第1話 Ⅵ


 一大売春地帯であるソーホー地区は、ほぼ〝四角形〟だ。上をオクスフォード・ストリート。右をディーン・ストリート。下をシャッフルベリー・ストリートが走っている。そして、左を、地図上ではソーホー地区の西を縦に走るのがリージェント・ストリートだ。この通りは、ソーホー地区と高級住宅街メイフェアを分断する〝重要〟な通りである。

 アリスが着いたのは、リージェント・ストリートの末端つまり南方向に広がるセント・ジェイムズ地区だ。ここには、上流階級用の賭博場が数多くある。基本的に会員制クラブで、人気な店だと一日に千ポンド以上の金が動くとか、動かないとか。少なくとも、少女のような庶民には全く以って関係のない場所である。そう、本当なら、近付くことすらないような無縁の場所なのだ。だからこそ、少女の胃は痛くなったのかもしれない。

 古くからの煉瓦式は消え去り、ポートランド石の外壁が広がる。背が高い建物の窓からオイルランプの明りが漏れていた。あちらの明りは電球だろうか。まるで、昼間のような明るさである。やはり、金持ち用の賭博場だ。かかっている費用が違う。


「な、なして、こんなとこに、わだすみてぇな娘は場違いだよ。うう、帰りてえだよ……」


 つい、アイルランド訛りの弱音が口から漏れ出すアリスだった。セシルとヒューロは裏道をコソコソと進んで行く。少女も、こっそりと着いて行く。正直、もう帰りたかった。このまま踵を返し、何事もなかったことしてココアを飲めばどんなに幸せだろうか。しかし、ここまで来たのだから真実を知りたい。不安よりも、欲求が勝ってしまうのだ。

 表通りの華やかさと打って変わり、やはり夜中の裏道は光届かぬ場所だった。肌寒い空気は乾いていて、目がすぐに潤いを失ってしまう。セシルが持つオイルランプがなければ、簡単に見失ってしまっていただろう。アリスはきゅっと下唇を噛み締めて尾行し、危うく大声を上げるところだった。――瞬きした瞬間に、二人の姿がサッと消えてしまったのだ。まるで、魔法で霞みにでも変化してしまったかのように。


「え、ちょ、待って、なんで?! さっきまでそこにいたじゃん。ここまで来て冗談じゃないっていうの」


 慌てて駆け出し、アリスは二人が消えた辺りを確かめる。地面はマカダムで、左右の壁までの幅は三ヤード(一ヤードは約九一・四四センチ)もない。目を凝らして、やっと顔に近付けた指の本数が見えるだけの明るさしかない。まさに、一生の不覚。


「あー。無駄骨じゃん。こんなことなら、大人しく寝ておけば良かった。明日も早いのに」


 がっくりと肩を落とすアリス。そして、苛立ちで顔を顰めたまま、腹いせとばかりに近くの壁を蹴る。すると、堅牢なはずの石灰岩・ポートランド石が〝バキッ〟と軋んだ。まるで、薄いドアでも蹴飛ばしたような感触に、少女は眉を顰める。これは、明らかに石ではない。そして、はっと目を見開いて手を伸ばした。ベタベタと自分で蹴った部分を触りまくり、そしてついに見付ける。ちょうど、指が三本分ばかり入る窪みがあったのだ。

 意を決して、押してみる。すると、呆気なく動いた。奥には、空洞が広がっている。


「隠し扉。そうか、これで建物の中に入ったから、消えたように見えたんだ」


 眠気もぶっ飛ぶ高揚感。心臓がドキドキと高鳴り、アリスは胸に手を当てる。そして、悪戯小僧の背中を捉えたように、不敵な笑みを浮かべたのだ。これはもう、行くしかない。

 隠し扉は小さく、アリスは老婆のように腰を曲げてやっと潜り抜けた。内部は部屋ではなく、ただの真っ直ぐな通路らしい。どうやら、相当な長さだ。奥に何か部屋でもあるのか。薄っすらと明かりが洩れている。これなら、なんとか進めるだろう。


(この建物、確か賭博場だったよね。じゃあ、今から二人で賭博? いやいや、ここってお貴族様用だし。もしかして、使用人用の秘密通路とか。主が借金した時のために金を持ってくる用とか。って、まさかねー。本当に、何をやってるんだろう。おっと、ここが廊下の終わりか。って、また扉。鍵は、かけられてないと)


 ドアノブを軽くひねって確かめ、アリスは扉にそーっと右耳を当てた。すると、豚の鳴き声にも近い〝いびき〟が複数聞こえる。誰か、眠っているのだろうか。起きている人間が行動しているような物音は聞こえない。うーんと首を捻り、ゆっくりとドアノブを回す。


(起きている人間がいたら、即行で逃げよう。大丈夫、廊下は真っ直ぐだし、並大抵の人間なら私の俊足に敵うはずないもん。女は度胸だよ、度胸!)


 覚悟を決める。ゆーーーっくりと、ドアを少しだけ開ける。反応がない。もう少しだけ開ける。やはり、反応がない。もう、そろそろ面倒なので完全に開ける。アリスは狭い部屋に広がる光景に、嘲弄するように鼻で笑ったのだ。

 部屋は雑多で、酒瓶が多く転がっている。暖炉には石炭が入れられ、轟々に燃えていた。ただ、これは安物の泥炭の臭さである。中央にあるボロ臭い丸テーブルには、薄錆びれたオイルランプが一つに、中身が入っている酒瓶と、肴だろうかパンとチーズがトランプと一緒に散乱していた。鼠がいないのが不思議なくらいの汚さである。

そして、ソファに横になって〝いびき〟をかいている男が二人に、床に転がって眠っている男が一人の計三人。誰も意識がないことに、アリスはほっと胸を撫で下ろす。

 男はどれもみすぼらしい格好で、その体格から日雇いの下男だと予測する。腕っ節だけが取り柄の連中が、どうしてこんなところにいるのだろうか。アリスは酒と煙草のきつい臭いに眉間を歪めながら、さらに辺りを詮索する。当然、セシルとヒューロの姿はない。どうやら、さらに奥の扉を開いて先に進んでしまったようだ。

(それにしてもソファの男二人はいびきが五月蠅いな。こっちの床に転がっているお友達を見習いなよ。まるで、死んでいるように寝てんじゃん。これだけ静かな奴だけなら、安宿でも安眠出来るんだろうなー。じゃあ、こいつらが起きる前に進みますか)

 と、その前にテーブルに置かれている箱入り燐寸を失敬。カラカラと軽い音から推測するに数本しか入っていないだろう。ワンピースの腰ポケットに突っ込む。どうせ、新品で買っても一ペニーしないのだから、構わないと自分勝手な解釈を心中で垂れる。ついでに、コルクが開いている赤ワインを数口飲み、チーズを一切れ齧り、またワインを一口。

 そうして、彼女は奥のドアを開けて廊下の先へ進む。男三人は最後まで起きなかった。まるで、何かによって強制的に眠らされているかのように。


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