希望の光を照らすブス。
真田の件も無事に決着。今度こそ平穏な毎日を送れると、ご機嫌で店に出勤すると、
「…おはようございます。貝谷さん」
アシスタントの真衣ちゃんが、目を真っ赤に腫らせた状態で俺に挨拶をした。
「…おはよう」
腫れた目について、触れて良いのか悪いのか分からず、とりあえず挨拶を返す。…が、
「貝谷さん。私、どうしたら良いのでしょう?」
迷っている間に、真衣ちゃんから相談を持ち掛けられた。
「何かあったの?」
「元彼が…実は既婚者だったみたいで、相手の奥さんから慰謝料請求されてしまって…。彼が結婚している事を知らなかったって主張したんですけど…ダメでした」
真衣ちゃんが両手で顔を覆いながら泣き出してしまった。
…またか。またなのか。これはもう、アイツに頼るしかないヤツやん。俺も思わず額に手を当てる。
『嫌だなー嫌だなー』とアイツへの連絡を躊躇していると、
「あー。貝谷さんが真衣ちゃんを泣かせてるー」
同僚の美容師に俺らの姿を見られてしまった。
「違う‼ 俺が泣かせたわけじゃない‼ 真衣ちゃん、その顔でお店に出るのは無理だ。今日は有給を取りなさい。俺、ちょっと当てがあるから、後で連絡するから、それまで自宅でゆっくりしてな」
真衣ちゃんの背中を押してロッカールームに行かせると、ポケットからスマホを取り出した。
『ふぅ』と小さい息を吐き、『可愛い後輩の為ではないか。先輩として一肌脱ごうぜ』と自分に言い聞かせながら、スマホを耳に当てた。
『はい、本田法律事務所です』
今日も電話に出たのは倉田くんだった。
「お久しぶりです。貝谷です」
『全然お久しぶりじゃないです。…またですか? またなんですか?』
倉田くんが、さっきの俺の感想とほぼほぼ同じ言葉を口にした。
「今度は同級生じゃない。俺の職場の後輩で…。泣いて目がパンパンで、仕事が出来る状態じゃなくてさ。助けて欲しい」
『普通の方ですか? 貝谷さんが連れてくる人って、なんか少し…エキセントリックじゃないですか』
倉田くんは、また事務所内で感情的になり、大声を上げる文乃や汐里のような人を連れて来られ、馬場添のご機嫌を損なう事を避けたいのだろう。
「今回は大丈夫。素直ないい子だから」
『…本当かなぁ。取りあえず、明日の午前九時なら馬場添先輩のスケジュールに空きがあります。予約、入れますか?』
素直ないい子という情報をあまり信じていなさそうな倉田くんの声からは、全然やる気を感じられない。
出来れば来ないで欲しいという倉田くんの念はビンビンに感じるが、
「開店前に行けるから丁度いい‼ お願いしまーす」
馬場添の力を借りずに解決出来るなら、とっくにそうしているわけで、もう行くという選択肢しかない。
『…では明日、お待ちしていま…』
「【す】まで言って‼」
『正直、【せん】ですよ。全然待ってないですよ』
「明日、よろしくね。倉田くん‼ じゃあ」
愚図る倉田くんを押し切り、電話を切った。
開店時刻が迫っていた為、真衣ちゃんには明日馬場添の事務所へ一緒に行こうというLINEメッセージを送った。
LINEはすぐに既読になり『よろしくお願いします』という返事がきた。
大丈夫。馬場添なら何とかしてくれる。辛辣な言葉に耐えられさえすれば。
翌日、真衣ちゃんと一緒に本田弁護士事務所へ。
昨日も泣き続けただろう真衣ちゃんの目は、一層腫れぼったくなっていた。
事務所のドアを開けると、
「……」
倉田くんが迎えてくれたが、真衣ちゃんの泣き腫らした目を見て、汐里の時の様なガッカリ感は出さず、無言になった後、
「こちらへどうぞ」
馬場添がいる部屋へ案内した。
「馬場添先生、お連れしました」
倉田くんがドアをノックすると、
「どうぞー」
ドアの向こうから馬場添の声がした。機嫌の良し悪しは分からない。
ドアを開けると、
「出た出た、貝谷。また出た」
