育てるブス。

 キャバクラ騒ぎから幾日か経った。


 今日もせっせとお客さんの髪を切る。毎日飽きもせずハサミを握る俺に、美容師という職業はやはり天職なんだと思う。


 お客さんの髪を切り終わり、お客さんの顔にくっついていた髪をブラシではらっている時に、見覚えはあるが見慣れない人物が鏡に映り込んでいるのに気付いた。


 目を凝らすと、ソイツがペコっと頭を下げた。


 売れない演歌歌手の様な、ビッチリ七三の倉田くんだった。


 浮きまくってるよ、倉田くん。この美容室、モデルも通う様なサロンなのに、よくその髪型で入ってくる勇気があったもんだよ。


 倉田くんが悪目立ちしてしまっている為、お客さんのお会計を早めに済ませて倉田くんに駆け寄る。


 「どうしたどうした、倉田くん」


 その頭といい、色んな意味でどうしたんだ、倉田くん。


 「勝ちましたー‼ 貝谷さーん‼」


 勝手に俺の手を取り、ピヨンピョン飛び跳ねる、日に日にオネエ疑惑が色濃くなっていく倉田くん。そのまま俺を道連れにクルクル回ろうとするから、


 「イヤ、俺は回転しない。倉田くんも回らせない」


 倉田くんの手を強く握り、倉田くんの動作を止めた。店内で七三男と手を握り合うというシチュエーションは、色々どころではなく、何もかもがおかしい。


 「この前、一回負けてしまった裁判、勝てたんですー‼ 嬉しくて嬉しくて、仕事中だから迷惑だろうとは思ったんですけど、どうしても貝谷さんに一言報告したくて来てしまいました。すみません。それだけです。仕事に戻って下さい」


 握っていた俺の手を、恥じらう女子の様に倉田くんがそっと退けた。


 「次のお客さんの予約までちょっと時間あるから大丈夫。てことは、馬場添も一緒? 確か、『今度は私も法廷に行く』みたいな事言ってたよね?」


 店内を見回すも、馬場添の姿はなかった。


 「馬場添先輩、裁判が終わったら違う案件を片付けに行っちゃいました。馬場添先輩は僕と違って、抱えている仕事の量がハンパないですから。馬場添先輩、今日お昼ご飯にありつけるかな」


 店の壁掛け時計を見上げる倉田くん。時刻は十六時になろうとしていた。


 「ここまできたら、潔く抜くだろ。てか、どうしたの? その頭」


 倉田くんのテリッテリに固められた、さっきから気になって仕方がない七三を突っ込むと、


 「だって、今日は大事な日だったから。気合いが入っているところを馬場添先輩に見て欲しかったんです。馬場添先輩、『偉いぞ、倉田』って笑ってくれました」


 『ポマード、ちょっとつけすぎちゃいましたかね』と苦笑いしながらも、どこか満足気の倉田くん。


 「そっか。倉田くん、今日空いてる? 馬場添って何時に仕事終わるかな? お祝いしようよ」


 馬場添に倉田くんの事を頼まれたからというわけではなく、純粋に倉田くんをお祝いしたい…というのもちょっと嘘で、それもあるけれど、単に倉田くんと馬場添とまた飲みたくて、飲み会を企てる。


 「え⁉ お祝いしてくれるんですかー? やったー‼ 馬場添先輩、十九時過ぎには終わると思います。声掛けておきますね‼」


 俺の誘いにバンザイをして喜んでくれる倉田くん。そんな倉田くんだから、また一緒に飲みたいと思うんだ。


 「馬場添御用達の『鳥蔵』にする? 俺、予約取っておくよ。時間は追ってLINEするわ」


 「ソレ、イイですね。馬場添先輩が喜びますよ。じゃあ、すみませんがお店の予約お願いします。ホント、貝谷さんって優しいですよね。僕、貝谷さん大好き」


 ただ、馬場添の御用達の店に行ってみたかっただけなのに、倉田くんに『優しい』と褒められ、『大好き』と告られた。倉田くんのたまにほんのり入ってしまうオネエ感に慣れてきたのか、『大好き』と言われて若干嬉しかったりする。


 「可愛いねぇ、倉田くんは」


 しかし、『俺も倉田くん大好き』とは流石に言えない。俺の中で、女子同志が『大好き』と言い合いながら友情を深めるのはアリなのに、男同志だと無理。絵面が俺の美的感覚に反する。なので、『可愛い』と言いながら、うっかり倉田くんの頭を撫でてしまった。


