを顰める器用なリアクションを取る。


「セじゃなくて《ストーム》て、胸以外は着痩せするんだね! 私、絶対に着ないよ!」


 中世ならともかく、現代の軍人は軽い服を着て銃を扱う。硬ければ重い。硬ければ丈夫。そんな理論、とうの昔に朽ち果てた。だが、ここに居るのだ。古き時代の栄華を繁栄させる戦神が。セシルは一歩、一歩、緩慢な足取りで男達に近付く。その中の一人が、耐え切れないと血相を変えて背中を見せた。アリスが聞いたのは、風と対等に会話する少女の声。


「逃げちゃ駄目ですよぉ。ここはもう、私の仕事場ですから!」


 男は見た。目が合った。女に背を向けたはずなのに、正面から目が合った。それはつまり、二十フィート以上あったはずの距離を、セシルは瞬きの間に〝喰い尽した〟のだ。

 正面に立つセシルを前に、男はガクガクと膝を震わした。金髪女中はにっこりと笑い、

拳を握る。まるで、大砲に弾が込められたかのような威圧感。装填、照準、そして、発射。

 頭が振られ、足が曲げられる。一歩の踏み込みを以って肉薄し、直角に曲げられた腕が男の腹部へと飛来。それは、ボクシングの技・ボディーブロー。セシルの小さな拳が手首まで、男の腹に〝陥没〟する。アリスの耳に、聞き慣れた音が聞こえた。キッチンで少女は、出汁が一杯出るように、豚や牛の骨を金槌で砕く。それと、全く同じ音だった。

 身体を〝く〟の字に折った男の口腔から、鮮血が大匙四杯分吐き出される。その場に膝からくずおれ、二度と立ち上がりはしなかった。今度は、痙攣さえしない。かわりに、男の股下から小便が溢れ出し、ズボンと床を汚水で生温かく汚すのだ。

 アリスは、今となっては下火となったストリートボクシング(アマチュアボクサーが酒場や路上で戦う即興の試合。基本的にグローブはなく素手)の試合を数え切れないぐらいに視ている。生身の拳で殴り合い、お互いが血だらけになる光景を悪友二人と爆笑しながら眺め『今日は赤が足りないぞ。もっと殴り合え!』とビール片手に煽ったものだ。

 その時の興奮が今となっては酷くチープに感じる。今、アリスの前にいるのは、正真正銘の強者だからだ。セシルが己が量の拳を火打石のようにぶつけ合う。ガツガツと、まるで二つの棍棒をぶつけ合うような音がした。


「ひゅ、じゃなくて《メージ》。あの拳に、鉄板が埋め込まれているとか、そういうのある?」


「まあ、そういう手術も出来なくありませんが、そんなことしなくとも《ストーム》は素手で牛を〝解体〟する程の剛腕ですので。と、私は淡々と補足しておきましょう」


 ああ、そいつはすげえや! とアリスは声なく心の中だけで万歳した。


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