馬場添が、あまりにもしょっちゅうやってくる俺に呆れた視線を向けた。そして、
「倉田ー。タオルにアイスノン巻いて持ってきて。あと飲み物」
真衣ちゃんの目を見て、倉田くんに指示を出した。
「すぐ用意しますね。飲み物はコーヒーでよろしいですか?」
倉田くんが真衣ちゃんに優しく尋ねると、真衣ちゃんが小さく頷いた。
「どうぞ、掛けて」
倉田くんが飲み物を準備しに部屋を出ると、馬場添が俺らにソファーに座る様促した。
真衣ちゃんと並んで腰を掛けると、
「貝谷ってさぁ、金田一みたいよね。あ、違う違う。IQの高さじゃない」
開口一番に馬場添がわけの分からない事を言い出した。しかも、まだ何も言っていないというのに、俺がIQの高さが金田一と同じだと勘違いしている態で話すし。
「は?」
「金田一ってさぁ、行く先々で誰か死ぬじゃん。お前、死人呼び寄せてるだろ的な。最早体質だと思うわ。貝谷もさぁ、生きているだけで困った人が寄ってくるでしょ。そういう体質なの? 疫病神なの?」
俺の登場が頻繁すぎて、もうイラつくのを通り越し、呆れてしまっている様子の馬場添。
「うるせぇな。お前の太客になってやってるんだから、感謝しろよ」
「確かに。でもアンタ、本当にお祓いとか行った方がいいと思うわ。何か取り憑いてるわよ、絶対。真衣さんが辛い目に遭ったのも、貝谷の近くにいたせいなんじゃないかと思うわ。存在が不吉よ」
今日も馬場添の口の悪さは絶好調。殺傷能力高めの悪口を次々繰り出す。
「『存在が不吉』って…」
昨日からずっと暗い顔をしていた真衣ちゃんが、少しだけ笑った。
馬場添の減らず口はカチンとくるが、真衣ちゃんが笑ってくれるなら、まぁ良しとしよう。
「失礼しまーす」
そこへ、アイスノンとコーヒーを用意した倉田くんが戻ってきた。
「瞼に当ててください」
早速倉田くんが真衣ちゃんにアイスノンを手渡す。
「泣くならしっかり冷やさなきゃダメじゃない。可愛い顔が台無しよ」
俺には辛辣なくせに、真衣ちゃんには優しい言葉を掛ける馬場添。
「良かったな、馬場添は元から台無しだから、思う存分号泣出来て」
しかし俺は疫病神呼ばわりな為、憎たらしい悪口を叩く。
『言ってやったぜ』くらいのテンションで『ふふん』と鼻でも鳴らせていると、馬場添は目をかっ開いて俺に眼を飛ばしているし、馬場添を怒らせたくない倉田くんは、黒目紛失状態の白目むき出しで俺を睨んでいた。
「貝谷程度のクオリティーで人の顔をどうこう言ってるんじゃないわよ。アンタ、その程度の造形で、自信あったりするの? 恥ずかしい上に残念極まりない男ね。
それに私、ここ二十年は泣いてないから、既に泣き方すら忘れたわ。私には女の涙など必要ないので。泣かずとも、自分で何でも出来るもの。頭が良いから」
俺の言った何倍も多く悪口を言い、更に『自分は頭が良い』という自画自賛までする馬場添。
「馬場添先輩は、顔も心も涙もダイヤモンドです‼」
倉田くんは歯の浮くような嘘を堂々と吐くし。
「イヤ、馬場添の涙なんか見たことないだろ。二十年泣いてないんだから」
馬場添と倉田くんの茶番にツッコミを入れると、
「今日は、どんな相談ですか?」
倉田くんは一瞬『ハッ』とした顔をしたくせに、アッサリ話題を変えやがった。
「あ…。あの、ずっと付き合っていた彼氏が実は結婚していたみたいで、彼の奥さんから慰謝料の請求をされてしまいました。でも私は、本当に彼が既婚者である事を知らなかったんです‼」
ようやく真衣ちゃんが話を出来るターンがやってきた。
今までふざけていた馬場添と倉田くんが真衣ちゃんの目を見つめながら耳を傾ける。
きっと今までの無駄なやり取りは、意気消沈している真衣ちゃんの気持ちを少しでも解して、喋りやすくしたかったのだろう。
「裁判、負けたでしょ」
馬場添が、真衣ちゃんがまだ話していない裁判結果を言い当てた。