 「おぉ…」


 手にベッタリくっつくポマード。倉田くんは、馬場添の意向通り水溶性ではなく、元来の油性ポマードを頭に塗りたくっていた。


 「あはは。手、ベタベタになっちゃいましたね。手を洗いに仕事に戻って下さい。僕もまだやり残した事があるので、事務所に戻らないと。飲み会の連絡、待ってますね‼ じゃあ」


 倉田くんは、ポマードのついた手を見つめる俺に笑いながら手を振ると、店を後にした。


 ルンルンな倉田くんの背中を少し眺めてから、手を洗いに洗面台へ向かう。


 一回では落ち切らない頑固なポマード。

 

 「倉田くん、ポマードつけすぎ」


 倉田くんは今日、ポマードを落とすのに三回は洗髪が必要だろう。


 何とかポマードを洗い流し、お尻のポケットからスマホを取り出す。ネットで『鳥蔵』の電話番号を検索し架けると、平日ということもあってあっさり予約出来た。


 『予約出来たよ』と倉田くんにLINEメッセージを送り、仕事に戻る。


 ただの飲み会なのに、今日の夜が楽しみで、お客さんの為にも自分の為にも、時間通りにしっかり終わらせようと気合いが入った。


 

 残業もなく仕事を終え、鳥蔵へ直行すると出入口の前でタイミング良く馬場添たちと合流した。


 三人で中に入ろうとした時、馬場添の電話が鳴った。


 「弟だ‼」


 弟大好き・馬場添がはちきれんばかりの笑顔でスマホを耳に当てた。…が、暫くすると眉間に皺を寄せ、


 「分かった。今から行く」


 と言って電話を切ると、


 「ごめん。今日は二人で飲んで。急用が出来た」


 と言って右手を挙げ、タクシーを捕まえようとする馬場添。


 「お家で何かあったんですか?」


 倉田くんが心配そうに馬場添の顔を覗き込んだ。


 「イヤ、弟の学校で」


 「だったら、僕も行きます‼ 貝谷さん、ごめんなさい。飲み会はまた今度」


 馬場添・弟のトラブルに自分も行くと言う倉田くん。


 そして、馬場添が捕まえたタクシーの後部座席に乗り込む二人。

 

 「俺も行く‼」


 俺も便乗して助手席に乗った。


 「は⁉ 何でアンタも来るのよ⁉」


 後ろの席から馬場添が『降りろよ』と俺の肩を揺らす。


 「だって俺たち三人、友達じゃん。仲良しじゃん。運転手さん、出発しちゃってください」


 馬場添を無視し、ドライバーに車を出してもらった。


 今日は三人で飲むのを楽しみにしていたのに、ひとりで家に帰る気にならない。


 というか俺は、なんだかんだ馬場添の仕事ぶりを見るのが好きなんだと思う。


 「いつから仲良しになったんだよ。ふざけんなよ」


 両腕を組み、ご立腹の馬場添。


 「勘弁してよ。貝谷さん…。馬場添先輩を刺激しないでー」


 バックミラーから、両手で顔を覆う倉田くんの姿が見えた。


 しかし、もうタクシーに乗ってしまっているし、まぁ、途中下車出来るっちゃ出来るけど、ここまで来たら行くでしょ。という事で、三人で馬場添・弟が働いているという小学校へ向かう。


 小学校に着くと、校門前に先生らしき男の人が立っていた。タクシーを降りると、


 「姉ちゃん‼」


 その男の人が馬場添に駆け寄ってきた。どうやら馬場添が溺愛する弟らしい。馬場添が言っていた通り、馬場添の二倍はありそうなくりくりの目をしていて、生徒に留まらず奥様人気も高そうなイケメンだった。馬場添との血の繋がりを疑ってしまうほど、全く似ていない。


