第1話 Ⅴ


「絶対に、ここの人達はおかしい。何か、私に隠してる。きっと、そうに違いないわ!」


 エプロンを外して黒いワンピースだけになったアリスは私室の椅子に腰かけ、愚痴を零していた。部屋には机と椅子、ベッド、クローゼットが置かれ、何不自由ない。しかし、その分だけ、今日の不満が増すばかりだった。居心地が良いのは間違いないが、何かが引っかかるのだ。まるで、卵の白身が後ろ髪に引っ付いてしまったかのように。椅子に深く座り直し、少女はテーブルに置いていたオイルランプの柔らかく優しげな光を見詰める。やはり、光はオイルに限る。蝋燭は煤が酷いし、ガスは臭い。電気は高級品だし、何より怖い。雷に当たって死ぬのだから、電気を使う明かりなど危なくて傍に置けたものではないからだ。時刻はすでに夜中の九時を過ぎている。ローグは未だに帰っておらず、何をしているのか見当もつかない。


「これで、娼館に行って遊んでいるなら、ある意味で納得だけどね~」


 主不在なのを良いことに、アリスは下世話な笑みを浮かべる。さて、明日も早いのだから、そろそろ眠らなければいけない。その前に一服でもしようかと少女は、テーブルに置いていた一本のパイプへと右手を伸ばす。ブライヤー(地中海沿岸に育つホワイトヒースと言うツツジ科の植物の根瘤)を削って作られたパイプは、硬くて燃えにくく、木目が美しい。壊さず大事に何年も使い込むと、さらに色合いが深くなる。

 アリスのパイプは煮詰めた蜂蜜にも似た濃い目の琥珀色に変化した。吸い口は翡翠で何度も補修されている。考え事をしながら吸うと噛む癖があるので、薄い黄緑色の鉱石にはくっきりと歯型がついていた。火口はコルクで蓋をされ、一服分の煙草が収まってる。


「ええっと、燐寸はどこだっけ。あ、あった。って、一本も入ってないじゃん……そういえば、オイルランプを着ける時が最後の一本だったっけ。ええ~。吸えないと分かると余計に吸いたくなるよー。……はあ、仕方ない。キッチンまで行くか」


 バケツの取っ手にも似たオイルランプの持ち手を掴み、アリスは部屋を出た。このランプで燃えている火で着けられないことはないものの、そんなことをすればパイプが焦げてしまう。これまで大事に使ってきたのだから、変な傷は着けたくなかった。


「夜の廊下って暗くて怖いんだよねー。なーんか、幽霊でも出そうだし」


 アリスが数日前まで住んでいた三ペンス宿は驚異の十五人部屋だった。ベッド一つが一人分の領土で、夜中ともなれば、いびきに喧嘩、酒盛りで騒がしさは土曜日の酒場並みだった。平気でセックスしている連中もおり、こちらに欲情して襲い掛かってきた異性の金玉を少女はこれまでに三度潰した。ちなみに、ローラは十人を半殺しにしてデムズ河に突き落とした。そんな場所と比べれば、ここの廊下はまるで奈落へと続く、あの世の九丁目だった。昼間の暑さはどこへ行ったのか。廊下は肌寒く、熱い紅茶が欲しい。

 二階から一階へと下りる階段の半ば。アリスは、奇妙な音を聞いた。ドタドタと慌ただしい足音が二人分。こんな時間に、まさか、泥棒か。少女は足音を殺しながらスルーリスルーリと階段を下りて廊下の角に身を潜める。

 すると、こんな会話が聞こえてきた。甲高い声と、ボソボソとした声だ。


「ほら、早くしないと遅れますよ。ハリー、ハリー、ハリー。時間は待ってくれませんよ」


「そ、そうは言ってもこれだけの〝仕掛け〟は大変だと、私は大いに不満を漏らします」


(ヒューロちゃんに、セシル? こんな夜更けに明かりも着けないで何やってるわけ。もしかして、私がローグ様に作ったサンドウィッチの盗み食いとか? いや、まさか……)