「ネットで調べたら、相手が既婚者だという事を知らなかった場合、慰謝料を払わなくていいって書いてあったのに…」
真衣ちゃんが涙ぐんだ。
「アナタが相手の男と出会ったのはどこ?」
「居酒屋で友達と飲んでいる時にナンパされました」
『それ、知る必要ある?』とツッコミを入れたくなる様な馬場添の質問に、素直に答える真衣ちゃん。
「だから、負けたの」
「…え?」
何が『だから』なのか、真衣ちゃんも俺も分からない。
「出会った場所が婚活パーティーとかだったら良かったのよ。独身であることが当然の場だからね。でも出会いが居酒屋だと、相手が既婚者であるかどうかを確認しなかったアナタの落ち度になるの。でも、百%アナタが悪いわけじゃないから、慰謝料の減額はあったんじゃない?」
「…それでも百万円です。そんな大金、無理です」
馬場添の話を聞きながら、やっぱり泣いてしまう真衣ちゃん。
「…ちょっとおかしくね? 誰かと出会った時、いちいち結婚しているかどうかなんて聞かなくね? 真衣ちゃんに落ち度って…納得いかない」
馬場添の説明を聞いても、全然承服出来ない。
「日本の法律がそうなの。日本は本妻の主張を守るの。それほど不倫は大罪なのよ」
淡々と事実を述べる馬場添。
真衣ちゃんや俺が納得しようがしまいが、『法律だから』という事で、この件は片づけられてしまうのだろうか。
「おかしいって‼ じゃあ、真衣ちゃんは、慰謝料を払わきゃいけないって事?」
馬場添に怒っても仕方がないのに、何も悪い事をしていない真衣ちゃんが損をしなければいけない事が許せなくて、怒りをぶつけてしまう。
「『結婚してないよ』とかいうLINEのやり取りとか、電話の録音記録があれば覆せなくはないけど…「ないです」
馬場添の話の途中に、真衣ちゃんが首を左右に振りながら否定した。
「…慰謝料は、どうしても払わなければいけないんですね」
真衣ちゃんがため息を吐いて、大粒の涙を零した。
「そうね」
馬場添は、真衣ちゃんの為に戦ってはくれないらしい。
「何でだよ‼ 真衣ちゃんは被害者なのに」
腹立たしくて、思わず自分の太ももを拳で叩いた。
「だから、真衣さんも慰謝料を取ればいいのよ。被害者なんだから」
「…え?」
馬場添の提案に真衣ちゃんが首を傾げた。
「イヤイヤイヤ。さっき、『もう覆せない』って言ってたじゃん」
俺にも馬場添の言っている事が理解出来ない。
「戦う相手が違うのよ。被害者同士でやりあってどうするのよ。相手の奥さんは、真衣さんと旦那の被害者。じゃあ、真衣さんは誰の被害者?」
馬場添がニヤリと笑った。
「…元彼の被害者だ」
真衣ちゃんが泣くのをやめた。
「…そうじゃん‼ よくよく考えたら、真衣ちゃんの元彼、結婚詐欺師じゃねぇか‼」
『元彼、ぶっ潰してやろうぜ‼』とばかりに大興奮の俺に、
「貴様の頭、どうなってるんだよ。よくよく考えなくても結婚詐欺じゃねぇわ。倉田、このど阿呆さんに説明してやって」
馬場添が冷めた視線を飛ばしてきた。
「はい‼ 結婚詐欺とは、結婚する意思がないにもかかわらず、結婚を餌にして異性に近づき、相手を騙して金品を巻き上げたり、返済の意志もないのに金品を借りたりし、異性の心身を弄ぶ行為の事を言います。今回はそう言った事がありませんので、結婚詐欺にはあたりません」
とても分かり易く説明してくれる倉田くん。しかし、
「詐欺じゃなければ、どういう理由で訴えるんだよ」
頭が良ろしくない俺は、何もかもが分からない。
「貞操権侵害。」
馬場添は俺の疑問に答えてくれたが、
「何それ」
やっぱりさっぱり分からない。
「倉田ー」
そんな俺がうっとしくなった馬場添が、説明を倉田くんに振る。
「はい‼ 貞操権侵害とは、相手を騙して性的な関係を持つことです。真衣さんは、相手に既婚者である事を隠されたままお付き合いをされていましたので、貞操権侵害で訴える事が可能です」