 「姉ちゃん、急にごめん」


 「いいよいいよー。いつでも呼んでー」


 弟に激甘な馬場添。あんなにも頬の筋肉が緩んでいる馬場添を、初めて見た。


 「こちらの方たちは…」


 馬場添の弟が倉田くんと俺を見た。


 「あ、私は馬場添先生の後輩の倉田と申します」


 倉田くんがペコっと頭を下げると、


 「姉がお世話になっております。私はこの学校の二年一組の担任をしています」


 馬場添の弟もお辞儀をした。


 「俺は、馬場添の同級生の貝谷です。美容師をしています」


 続けて俺も自己紹介をすると、


 「…美容師?」


 『何故美容師がここに?』とばかりに馬場添・弟が困惑の表情を見せた。


 「あ、貝谷はカウントしないで。見えていない事にして。ここにいるのは三人だけよ」


 馬場添が勝手に俺の存在を消した。


 「オイ‼」


 馬場添の二の腕を揺らすと、


 「貴様、邪魔したらグラウンドに埋めるからな」


 弟に満面の笑みを見せていた馬場添が、目を血走らせて俺を睨んだ。

 

 「それで? 電話の話、詳しく教えてくれる?」


 馬場添が、馬場添・弟に説明を要求し、四人で校舎内へと歩きながら話を聞くことに。


 「俺のクラスに橋本さんっていう女の子がいるんだけど、今日、放課後に図書室で寝ている橋本さんを警備員さんが見つけて、帰宅するように言ったんだけど、帰ろうとしなくて。本人にどうして帰りたくないのかを聞いても全然答えてくれなくて…。で、ふと橋本さんが三日間同じ服を着ている事に気付いてさ、保健室に連れて行って、養護の先生に橋本さんの身体を見てもらったら、お腹や背中に痣が見つかったって。橋本さん、お母さんの再婚で最近転校してきた子なんだけどさ、転校生だから学校でいじめられて出来た痣の可能性もなくはないと思うけど、お友達とは上手くいっているように見えるし、授業も真面目に取り組んでいて、学校が辛い様には見えないんだよね。家に帰りたがらない事と、三日間同じ服を着させられているところをみると、家庭内で何かあるんじゃないかなと…。

 自宅に電話しても出ないし、お父さんの携帯に掛けても繋がらないし、緊急連絡先に職場の番号は記入されていないしで。お母さんの携帯の方が辛うじて留守電になったから、メッセージは入れておいたんだけど」


 馬場添の弟が顔を顰めながら話す。


 「児相には?」


 「連絡した。橋本さんの自宅を訪問してもらったんだけど、人がいる気配はしたけど誰も出て来なかったって」


 馬場添と馬場添・弟の話を聞いていた倉田くんが、


 「一時保護してもらいましょう。万が一いじめが原因だったとしても、一時保護だったら学校には通わず保護施設内での学習になる。どちらにしても、橋本さんの安全は守られます」


