第1話 Ⅳ


「アップルパイは美味いからぁああ誰だって一個は食べたくなるぅううう。でも本当に楽しみたければぁああああ。一個だけじゃ足りないからぁあああ。二個目のお代わりを要らないようにするためにぃいいいい。一個目を大きく切れよ婆ぁあああああ」


 マザーグースの歌を〝かなり〟改変した歌を口ずさみながら、アリスは雑巾で窓を拭いていた。足元にはブリキのバケツが置かれており、水が入っている。昼過ぎから夏の日光は本気を出しつつあり、廊下もかなりの気温だった。今、猛烈に冷えたビールが飲みたい。


「こんな時に氷でキンキンに冷えたビールと熱々の海老フライがあれば最高なんだろうな」


 うっとりと目を細め、ふと気が付く。それ、可能なんじゃね? と。ロンドン最大規模の魚市場であるビリンズゲイトに行けば海老も難なく買えるし、鉄道が発達している今なら、ノルウェーから輸入される氷も容易に手に入れられる。ビールだって、簡単に買えるではないか。完璧な方程式に、硝子に映ったアリスの顔は不敵な笑みを浮かべていた。


「こうなれば夕飯まで腹を減らしに減らすしかない! ふふふふ。美味い飯が食えるとなれば仕事だって〝嬉しい悲鳴〟よ。さあ、頑張れ私、美味い酒と料理のために!」


 一人でやる気を出すアリス。すると、廊下の端から大声が〝飛んで〟きた。鈴が鳴るように甲高い声は、もはや聞き間違えなどない。セシルの声だった。


「アリスぅううううううう! クッキー焼いたから食べましょぉおおおおおおおおお!」


「あ、やっぱり。朝に私が言ったことは忘れている方向なんですね、こん畜生が」


 呆れ顔のアリスにセシルは満面の笑みを以ってブンブンと手を振った。鞭が豪快にしなるような風切り音は、空耳だということにしよう。人間の腕で可能な音ではないのだから。


「いつもの場所にクッキーと紅茶を用意しています。ヒューロも一緒ですよ!」


 セシルが言う〝いつもの場所〟とは、二階にある使用人専用の食堂だ。主であるローグが使う一階の食堂と比べ、半分にも満たない場所だが、三人で使うには十分過ぎる広さである。日頃の食事、紅茶休憩は決まってここだ。もっとも、アリスの関心は別にあった。


「あ、ヒューロちゃんってやっと起きたんだ。あの子も不思議だよね。起きる時間と寝る時間が自由過ぎるっていうかさ。昨日は、ほぼ徹夜だったみたいし。夜中なんて暗いだけで、明かりがなければ本を読むのだって難しいんだから、さっさと寝た方が特じゃん」


 私達みたいに使用人の仕事がないのなら。と、最後の一文は皮肉に聞こえるだろうから、喉の奥へと飲み込んだ。横に並んで廊下を歩く二人は当然、女中なのだから使用人としての仕事がある。朝に甘いココアを飲んで昼過ぎまで眠る生活をおくるなど、貴族の娘であろうともありえない。せいぜい、夜中から仕事が始まる娼婦程度だろう。まさか、ローグが少女を〝囲っている〟のだろうか。雇い主が幼女趣味。少し、幻滅だ。


(いや、そうと決まったわけじゃないし。っていうか、ヒューロにそういうの無理じゃん)


 アリスはチラッとセシルの横顔を見る。おかしいと言えば、こっちもおかしいのだ。


「ねえ、セシルってどうしてここで働いているの? ローグ様とは、親戚? 随分と親しいみたいだけど。私みたいに求人広告を見たとか?」


 ちなみに、アリスは応接間に通され椅子に座った瞬間にローグから『よし、採用!』と判を押された。こんな勢いで採用するなど、他の職場では絶対にありえない。ありえないからこそ、助かったのだが流石に不安である。何か、隠しているのではないのだろうかと。


(まあ、雇い主の詮索は御法度だけど、使用人同士ならいいよね。セシルって、ローグ様を〝御主人様〟って呼ぶけど、完全に振る舞いが軽すぎるんだよね。昨日なんか『御主人様! バーリントンアーケードでフランス製のカスタード・プティングが売っているそうですよ! 買いたいからお金ください!!』って言ってたし。ローグ様もローグ様で『ちゃんと全員分買ってこいよ』なんて気軽にお金渡すし)


 お菓子買いたいから金を寄こせ。など、他の屋敷で言えば、その瞬間に激怒されるだろう。殴られても、文句は言えない。セシルとローグの距離が非常に不鮮明なのだ。

 セシルなら、ポロッと何か重要なことを語ってくれるかもしれない馬鹿だから。そんな期待もあった。しかし、アリスの期待は色々な意味で裏切られることとなる。


「わわわわわわ、わわわわわわわわわ私、私と御主人様のかかかっかかかかかっかかかかかか関係ですか? べべべべべべべべっべべ別に、べべべべ別になんでもありませんよ?」


