第1話 Ⅲ
山盛りの、ドイツ式豚肉たっぷりソーセージ&グレイビー。ポーチドエッグ。マッシュルームとエンドウ豆の炒め物。トースト、バター、ラズベリージャム。そして、紅茶。食堂のテーブルに並べられた〝立派〟な朝ご飯を前にして、唯一椅子に座っている男は耐え切れないとばかりに目頭を強く指で押さえたのだった。
「正直、アリスが来てからやっとまともな飯が食えるようになったよ。いや、本当に」
遠雷のように低い声で感謝の言葉を贈ったのは、ローグ・キャバリー。少女の雇い主であり、この家の主人だ。歳は二十代前半と若く、身長はアリスよりも頭一つ分高い。細身ながらも精悍な肉体の持ち主で、短い黒髪からはライムに似た整髪料の香りがする。最新式のライフル銃に神様が気紛れで魂を吹き込めば、彼のような人間が生まれるかもしれない。目付きがかなり鋭く、気苦労が似合いそうな顔付きだった。
彼が着るのは白いシャツに、顎までボタンを閉めた灰色のベスト。そして、黒い上着に黒いズボン。どれも一目で上等だと分かる高級品だ。全て、昨日の夜にアリスが用意し、アイロンをかけた服である。遠目からでもパリッと糊が利いているのが視認出来た。
全ての女中がそうするように、アリスはローグの食事中、食堂で待機しなければいけない。白いテーブルクロスがかけられたテーブルの上で、男は忙しなく手を動かす。少々乱暴に見えるが、がさつではないらしく、ソースやパン屑を飛び散らせて周囲を汚すようなことはしない。
「このグレイビーは素晴らしいな。ソーセージとの相性が抜群だ。こっちのパンも良く焼けてる。うま、このラズベリーソースも美味いぞ。パンがいくらでも口に入り込みやがる」
感動してくれるのは嬉しいものの、これは流石に大袈裟過ぎやしないだろうかと困惑するアリスだった。この程度の食事なら、中流階級ではそれ程珍しくないメニューだろうに。
「は、はあ。それは光栄です。……あの、失礼ではないのなら聞かせて欲しいんですけど、ちなみにいつもは何をお召し上がりになって? 私がこの屋敷に来る以前とか」
ピタリと手を止めたローグは何を思い出したのだろうか。露骨に顔を顰めたのだった。
「セシルに任せると肉だろうが魚だろうが野菜だろうが、調理法は焼くか煮るかの二択しかなかった。味付けは塩に胡椒にビネガー。あんなもの、料理とは言わん。山賊の餌だ」
アリスはセシルとの会話を思い出す。『牛肉があるけど、どうする?』と聞けば『焼きましょう!』。『牡蠣が安かったから買ってきたよ』と言えば『美味そうですね焼きましょう!』。『レタスおまけして貰っちゃった』と言えば『新鮮ですね! 生のままバリバリ食べましょう』。確かに、少々、文明人としての威厳が失われるような有り様だった。
「は、はあ。……だから、初日から私に夕食を作らせたわけか」
後半の言葉は小声でローグには聞こえていなかったらしい。男は嬉しそうにナイフでパンにバターとラズベリージャムを塗っている。
(――本当、この人は何者なんだろう。っていうか、貴族なのかな? 働いている様子はないし。どっかの上流貴族の次男坊が親の金で遊んでいるとかかな。けど、なーんか、貴族っぽくないよねー。莫大な遺産が転がり込んだプー太郎とか?)
土地からの収入で金を得る貴族なら、働かなくても済むだろう。ただし、このローグという男の言動は、どうも貴族らしくない。雇い主に対する使用人の詮索は御法度。それがルールだが、アリスは腑に落ちない思いだった。
かといって、余計な詮索をしてローグの反感を買うのだけは駄目だ。こんな職場、きっともう巡り合えない。三食有り! 私室有り! 紅茶とビールの手当て有り! これだけの好待遇など他では皆無だろう。夏が終われば今度は秋、冬と続く。ロンドンは夏の夜でさえ、時として息が白くなるほど冷えてしまう。本物の秋や冬となれば、酒がなければろくに眠れず、手足が凍傷で壊死するかもしれない路上生活など、真っ平ごめんだ。
(絶対、ここで働き続ける。多少の疑問なんてビールと一緒に飲み込んでやるわよ!)
内心で、熱く燃えるアリス。貧乏人の金に対する執着は猛烈に強いのだ。
すると、ローグが天井を仰ぎ見た後に、さっと視線をアリスにスライドさせる。
「……おっと、言い忘れていた。今日は飯を食ったらすぐに出かけるんだ。帰りはかなり遅くなる。夕飯もいらないから、何か軽くつまめる物でも用意しておいてくれ。キッチンに置いてくれたら勝手に食うから、眠っていて構わん」
「かしこまりました。では、サンドウィッチでも作っておきます。飲み物はエールでも」
粛々と頭を下げるアリスに、ローグは『それで頼む』と満足そうに頷いたのだった。
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