 怒っているようにも見える表情をしながら提案をした。


 「それが、本人が泣いて拒否するんですよ。何も話さない、帰ろうとしない、一時保護も拒むで、どうしたらいいのか…。時間も時間ですし」


 本人の気持ちを尊重したい馬場添・弟を、


 「それでも保護してもらうのよ。怪我をしているんだから。ただ、怪我の原因が何なのかは知る必要があるわ。暴力なのか。だとしたら、誰にやられているのか」


 馬場添が、本人の気持ちより、命の安全の方が大事だと諭す。


 話をしている間に、橋本さんがいるという保健室に辿り着いた。


 保健室に入ると、児相の職員と思われる大人に何を聞かれても口を噤んで下を向く女の子がいた。


 「こんにちは。私は弁護士の馬場添といいます」


 馬場添が女の子に挨拶をするが、


 「……」


 返事さえしない女の子。


 「こんにちは。僕も弁護士をしています。倉田です」


 続けて倉田くんも自己紹介をするが、


 「……」


 橋本さんは無反応。イケメン・倉田くんでも喋ってもらえないなんて。


 そんな橋本さんは、三日間同じ服を着ているだけあって、髪の毛も綺麗と言える状態ではなく、ツインテールの高さが左右違っていた。


 「お兄さん、美容師なんだ。ちょっと髪の毛弄らせてー」


 橋本さんに近づき髪を撫でると、


 「……」


 橋本さんはやっぱり何も言ってはくれなかったが、俺に頭を預けてくれた。


 やはり女の子。髪を綺麗にしてもらえるのは嬉しいのだろう。


 「…お兄さん? おっさんじゃなくて? お兄さん?」


 馬場添が鼻で笑いやがった。


 「うるさいババアですねー。ババア馬場添。『ば』ばっかり」


 鞄から櫛を取出し、橋本さんの髪を解かしながら橋本さんの顔を覗くと、橋本さんが少しだけ頬の筋肉を緩めた。


 橋本さんの表情の変化を馬場添も見逃さず、馬場添はすかさず橋本さんの死角に入ると、鞄から手帳を取出し、何やら書き出した。


 そしてそれを俺に見せる。そこには、『なるべくゆっくり髪結んで』と書かれていた。


 何でだろう? と思いながらも馬場添に頷くと、また何かを書く馬場添。


 馬場添がまた、手帳に書いた文字を俺に見せる。


 『髪の毛、いつも自分で結んでいるの?』


 橋本さんに質問しろという事だろう。


 「髪の毛は、いつも自分で結んでるのー?」


 なるべく明るく、高めのトーンで橋本さんに話し掛けてみる。


 橋本さんが小さくコクリと頷いた。


 『お母さんは忙しいの? お仕事、朝早いの?』


 また、馬場添からの指示が出た。


 「偉いねー。まだ二年生なのにー。お母さんって朝は忙しいのかな? 出掛けるの早いの?」


 馬場添の言葉を柔らかく砕き、フレンドリーに橋本さんへ質問する。


 今度は首を左右に振る橋本さん。


 『お父さんの仕事は何?』


 馬場添の問いが、橋本さんの父親に及ぶ。


 「じゃあ、お父さんは何のお仕事をしているの?」


 この質問をした途端、橋本さんが泣き出してしまった。


 「ごめんごめん。お兄さん、嫌な質問しちゃったね」


 橋本さんを抱き寄せ頭を撫でた時、


 「…?」


 橋本さんの額の少し上にたんこぶがある事に気づいた。


 どこかにぶつけて出来たものかもしれない。でも…。


 たんこぶを指差し、馬場添に目配せすると、馬場添がそーっと橋本さんの頭を確認した。そして、


 「橋本さん、小学二年生だから弁護士がどんな職業なのかは、詳しくは知らなくとも何となくは分かるわよね?」


 馬場添が、俺を介さず直接橋本さんに話し掛けた。


 「……」


 やはり、馬場添の質問には答えない橋本さん。


 「俺が聞くって」


 と小声で馬場添にそう言うも、馬場添は首を横に振った。


 「弁護士ってね、めちゃくちゃ勉強しないとなれないのよ。東大って知っているわよね? そう、日本のトップの大学。私はそこの卒業生。つまり、とても頭が良いの」


 そして、突然始まった馬場添の自慢話。保健室にいる全員が漏れなく苦笑。


 「橋本さん、今とても苦しい思いを強いられているんじゃないの? 私は凄く賢いの。橋本さんの願いを全て叶える事は難しいかもしれないけれど、身の安全と健やかな生活を確保する事は出来るわよ。今、チャンスよ。私なら橋本さんを助けられるわよ。このチャンスを棒に振って、今までの生活に戻りたい?」


 馬場添が橋本さんの目を見つめると、橋本さんも強い視線を返した。


 「……」


 それでも橋本さんは何も発しない。


 「橋本さん、誰かに脅されているの? 誰かに何かを話したら、報復されてしまうの? だとしたら、それは大丈夫よ。何も心配いらないわ。だって私、そんな人間よりずっと強いから」