説明係と化した倉田くんが、親切丁寧に解説。
おかげでやっと事態を把握出来た。
「で、いくつかお伺いしたいのですが、相手の名前と住所と職場を教えて頂けますか?」
質問する馬場添の隣で、データを入力しようと倉田くんがパソコンのキーボードを叩く。
「名前は田中 信。住所と職場は分かりません」
真衣ちゃんが眉を顰めた。
「電話番号は?」
「LINEIDしか…」
真衣ちゃんが俯いてしまった。
ヤバイ。また何も分かっていない人間を連れて来てしまった。馬場添が絶対にキレるヤツやん。と、恐る恐る馬場添の様子を伺うと、
「最近の子ってそうだよね。田中さんの車には乗った事ある?」
案外馬場添は何とも思っていない様で、質問を続けた。
「デートは毎回彼の車でした」
「ナンバーなんて見てないわよね?」
「…はい」
何かないかと真衣ちゃんがスマホを弄り出した。その様子を見た馬場添が、
「…真衣さん、まだ若いから思い出作りが大好きよね。SNSに載せるの大好物よね。スマホに保管している写真と、SNSを汲まなく探せば、車のナンバーが写っているかもしれない」
『手分けして探すわよ』と自分もパソコンの電源を入れた。
「待って。車のナンバーがなんで必要なんだよ」
またもや分からない作業が降りかかり、頭の中がハテナだらけになった。
「住所が分からないと訴えられないから」
馬場添がパソコンを叩きながら簡単に返事をした。
「住所を調べるのに、車のナンバーが関係あるのかよ」
「車のナンバーが分かれば調べられるから」
馬場添は、俺の方を一切見ずにパソコン画面を凝視しながら真衣ちゃんのSNSを探っていた。
「車のナンバーが分かると、なんで住所が分かるの?」
「倉田―」
やっぱり途中で面倒になった馬場添が、説明を倉田くんに投げた。
「はい‼ 弁護士は職務上請求や弁護士会照会をする事が出来るんです。職務上請求は弁護士が職務のために必要な場合に住民票や戸籍等を取り寄せることができる制度で、弁護士会照会は裁判などの依頼を受けた弁護士が、裁判の証拠や資料を集めるために、所属する弁護士会を通じて、企業や団体に対して事実を調査することができる制度です」
淡々と説明する倉田くんの目もパソコンを見ている。
車のナンバーが分からない事には訴える事さえ出来ないという事なのだろう。
遅ればせながら、俺もスマホで真衣ちゃんのSNSを探ることに。
全員無言で車のナンバーを探していると、
「前の二ケタが写った写真がありました‼」
倉田くんが馬場添にパソコン画面を見せながら、画像を保存した。
「私のスマホにナンバーの後ろの方が写った写真がありました‼」
真衣ちゃんも車が写った写真を発見。馬場添がその写真を確認すると、
「よし‼ 車のナンバー判明‼ 倉田、照会して‼ 私は内容証明を作る」
「はい‼」
馬場添と倉田くんが手分けをして作業しだした。
「真衣さん、慰謝料は百五十万で作っちゃうわよ。住所が分かり次第郵送しておくわ。あとは任せてください。今日はこれ以上する事はないから、仕事に行っても大丈夫よ。まだ間に合うでしょう?」
一見、傲慢で態度がデカイ馬場添は、自信満々で安心感がある様にも見える。
「はい。よろしくお願いします」
そんな馬場添の言葉に不安を取り払われた様子の真衣ちゃんは、馬場添に頭を下げると、笑顔を向けた。
真衣ちゃんの目の腫れは全く引いていないけれど、笑顔が戻ったなら今日は仕事が出来るだろう。
「じゃあ、俺たち行くわ。頼んだぞ、馬場添」
真衣ちゃんと出勤すべく、二人でソファーから腰を上げる。
「朝飯前案件なので、心配無用。」
余裕綽綽の馬場添が、俺たちに向かってひらひらと手を振った。
だから、安心しきっていたのに…。
馬場添に相談した日から暫くして、
「竹内真衣さんに用事があるんですけど」