 夕食でたらふく飲んだビールの酔いも、夜中の冷気と同居人への不審で吹っ飛んだ。こいつは、怪しい。猛烈に怪しい。とんでもなく怪しい。まず、服装が怪しい。最後に見た時と大きく異なるのだ。

 まずはセシル。全体的にタイトな濃い青色のドレスを着ており、胸元だけは白い布で補強され、大きめの余裕を取っている。もしも、彼女以外、それこそアリスが着れば胸元がとても寂しい〝悲劇〟に見舞われるだろう。白い長手袋を嵌め、首元には両肩を完全に覆う大きな羊毛のショールを羽織っている。足元はヒールがやや高い革製のブーツだった。そして、頭に被るのは縁のある可愛らしい白い帽子。完全に〝外出用〟の装備である。

 そして、ヒューロ。こちらの服装は、アリスは何度考えてもこれまでに見てきた他者のイメージと結びつかなかった。それもそのはず。黒髪少女の装いはジャパン・日本風だったのだから。冷たい印象を持ちながらも藍の青さが際立つ優美な着物、穿いているのは瑠璃色が見事な紬袴、外套の役目を持つ〝羽織〟は僅かに赤みを帯びた黒色・玄。それはまるで、太陽が沈み、静寂に湛えられた悠久の森と、僅かな月明りに照らされた泉の水面か。

 前髪は自由なままだが、後ろ髪は赤いリボンで纏められている。足元は、足がゆったりした革靴だった。そして、両手で握るのは燃えるような深紅が美しい傘。柄が曲がっておらず、真っ直ぐだ。アリスは、その傘が日本特有の〝和傘〟だとはまだ知らない。当然、こちらも完全に〝他所行き〟の格好だ。


(いや、別に私がコソコソ隠れる必要なくない? 私ら、同僚なわけだし。『こんな夜中に何やってんのー? 夜食かな?』って感じのフレンドリーさで近付けば何も問題――)


「絶対にアリスにはバレないようにしませんと! ほら、早く裏口から出かけますよ!」


(問題有りかよ! ド畜生が! それとセシル! 隠すならせめて小声で話せよ。全部丸聞こえなんですけど! 完全に聞こえているんですけど!)


「ひひひひひ。その時は、この麻酔銃で眠って貰う。薬の量によっては、永遠に。ひひひ」


(こっちはこっちで超怖い!? え、なに、東洋人って皆あんな感じなの?)


 東洋人への偏見を加速させるアリス。その間に、二人は裏口辺りでゴソゴソしながら、本当に出て行ってしまった。バタンとドアが閉まる音を聞いた瞬間に、少女は音を出さない程度に足を早く動かし、外へ出た。裏庭から門を越えて表の舗装道路へと出る。すると、遠くにオイルランプの明りと、それに照らされるセシルとヒューロの人影を見た。

 アリスは咄嗟に自分のオイルランプを消した。夜中はオイルランプの街灯があるので、それだけで十分だ。何より、こちらの明りが見付かって尾行がバれるのだけは避けたい。


(二人が進むのは北の方向。一体、どこに行くんだろう?)


ウェストエンドのさらに西南に位置するのがチェルシー地区だ。ここから北に進めば、待っているのは一大売春地帯であるソーホー地区か、最悪の貧困地区・セブンダイアルズ、あるいは野菜や果物の卸売市場であるコヴェント・ガーデンか。こんな夜更けに子供が行くような場所ではない。


(給金貰ってんだし、ソーホー地区で売春とか有り得ない。セブンダイアルズに行くのも自殺行為。オランダガラシを買うわけでもないだろうし、うーん、見当もつかないなー)


 こんな時はやはり、尾行して直接、見て確かめるべきだろうとアリスは一定の距離を維持したまま二人の背中を追った。――少女はこの時、まだこれから巻き込まれる大事件など知る由もなかった。


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