 馬場添が橋本さんの手を握った。


 「…新しいお父さん…怖い」


 橋本さんが、初めて喋った。


 「たんこぶも、お腹や背中の痣も、お父さんがやったの?」


 馬場添の問いかけに、涙を零しながら頷く橋本さん。


 「お母さんは? この事を知っているの?」


 「……」


 「お母さんは、橋本さんがお父さんに暴力を振るわれている事は知らないの?」


 「……」


 でも、馬場添の質問がお母さんの話題になると、橋本さんはまた口を噤み、頷く事もしなくなった。


 「お母さんは怖くない? 怖いのはお父さんだけ?」


 馬場添は質問を辞めない。橋本さんを助けるには、情報が少なすぎるから。


 「…新しいお父さんじゃなくて、本当のお父さんと三人で暮らしたい」


 橋本さんは、馬場添の質問の答えにはなっていないけれど、願いを口にした。


 その時保健室の扉が開き、橋本さんのお母さんと思われる女の人が中に入って来た。


 「瑠伽‼ 何やってるの‼ 帰るよ‼ お父さんに怒られたいの⁉」


 その人が橋本さんの手首を掴んだ。


 「やめてください。橋本さんは児相で一時保護します」


 橋本さんを守る様に、二人の間に入る倉田くん。


 「児相の人?」


 「橋本さんのお母さんですか? 私は弁護士の倉田と申します」


 倉田くんと女が睨み合った。いつもは少しナヨナヨしているのに、今日は別人の様に鋭い眼差しをしている倉田くん。


 「一時保護などしなくて結構です。私はこの子の母親です。この子は連れて帰ります」


 『行くよ』と再度橋本さんの手首を引っ張る、橋本さんのお母さん。


 「一時保護に保護者の承諾は必要ありません。橋本さんは、自宅へは帰せません」

 

 橋本さんが連れて行かれないように、壁の様に橋本さんの前に立ちはだかる倉田くん。


 「それ、誘拐じゃない」


 『警察呼ぶわよ』と強気に出る橋本さんのお母さん。

 

 「呼びましょうか? 警察。呼ばれても大丈夫ですか? あ、ご挨拶が遅れました。私も、弁護士の馬場添と申します」


 そこに馬場添も参戦。


 「お子さんを迎えに来るの、随分遅かったですね」


 馬場添が橋本・母に近づく。


 「夕食の買い出しに行っていたの‼」


 「どちらのスーパーへ?」


 「ABマート‼」


 「何で荷物を持っていないの? そのスーパー、この学校の近くですよね? いちいち家に荷物を置いてから来たの? 本当に買い物になんて行っていたの? 本当は、学校から電話があった時も児相が訪問した時も家にいて、橋本さんが帰ってきたらどうやってお仕置きしようか旦那と相談していたんじゃないの?」


 馬場添がじわりじわりと橋本・母を尋問し始めた。


 「それ、名誉棄損なんじゃないの⁉ あたかも私たちが虐待をしているかのように言って。失礼極まりないわ‼ 訴えてやろうかしら。弁護士免許に傷が付いちゃうんじゃない?」


 橋本・母が薄―い法律の知識で馬場添え挑発し、笑った。


 「私は『お仕置き』としか言っていないんですけどねー。『お菓子抜き』とか、『お風呂掃除』とか、そういった類のお仕置きだとは思わないんですね。『虐待』だなんて、物騒だわー。どうぞどうぞ、訴えて。こてんぱんにしてさしあげるから」


 馬場添が笑い返す。敵を甚振っている時の馬場添は、本当に活き活きとした顔をする。


 「そうそう、虐待と言えば、橋本さんの身体の痣、お父さんにやられたそうですね。可哀想に」


 「躾よ。子どもがいない人には分からないと思うけど、時には手だって出るのよ」


 馬場添の質問に、いかにも虐待している親の言い訳の様な言葉を並べる橋本・母。


 「ということは、瑠伽さんがお父さんから手を上げられているのを知っていたという事ですね。躾だから、痣がいくつ出来ようとも問題ないと。三日間も同じ服で過ごさせる事も躾の一環ということですかね。清潔を保てず健康に害が出たとしても、『躾ですから』と?」


 「……」


 馬場添に追い詰められ、反論出来ずにいる橋本・母。


 「あなたは、今の旦那さんと別れる気はないのでしょうか?」


 今度は倉田くんが橋本・母に質問を始めた。


 「何で別れなきゃいけないのよ」


 子どもを虐待している旦那と別れない妻がいる事を、テレビの報道とかでよく見るが、実際目の当たりにしても、この女の気持ちが理解出来ない。

 

 『なんで』って『子どもが虐待をされていて苦しい思いをしているから』だろ。そんなの、馬鹿でも分かる事なのに。この女の頭の中はどうなっているのだろうと、奇妙に思っている俺の近くで『はぁ』と馬場添がため息を吐いた。


 「瑠伽さん、言っていました。本当のお父さんと三人で暮らしたいって。瑠伽さんは実父との生活を希望しています。本当はアナタとも一緒にいたいのだと思いますが、アナタが旦那さんと別れる気がないのであれば、瑠伽さんの実父に親権を移しては如何でしょう」