店にお客ではなさそうな男女が真衣ちゃんを訪ねて来た。
その男女を見た瞬間、真衣ちゃんがバックヤードへ身を隠した。
「…もしかして、田中信とその嫁?」
真衣ちゃんを追いかけ確認すると、真衣ちゃんが涙目になりながら頷いた。
オーナーに耳打ちで事情を話すと、
「営業中ですので、ご予約がない場合、対応し兼ねます」
オーナーが追い返すべく、田中夫妻の入店を拒否をした。
しかし、オーナーがいくら断っても、『早く呼んで来い』と聞かず、その場から動こうともしない田中夫妻。嫁の方はお腹がふっくらしている。おそらく妊婦。
アポなしでやってくるくらいなので、田中夫妻の機嫌が良いはずもなく、というか怒っているに違いなく、そんな田中夫妻の元に真衣ちゃんを行かせるなんて、危険でしかない。
「真衣ちゃんはここにいて」
と、真衣ちゃんを休憩室に押し込め、
「馬場添‼ 真衣ちゃんの既婚者元彼が店に来た。真衣ちゃんと話をさせろって、店に居座ってる」
馬場添に速攻で電話。
『えー。折角今日、早めに仕事終わったから、これから鳥蔵に行こうと思ってたのに。つか相手、お馬鹿さん系かぁ。めんどくさ。真衣さんの事、ちゃんと匿っておいて。今行くから』
焦る俺とは正反対に、電話の向こうの馬場添は意気自如を通り越して怠そうにしていた。
電話を切り、他のお客さまにお騒がせしている事を謝罪しながら馬場添を待つ。
二十分ほど経った頃、馬場添と倉田くんが店に到着した。
警察官が手帳を見せるかの如く、レセプションの子に名刺を翳し『弁護士です』と言いながら店内に入ってきた馬場添。
「馬場添‼」
馬場添の名前を呼ぶと、
「あら? 警察の方は?」
馬場添は俺の方ではなく、店の中をキョロキョロ見渡した。
「は? 呼んでねぇよ」
「何で呼んでないのよ。この人たちがやっている事、営業妨害じゃない」
田中夫妻を指差す馬場添。
馬場添の指摘に、田中夫妻が『ヤバくね?』と目を見合わせた。
「だって、警察呼べなんて言わなかったじゃねーか」
『俺は聞き逃してねぇぞ、お前が言い忘れたんだぞ』と馬場添に反論すると、
「え? 言わなきゃ分かんないの? あー。ミスった。貝谷の頭の程度を想定していなかった私の落ち度だわ。ごめんごめん。営業妨害なんて、小学生でも知っている犯罪だから、当然貝谷も分かっているものだと思っていたわ。ちゃんと一から十まで言わなかった私が悪かったわ。本当に申し訳ない」
馬場添は、反省の意など全くない謝罪をしながら、俺をディスった。
そんな俺らのやり取りを横目に、
「今日のところは帰る」
『通報されてたまるか』とばかりに田中夫妻がそそくさと店を出て行こうとした。
「倉田―」
逃がすものかと、馬場添が倉田くんの名前を呼び、
「はい‼」
倉田くんが両手を広げて出入口の前に立ちはだかった。
「今更逃げてもしょうがないわよ。この店、防犯カメラ設置してあるもの。あなたたちの営業妨害の証拠はしっかり撮られている。お店に迷惑が掛かるので、場所を変えて話しましょうか、田中さん。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、竹内真衣さんの代理人の馬場添と申します」
馬場添が田中夫妻に名刺を手渡した。
「貝谷、真衣さんを呼んできて。大丈夫。負ける要素が一つもない。怖がる必要など一切ないから」
馬場添が、俺に話をしている様に見せかけて、田中夫妻を威嚇する。
「じゃあ、休憩室で話す? そこに真衣ちゃんがいるから。」
馬場添に任せておけば間違いない事は分かっていても、やはり気になり自分も話を聞きたいので、店内での話し合いを提案。
「じゃあ、そうしましょう。皆さんすみませんが、少しだけお部屋お借りしますね」
馬場添は、店のスタッフたちに断りを入れると『どこ?』と俺に休憩室の場所を訪ねた。
