第1話 Ⅱ


 ――そして、月曜日から三日後の木曜日。アリスは朝早くからキッチンに立っていた。無論、仕事をするためである。その服装は黒いワンピースに白いエプロン、そして白い帽子。今や彼女はキャバリー家の女中と成ったのだ。欠伸を噛み殺しつつ、作業を続ける。

 黒き鋼鉄の君臨者――密閉式の最新型キッチンレンジは、膝元の高さにある扉を開いて石炭を入れる方式だ。轟々と燃える石炭が熱と炎を浸透させレンジを容赦なく温める。鍋は小さいのが二つ、大きいのが一つ設置されてある。アリスは中身を確認しつつ、鼻を鳴らした。大きい鍋でお湯を作るのは当然として、残りの二つが面倒なのだ。


「朝からラズベリージャムとグレイビーを作るなんてね。金持ちの食事は豪勢だこと。まあ、私にも貰えるから、はりきっちゃうけどね」


 とくに肉汁ソースであるグレイビーは庶民にとって高級品である。牛の脛肉に、タマネギ、ニンジン、セロリ、香味野菜数種、バター、ナツメグ、粉末唐辛子を煮詰めて作るソースは、ただのジャガイモや茹で卵を数段上の味へと昇華させる。これに小麦粉を入れてとろみを出し、パンに塗れば、もう最高だ。

 キッチンはレンジや、パンを焼いているオーブンから伝わる熱で、絶賛蒸し風呂状態である。アリスの額には大粒の汗が浮かんでいた。それでも、美味い朝飯が食えると考えれば喜びの苦難である。濃い紫と化したラズベリージャムに砂糖を足すか迷っていると、背後にスーッと人が立つ気配がした。少女は首だけを後ろに曲げ、神妙な顔付きとなる。


「……ヒューロちゃーん。怖いから無言で背後から近付くの、止めてもらえない?」


 アリスの背後に立っている少女、ヒューロ・スギモットがコクリと頷いた。しかし、伸び過ぎた前髪のせいで表情が判別出来ない。アリスよりも背が低いセシルよりも頭一つ分小さく、四と半フィート(一フィートは約三〇・四八センチ)しかない。

 全体的に細く、十六歳らしいがせいぜい十歳にしか見えない。肌は白ではなく、やや黄色みがある。なんでも〝ニッポン〟という国出身らしい。その服装も、袖が翼のように広がる独特の服だ。スカートも少々変わっている。彼女の周りだけ、温度が極端に下がっていると錯覚してしまうのは何故だろうか。少女が、ボソボソと言葉を紡ぐ。


「……ごめん、と私は思いました。なるべく直しますと好意的に検討します」


「あー、うん。そうだね。検討じゃなくて断定だと嬉しいんだけどな。ええっと、朝ご飯までまだかかるけど、喉でも乾いたの? お水? 紅茶? ココア? それともエール?」


「ココアが欲しいと私は要求します。一杯くださいと私は思います」


 ヒューロは使用人ではない。かといって、客人でもないらしい。食事は女中であるセシルやアリスと一緒にとる。どうにも、掴みどころがない性格である。これが、東洋人というものなのだろうか?


「あー、はいはい。ココアですねココア。ちょっと待ってねー。すぐに淹れちゃうから」


 食器棚に並ぶ陶器製の白いカップを一つ選び、別の棚からブリキの容器を取り出すアリス。作業台にカップを置き、ブリキの蓋を開ける。中には、黒い粉が、粉末状のココアが入っていた。ティースプーンで二杯分をカップに入れ、冷たい牛乳を少し足してペースト状にする。そこへ、角砂糖を三つ足し、熱いお湯を注ぐ。カチャカチャとスプーンで丁寧に掻き混ぜて完成だ。濃い灰色の液体から昇る湯気は、甘く芳しい香りだった。


「はーい、おまちどうさま。まだ熱いから気を付けてね」


「あ、ありがとうと私は貴女に思いました。コレは本当です」


 ココアを受け取ったヒューロがスススーと滑るように音もなくキッチンから出て行った。彼女は本当に幽霊ではないだろうかと、軽く疑ってしまうアリスだった。


「おっはよーぉおおお!! 今日も良い天気ですねぇええええ!!」


 ドロドロに粘度が上がったはずのラズベリーソースが揺れる程の大声に、喧騒に慣れているはずのアリスでさえ反射的に、両耳に手を当てた。毎度のことながら、これは酷い。


「お、おはようセシル。……あのさ、その大声、毎度毎度、どうにかならない?」


「あははっははははは! ごめんごめん! 次は気を付けるように頑張るから!」


 きっと、なにも分かってないのだろう。そんな表情だったのだから。アリスが苦い顔をしていると、セシルは鼻をヒクヒクさせながら鍋に近付いていく。まるで、餌を見付けた野良犬のようだった。そして、小さな鍋を交互に見詰め、ぱーっと顔を輝かせる。


「美味しそうなジャムにソース! これで朝ご飯は完璧ですね。沢山食べて幸せですね!」


「え、ええ、そうね。ところで、居間と食堂の掃除は終わった? もうちょっと?」


「もう終わらせました! 朝ご飯が沢山食べられるようにお腹ペコペコですよ、えっへん」


 出会った当初と比べ、随分と元気が有り余っている様子だった。どうやら、セシルは食いしん坊らしい。今にも涎を垂らしそうだから、さり気なく鍋から遠ざける。


「今日の朝ご飯は決まったけど、お昼はどうしようか。今の時期って何が旬だっけ? エビとか、兎とか、かな?」


 ここへ来る以前はパンとお茶、鰊で済ましていただけにイマイチ、旬の食材が分からないアリスだった。すると、セシルが眼光を鋭く、元気良く語り出したのだ。


「今の時期に美味しいのはヒラメにコイにチャブにイセエビにカニにマトウダイにウナギにカレイにニシンにロブスターにボラに小ウナギにカワカマスにクルマエビにサケにエビにガンギエイにシタビラメにチョウザメにサカタザメにカワマスに子羊肉に子牛肉に雄鹿肉に家禽に雛鳥に小鴨に鶏にガチョウの若鳥に鳩にチドリに兎に七面鳥の雛にツグミに野生の小鴨に猟鳥獣に子兎にライチョウにクロライチョウの雄にアーティチョークにアスパラガスに豆にニンジンにキャベツにエンドウ豆にジャガイモにハツカダイコンにハマナに芽キャベツにカブにセイヨウナツカボチャにカランツにカリフラワーにセロリにオランダガラシにエンダイブにレタスにマッシュルームにタマネギにイチジクにヘイゼルナッツにスグリにブドウにメロンにクワの実にネクタリンにモモにナシにパイナップルにプラムにラズベリーにクルミですよ!! どれも、すっごく美味しいですよ!」


 これが、言葉の暴力か。アリスは耳を押さえて戦々恐々とするのだった。


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