 「嫌です。なんで私が自分のお腹を痛めて産んだ子を、前の旦那に渡さなきゃいけないのよ」


 橋本・母がまた、誰もが答えを知っている『なんで』を口にしながら倉田くんの提案を拒否した。


 「瑠伽さんって、今の旦那さんと養子縁組されてます?」


 馬場添が質問を再開。


 「何でそんな事を答えなきゃいけないのよ」


 橋本・母は、馬場添の質問に対しては回答を拒否した。


 「別に答えたくないなら調べるので結構です。親権変更調停の前に親権停止・喪失並びに子の引渡・監護者指定の審判の申立てが必要かどうかを知りたかっただけなので。どっちにしろ、どんなにアナタが拒もうとも、アナタが瑠伽さんと一緒に暮らす事は出来ません」


 馬場添が言い切ったところで、


 「お母さんと一緒にいたい‼ 離れ離れになるのは嫌だ‼」


 橋本さんが泣きながら叫んだ。


 「ほら‼ 瑠伽もこう言っているじゃない‼ 本人の希望なんだから連れて帰ります」


 橋本・母が橋本さんの二の腕を持ち上げた。

 

 「一時保護に本人の希望は考慮されません。安全確保が目的ですので」


 またもや倉田くんが橋本さんと橋本・母の間に割って入った。


 「橋本さん。私、さっき言ったわよね。『橋本さんの願いを全て叶えるのは難しい』って。お母さんを選ぶのであれば、橋本さんが自分の力で生活が出来るようになるまでの間、橋本さんに危害を加える新しいお父さんと暮らさなければいけない。でも、実のお父さんを選ぶのであれば、お母さんはいなくとも、暴力を振るわれる事はなくなる。どっちも選ばず、児童養護施設に入るという手段もある。選択肢はこの三つ。橋本さんはまだ小二だから、自分の力では生きられない。願いが全部叶わないのと同じで、選択肢全てを拒否する事も出来ない。どれにする? 橋本さんの人生よ。橋本さんが決めて。ただ、ここで選択を誤ってはいけない。橋本さんの人生が有利になる選択をして」


 馬場添がしゃがみこみ、橋本さんと目線の高さを合わせた。


 「…新しいお父さんがいる家には帰りたくない」


 橋本さんが馬場添に訴えかける。


 「うん」


 馬場添が橋本さんの答えを待つ。


 「お父さんを選んだら、お母さんには会えないの?」


 「一緒には暮らせないけど、お母さんと橋本さんに会う意思があれば会えるわよ。ただお父さんから何らかの条件は出るだろうけどね。例えば、養父がいる場所には連れて行かないとか、十七時までには帰宅させるとかね」


 馬場添が橋本さんの一番の気掛かりだろう質問に丁寧に答えると、


 「…お父さんのところへ行きたいです」


 橋本さんが決断を下した。


 「良かったわ。ぶっちゃけ、お母さんを選んだところで、暴力養父がいる家になんか帰せないから、結局一時保護で、実質二択だったのよね。本当のお父さんと暮らすには、色々と手続きが必要なんだけど、出来る限り早めにするから、それまでは保護施設での生活になる。ちょっとの間、待っててね」