『こっち』と馬場添を誘導すると、後に続いて倉田くんが、田中夫妻を休憩室へと促した。
休憩室のドアをノックし中に入ると、真衣ちゃんが怯えた目でこちらを見た。そんな真衣ちゃんに、
「お久しぶりー。助けにきたよー」
馬場添が白い歯を見せながら手を振った。
真衣ちゃんも田中夫妻もピリついているのに、緊張感の全くない馬場添。
妊婦の田中妻には背凭れのある椅子を用意して、他五人は適当な椅子に腰を掛けた。
「で、竹内さんに何の用ですか?」
早速馬場添が口火を切る。
「俺たちは、アンタじゃなくて真衣と話をしにきたんだよ」
さっきまで逃げようとしていたくせに、急にイキり出し、真衣ちゃんを睨みつける田中信。
田中信の視線にビクビクしている真衣ちゃんの背中を『大丈夫。チョロいから』と馬場添が摩った。
「えーっと…。先ほど私、言いましたよね? 竹内さんの代理人だって。代理人が何なのか、奥様はご存知ですよね? 竹内さんを訴えた時、弁護士に依頼されましたものね。ご主人に説明してさしあげては如何でしょう?」
馬場添が『本題に入る前にここからの説明がいるのかよ』とうんざり感を露わにした。
「弁護士の事よ」
田中の嫁が田中信に耳打ちすると、それを聞いた馬場添が、
「倉田―。代理人って何―?」
気怠そうに、倉田くんに説明を要求した。
「自分以外の利益のために、何らかの行為を代わって行う人のこと。または、自分以外の利益のためと称して行う人のことです。つまり、弁護士とは限りません」
倉田くんの説明は、今日もとても分かり易い。
「という事で、真衣さんへのお話は私が代わってお伺いします。で、要件は何でしょう」
馬場添が話を振り出しに戻す。
「ウチにこんなものが届いた。この前の裁判で真衣が悪いって事になったのに、どういう事なんだ」
田中信が、馬場添が送った内容証明をテーブルに叩きつけた。
「ちょっと待ってちょっと待って。まさかとは思うけど、アナタ、自分は悪くないとでも言いたいの? アナタとアナタの奥様と竹内さんを並べて一番悪い人は誰ですか? って聞いたら、頭のおかしな人間が混ざっていない限り、十人が十人『田中信』って答えるわよ」
馬場添が口に手を当て、驚愕の表情を浮かべた。察するに、田中信の阿保レベルが馬場添の許容範囲を超えたのだろう。
「こういう事です」
説明係・倉田くんが【田中奥様<竹内さん<田中信さん】と書いた紙を田中信の前に置いた。
「まさかまさかと思うけど、奥様が勝訴したからって、自分まで勝った気になっていたわけじゃないわよね? 奥様の裁判は、奥様と竹内さんの裁判であって、アナタは原告でも被告でもないのよ。現に奥様の裁判の際に、『旦那に非はない』なんて誰も言っていなかったでしょう? てゆーか、どう見ても非があるし」
「……」
馬場添のまさかまさかは、田中信の【まさに】だったらしく、田中信が口を閉ざした。
「あのさ、慰謝料は決められた期限までにお支払いくださいね。じゃないと、給料の差し押さえをしなきゃいけないから」
田中信からバックレそうな気配を感じたのが、馬場添が『逃げようなんて馬鹿な事を考えるんじゃねぇぞ』とばかりに念を押した。
「…お前、俺の職場を知っているのか?」
「当然、調べ上げました」
馬場添に追い詰められ、田中信が『はぁ』とため息を吐きながら肩を落とした。
田中信も観念した様だし、話し合いももう終わったのでお引き取り願おうとした時、
「お辛いですね、奥様。旦那さんと家計を同じにしているのなら、折角裁判で慰謝料を勝ち取ったのに、結局出て行ってしまいますね。嫌な思いを強いられたのに、全く得をしない。奥様は、旦那さんの事を許せたの?」
馬場添が田中の嫁に話し掛けた。
「許すしかないじゃないですか…。もうすぐ子どもが産まれるのに、自分ひとりじゃ育てられない。両親が近くに住んでいるわけでもなければ、親からの金銭援助も難しい。子どもだって、親が二人揃っていた方がいいと思うし、それにまだ結婚して一年も経ってない」