 声が上擦り、視線が泳ぎまくり、表情が硬直し、顔面にブワッと汗が噴き出す。ここまで分かりやすい動揺もないだろう。アリスは確信した。やはり、ここの連中は何かを隠している! と。とうとうセシルの歯がカチカチと鳴りだした。この少女、純粋すぎる。


「お、落ち着いてセシル。ほら、階段下りればクッキーと紅茶が待ってるよ」


「そうですよね! クッキーは美味いからパワーが出ますよね。元気が爆発ですよね!」


(その立ち直りの早さは見習いたいよ。……絶対に私には真似出来ないだろうけどね)


 笑顔を取り戻したセシルに、ほっと胸を撫で下ろしつつアリスは軽く廊下を一瞥する。天使の羽が模された真鍮細工が美しいオイルランプが等間隔で壁に並び、窓に嵌め込まれた硝子も綺麗に透き通る一級品。床も全く軋まない。美しい木目が良い味を出している。

 本が棚に沢山並ぶ書斎や、洗濯・食料貯蔵用の地下室まである。ここまで上等な屋敷など、一体どれだけの年収で維持可能なのだろうか。

ちなみに、中流階級の年収が平均で三百ポンドに対し、一部の上層中流階級(アッパー・ミドル)(法廷弁護士、銀行経営者、企業家、軍士官など、中流階級の中でもさらに年収の高い者達)は七百から千ポンドの高額な年収を持つ。上層中流階級(アッパー・ミドル)は最低でも四人以上の使用人を雇うのがステータスとされていて、逆に年収百五十ポンド以下の下層中流階級(ロウアー・ミドル)は一人雇うのがやっととされている。となれば、ローグは中層中流階級(ミドル・ミドル)か下層中流階級(ロウアー・ミドル)ではないかと疑うのは当然の範疇だ。もっとも、アリスのような雑役女中(メイド・オブ・オールワークス)(家事洗濯料理の全てを行う、女中内でもランクが低い職業。本来は洗濯女中、台所女中、客間女中と細分化されている)に専用の個室を与えるなど、もはや〝おかしい〟。ますます、主の正体が読めなくなる。

 あれこれと悩んでいる間に階段も下り終え、二人は使用人用の食堂前に着いた。アリスはクッキーが甘いのなら珈琲も良いなと軽い気持ちでドアを開け、ぎょっと目を見開いた。


「ひゅ、ひゅひゅひゅ、ヒューロちゃん!? そ、それ何!?」


 開けられたドアとは反対方向の壁にあるのは、石炭が入れられていない暖炉。左手側の窓から柔らかな陽光が差し込み、右手側の壁に飾られた調度品は目と心を癒してくる。そして、真ん中に設置された丸テーブルには、山のようにクッキーが盛られた皿と人数分のカップにポットが鎮座している。先に席へ着いていたのは、ヒューロ。彼女の右手に、何か異様な物を見たアリスは危うく、腰を抜かしかけた。一方で、当の本人は嬉しそうにソレを持った右手を胸の高さまで上げたのだ。


「さっき、ようやく組み立てたと、私は言いましょう。くふふふふ。ついに、完成しました。これが私の発明品コノハナサクヤノミコトですと私は宣言しましょう」


 ヒューロの右手に握られていたもの、それは〝拳銃〟だった。少なくとも、アリスにはそれが万年筆には見えなかったし、麺棒にも見えなかった。

 黒きフォルムは重厚で、鈍い輝きを秘めている。グリップは木製で、銃身は長いが銃口は狭い。そして、本来なら回転式弾倉が装着されている部分に、門の開閉用に使われる閂のような部品が装着されていた。撃鉄はやや大きく、全体的に丸みを帯びている。


「ボルトアクション式の拳銃ですと私は語り出します。使用する弾薬は先端が針になっている特殊用です。これで、麻酔に毒、なんでも二百フィート先の標的に当てられますと自慢げに説明しましょう。くふふふふふ。可愛い可愛い私の子ですよ。くふふふふふふ」


 夜中に起きていたのは、これを作るためだったのか。アリスは戦慄し、足を震わす。未だに、ヒューロの前髪は堅牢で表情は見えない。だが、口元が三日月に歪んでいるのは、はっきりと見えた。


「ほほおー。ついに完成したんですね。最近、頑張ってたもんね。偉いぞぉおおお!」


「くふふふふふ。私は努力家だからね。と、得意気に胸を張りましょう。えっへん」


(え、なんでそんな反応なわけ? わ、私がおかしいの? あれ、絶対におかしいよね?)


 仲良く談笑するセシルとヒューロの様子に、アリスは頬を引き攣らせて眉を顰めるのだった。

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