 馬場添が橋本さんに笑い掛けながら立ち上がった。


 「ということなので、橋本さんはあなたと一緒に帰りません」


 馬場添が勝ち誇った顔で橋本・母に頭を下げた。


 「…ふざけんなよ‼ 他人が家庭の事情に首突っ込んでんじゃねぇよ‼」


 橋本・母が馬場添に掴みかかる。胸倉を掴む女も掴まれる女も生まれて初めて見た。


 「ふざけてんのはどっちだよ‼ なんで子どもに暴力を振るう男と別れないんだよ‼」


 しかし全く怯まない馬場添。


 「好きだからだよ‼」


 橋本・母が、馬場添を締め上げる勢いで馬場添の身体を揺らした。


 「ますますふざけんな‼ アンタ、母親でしょうが‼ 何を自分の恋心を優先してるんだよ‼ 子どもが最優先だろうが‼」


 が、馬場添が負けるわけがなく、逆にヒートアップ。


 「私の人生だよ‼ 私が最優先で当然だろうが‼」


 「子どもの命に責任を持てないなら、自分以外の命を守れないなら、自分の人生を優先したいなら、他の命を産み落とすな‼」


 馬場添に正論で怒鳴られ、橋本・母が馬場添から手を離した。


 そして床にへたり込む橋本・母。馬場添は橋本・母を見下ろすと、


 「あなたは綺麗なお母さんね。本当に綺麗」


 何故か橋本・母を褒めだした。確かに美人な橋本・母。なんか、いい匂いもするし。


 「…何よ、急に。別に特別な事なんてしてないわ。アナタと違って高給取りじゃないから、化粧水だって普通の…「誰もそんな事聞いてねーよ、ばーか」


 橋本・母が喋っている途中に、馬場添が悪口でカットイン。持ち上げてみたり下げてみたり、何なんだ、馬場添。


 「瑠伽さんは三日も同じ服を着ているのに、アナタはなんで洗濯のいき届いた綺麗な服を着ているのよ。香水まで振りかけちゃって。髪の毛だってちゃんとお手入れしてるでしょ。瑠伽さんのツインテールは高さも太さも違っていたわ。アナタ、娘の髪の毛、結ってあげた事ある? 瑠伽さんの頭部のどこにたんこぶがあるのか知っているの? 本当に、アナタは綺麗すぎるのよ。自分の子供が虐待されているのに、助けもせずにただぼーっと見ていたから傷一つないの? まさかと思うけど、アナタも一緒に暴力を振るっていたわけではないわよね⁉」


 馬場添の怒りは収まらない。今までの不倫や離婚の話と訳が違う。子どもが犠牲になっている。どうしても許せないのだろう。


 「私まで虐待していたら、瑠伽が私と一緒にいたいなんて言うわけがないじゃない」


 「…ふーん?」

 

 橋本・母の反論に、馬場添は何かを知っているかのような反応をした。


 「…何よ」 


 馬場添のおかしな態度に不信感を募らせる橋本・母。


 「何が?」


 「…本当は瑠伽から聞いて知っているんでしょ」


 「母親の口から聞いて確認したいのよ」


 「…仕方がないじゃない。血の繋がらない子を養ってもらっているんだもの。瑠伽が旦那の気に食わない事をしていたら、私も一緒に叱らなければいけないのよ」


 橋本・母が、馬場添のかけたカマにまんまとかかって、虐待を自白した。


 「…ふざけんな」


 小さな声が聞こえた。声の主は、怒りに震えた倉田くんだった。こんな倉田くん、見たことない。


 「瑠伽さんは『お父さんにやられた』事と『本当のお父さんと三人で暮らしたい』しか言っていません。母親から暴力を受けても、母親と一緒にいたいという子どもは多いんです。お母さんからも酷い目に遭っているのに、瑠伽さんはお父さんの暴力の事実しか言わなかった。瑠伽さんは、お母さんを庇ったんです。何でか分かりますか? お母さんの事が好きだから。本当のお父さんと一緒に暮らしていた時の、優しいお母さんが大好きだからですよ‼

 子どもに暴力を振るうことが仕方がない? 理不尽に人を傷つける行為に仕方のない事など一つもないんですよ‼」


 倉田くんが泣きながら怒鳴った。


 『なんか、最後の台詞、どこかで聞いたような』と馬場添の方を見ると、『パクられたんだけど』と馬場添が眉間に皺を寄せながら笑った。


 「橋本さん、瑠伽さんは児相で保護する事になりましたので、お母さんはお帰り下さい」


 もうこれ以上話を聞き出す事も話し合いの必要もないと判断した馬場添・弟が、橋本・母に帰宅を促すと、橋本・母は橋本さんに『ごめんね』と言って涙を流しながら保健室を出て行った。

 

 「ねぇ、倉田。この問題、これからどうしようか?」


 馬場添が倉田くんに今後の相談をし出した。

 

 「まず、橋本さんの実父に連絡をして、親権の移動の相談をします。そして、橋本さんが養父と養子縁組をしていた場合、親権停止の申立てをします」


 倉田くんがこれからの段取りを話すと、


 「実母と養父の共同親権だった場合、親権の移動は面倒臭いし時間も掛かる。でも、やるしかない。倉田なら出来る」


 馬場添が『頼んだぞ』と倉田の背中をパシンと叩いた。


 「…え?」


 「倉田、児童虐待対応弁護、興味あるんじゃないの?」


 馬場添は、今日の倉田くんの姿を見て、倉田くんにこの件を委ねようと思ったらしい。


 「…やりたいです‼ やらせてください‼ でも、何かあったら馬場添先輩の意見も聞かせて下さい‼」


 倉田くんが頬を流れていた涙を手の甲で拭うと、目を輝かせた。


 「うん。いつでも頼ってこい‼」


 笑顔で頷く馬場添。


 「僕、一生馬場添先輩について行きますから‼ 馬場添先輩の背中、追いかけ続けますから‼ めちゃくちゃ怖いけど、大好きですから‼

 僕、事務所に戻って資料作成します。お先に失礼します‼」


 気合の入った倉田くんは、一刻も早く仕事がしたい様で、駆け足で保健室を出て行った。

 