田中の嫁が唇を噛んで涙を零した。
「お金があれば、親の協力があれば、離婚したい?」
馬場添が田中の嫁に問いかける。
「…子どもから父親を奪うなんて、可哀想じゃないですか。離婚して、不幸な子にしたくない」
田中の嫁がお腹を撫でながら泣き続ける。
「私ね、離婚とか不倫とか、そういう弁護を得意としているのね。
世間はさ、【離婚=失敗】【離婚は不幸な事】みたいな、ネガティブイメージがあるじゃない。私を訪ねてくる依頼人ってね、結婚生活が辛くて苦しくて耐え難くて相談をしに来るのね。そういう人にとって離婚って、結婚という地獄から抜け出す希望の光なのよ。
別にアナタに離婚を勧めているわけではないけど、親って二人いれば子どもは幸せってわけでもないと思うわよ。だってアナタ、不倫をする親を尊敬出来る? 子どもが生まれたら、旦那さんも気持ちを入れ替えるかもしれない。そう願いたいところだけど、もし何も変わらなくて、今みたいに何も悪くないアナタが涙しなければならない様な目に遭ったなら、いつでも相談に来ればいいわ。私は死ぬまで弁護士でいるから、生きている限りは味方になるわよ」
『ここに来る途中に貰ったの』と、馬場添が街頭で配られていただろうポケット
ティッシュと自分の名刺を田中の嫁に手渡した。
「…案外すぐに行くかも。私、旦那の事を許そう許そうって自分に言い聞かせていますけど、許せてないので」
田中の嫁が涙を流しながら、馬場添に『ニィ』っと笑って見せた。
「うん。出産、頑張って」
馬場添が笑い返すと、
「知らなかったとはいえ、申し訳ありませんでした。私も奥様のご出産、応援しています。頑張ってください」
今まで一言も喋らなかった真衣ちゃんが、田中の嫁に向かって頭を下げた。
「…という事で、今度何かしでかしたら、アンタの嫁の代理人は私が致しますので、覚悟しておいてくださいね。私、【容赦】という言葉を知らないタイプの人間ですので、そこのところお忘れなく」
田中信に釘を刺した馬場添が、
「どうする? 営業妨害の被害届出す?」
俺をチラリと見た。馬場添の言葉に田中信の眼が泳ぐ。
「奥さんと大事な後輩を傷つけたこの人の事は腹が立って仕方ないけど、今回は、奥さんと生まれてくるお子さんの為に見逃す。でも、今度何かしでかしたら容赦なく警察に突き出す」
馬場添の言葉を真似て首を振った。
「そう。それならもう私たちは帰っていいわよね。話し合いも終わったし」
馬場添と倉田くんが椅子から腰を上げた。
「馬場添先生、倉田先生、ありがとうございました」
真衣ちゃんが馬場添たちに向かってお辞儀をした。
「今日は来てくれて助かった。今度、焼き鳥奢るわ」
馬場添と倉田くんに『じゃあな』と右手を上げると、
「ビールもね。たらふく食ってやろうぜ、倉田。私たち、『容赦』という言葉を知らないタイプの人間だから」
「貝谷さん、ゴチでーす」
馬場添と倉田くんが俺を見ながら『しめしめ』と言わんばかりの嫌らしい笑みを浮かべ、
「では、ごきげんよう」
と貴族みたいな挨拶をしながら、二人は休憩室を出て行った。
遠慮をする気など全くなさそうな二人に、焼き鳥を奢ると言ってしまった事をちょっとだけ後悔しつつ俺も休憩室を出ると、馬場添と倉田くんがオーナーに呼び止められていた。
何を話しているのだろうと三人に近づくと、
「お二人、弁護士さんなんですよね? 私、悪意なんてないのに、悪意の遺棄って言われて…」
オーナーが馬場添たちに相談を持ち掛けていた。
やっぱり俺、お祓いに行った方がいいのかもしれない。俺の周り、困った人が多すぎ。
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