 「え? めちゃくちゃ怖いって言った? 何? 聞き間違い? どういう事?」


 馬場添が『しばき倒した方がいいのかしら』と呟いた。馬場添にとっては心外だったらしい。


 「聞き間違ってねぇよ。そういう事だよ」


 と突っ込むと、馬場添がすかさず俺の横腹に肘鉄を喰らわせてきた。


 『ゴホゴホ』と咳き込む俺の背中を、『姉がすみません』と馬場添・弟が摩った。


 「大げさだな。あ、おっさんだから咳が止まらないのか。なるほどなるほど。じゃあ、私たちももう帰るから、あとはお願いしてもいい? 橋本さんを児相に一時保護してもらって」

 

 俺の事などお構いなしに、馬場添は橋本さんの事を弟に託すと、『ホラ、行くぞ。歩け』と俺の腕を掴んだ。


 「あとは任せて。姉ちゃん、今日はありがとう。貝谷さんもありがとうございました」


 俺たちに手を振る馬場添・弟の隣で、


 「髪の毛、可愛くしてくれてありがとう。お兄ちゃん」


 橋本さんも手を振りながら笑顔を見せてくれた。


 「違うよー。お兄ちゃんじゃないよー。おっさんだよー」


 馬場添、笑顔で訂正。


 「違わないよー。貝谷お兄ちゃんだよー。今度、お兄ちゃんが働いている美容室においでねー」


 背中で馬場添を追いやり、橋本さんに手を振りかえすと、馬場添と保健室を出た。


 学校を出て、タクシーが拾えそうな場所まで馬場添と歩く。

 

 「なんか今日の倉田くん、いつもと違ってたな。なんか、カッコ良かった」

 

 「そうだねー。でも、泣いちゃうところが倉田らしいよね」


 倉田くんの話をしながら歩いていると、


 「なんだかんだありがとうね、貝谷。貝谷がいなかったら、橋本さんは心を開いてくれなかったかもしれない」


 『助かったわ』と馬場添が俺にお礼を言った。


 「おぉー。馬場添の『ありがとう』を聞いたの、人生二回目だー」


 なんか照れてしまっておどけてみせると、


 「アンタ、馬鹿なんじゃないの? それは、私がありがとうを滅多に言わない性格なんじゃなくて、アンタがありがとうと言われるような事を滅多にしていないからよ」


 馬場添が細い目をして俺を見た。ただでさえ、元から細いのに。


 「相変わらずの口の悪さ。橋本さんの件は倉田くんで正解かも。馬場添だと橋本さんが怖がっちゃうだろうし。馬場添はこの後どうするの? 帰るの? 事務所に行って倉田くんと仕事?」


 馬場添の悪口は返さないと気が済まない為、取りえずは言うが、悪口ラリーをしてしまうと間違いなく負けると分かっているから、さりげなく話題を変える。


 「倉田、多分何も食べてないだろうから、差し入れをしに事務所に行こうと思う。倉田、集中すると食べるの忘れるのよね。

 でも、仕事は手伝わない。手は必要な時にだけ貸す主義」


 馬場添が話している最中に、タクシーが見え、慌てて手を上げるとタクシーが止まってくれた。


 「じゃあ、お先にどうぞ。俺は帰るだけだから。倉田くんに『頑張って』って伝えといて」


 馬場添にタクシーを譲ると、


 「ありがとう。じゃあ、遠慮なく」


 と、馬場添がタクシーに乗り込んだ。


 「あ、また『ありがとう』って言った」


 と言って馬場添を指差すと、


 「大判振る舞いしすぎたー」


 と馬場添が笑った。そして、タクシーのドアが閉まった。

 

 馬場添のタクシーを見送ると、スマホが光っている事に気づいた。


 【飲み会、いつ仕切り直そうか?】


 馬場添からのLINEだった。


 絶対に近いうちに開催しようと思った。

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