父の背をみる

父の背をみる

 生まれ育った下関から、遠く離れたこの田舎町へと嫁いできたのは、およそ三十五年前のこと。

 最初こそ慣れない土地で戸惑っていたものの、少しずつこの場所で自分の役割を見つけて、仕事も家事も子育ても、主人やお姑さん達との関係も、近所付き合いも頑張って。じわじわとこの身を侵食するように、言葉も性格もすっかりこの土地のものになってしまった。

 今では子供も孫もいる。この田舎町は本当に温かくていいところだ。

 自分は恵まれていると、幸せな生活をしていると、思う。

 それでも故郷を想う気持ちは、今でも強く。それは子供たちにも、幼い孫たちにさえ、繰り返し話をしてきたことだった。

 関門海峡から見える海の壮大さ、ふぐを始めとした魚介の新鮮さ、一学年千人を超えるマンモス校だった母校――……きっと誰もがうんざりしているだろうけど、それでも私のおしゃべりでうるさい口は止まらない。

 私の故郷は、ルーツは、この世に生を受けたあの日からずっと下関にある。遠く離れていたって、変わらない事実だった。


    ◆◆◆


 およそ十年ぶりに、家族で下関へ訪れた。

 私と主人、長女夫婦に次女夫婦。そして長女の子供と次女の子供が一人ずつ。結構な大所帯での旅行だった。

 息抜きの家族旅行、というのは表向き。本当の目的は、この下関に揃って眠る、私の両親の墓参りだ。


 母は私がまだ若い頃に亡くなった。

 その後、親不孝なことに――と、私が言うのも何だが――成人した私を含む子供はみんなそれぞれ家を出てしまったから、下関の実家では長年年老いた父が一人で暮らしていた。

 母の遺影がある部屋で、たった一人で毎晩晩酌を繰り返す父の姿に思いを馳せる。酒好きなのは昔からだったが、母が亡くなり子供たちが全員自立してからは、もう語り合う相手もいなくなった。

 まだ嫁いで間もない頃、子供たちを連れて下関の実家を訪ねると、いつも眩しそうな顔で子供たちを眺め、その姿を肴に焼酎を口にした。主人と猪口を合わせ、話し相手がいると嬉しいね、と無邪気に笑っていた。

 隣り合わせに存在する、寂しさと虚しさを――孤独に余生を過ごす、父の丸まった背中を想像するだけで、涙がこぼれてきたものだった。


 不定期に他の兄弟たちが訪ねてくるのか、両親の墓も、今は誰もいない実家も、思ったより荒れていなかった。最後に訪れた時と何ら変わらない風景に、もの悲しささえ感じる。

 少し伸びてきた草を刈り、墓に用意した線香を傾ける。

 なかなか来られない不義理を詫び、娘たちや孫にも手を合わせるよう促すと、数十分ほどで墓場を後にした。


 その夜、予約していたホテルの宴会部屋で、軽く食事会を開いた。

 主人と義理の息子たちは、男同士気が合うのか早速出来上がったようだ。ふぐちり鍋を囲み、赤い顔で景気よく歌なんか歌っている。

 その横では孫たちが、まだまだ元気が有り余っているらしく、ばたばたと走り回っている。気の強い次女が咎めようと試みていたが、途中から子守りというより一緒に遊んではしゃいでいるかのようにしか見えなくなっていた。

 私はふと、窓から見える景色に目をやった。関門海峡に近い場所でホテルを取ったので、黒光りする海がよく見える。

 あまりお酒が飲めないためひたすら片付け役に徹している長女に、声を掛けた。

「なぁ彩子さいこ。……ちょっと、外出ぇへんか」

「お母ちゃんの想い出話なら、もう何回も聞いたよ」

 苦笑しながら「もう長々したおしゃべりの聞き役なるん嫌で」と憎まれ口を叩く長女の肩を、私も笑いながら叩いた。

「えぇやんか。せっかく下関におんねやし、付き合ってよ」

「しゃあないな。ちょっとだけやで?」

 優しくおっとりした長女は、ふわりと若かりし日の母を思わせる笑みを浮かべた。


 下関と九州を繋ぐ、関門橋の手前で立ち止まり海を見る。

 ここから見える夜景は綺麗で、けれど夜景というそのものが人工的な雰囲気を感じさせるので、昔の自然がたくさんあった街並みを知っているとちょっとした違和を感じる。

「この橋も、昔はなかってんけどなぁ……できたんは確かちょうど、奈緒子なおこが生まれた時やわ」

「そうなんや」

 歩きながら、そんな会話をする。

 色とりどりに輝くネオンを吸い込み妖しく揺れる、夜の海を眺めながら

「おじいちゃんのこと、覚えとるか」

 不意に、そんな話を振ってみた。

「うん」

 即答した長女は私を見て、懐かしげに目を細めた。

「下関に遊びに来たら、おじいちゃんはいつも嬉しそうに笑ってくれて。夜になったら決まって私と奈緒子を目の前に並んで座らせて、ただただ私たちを眺めながら機嫌良さそうにお酒飲んでた」

「そうやな」

「初めは、変なおじいちゃんやなって思ってたけど。私らの顔なんか見て、何が楽しいねんって、奈緒子とよく話してたけど」

「うん」

「……寂しかったんやな」

 いつも、あの家に一人で。

 ずっと一緒にいた家族が、みんなそれぞれ別のところに行ってしまって。

「おばあちゃんの写真見ながら、ずっと泣いてはったんかなって」

 長女も、どうやら私と同じことを思っていたらしい。母の葬儀の日に見た、父の震える背中を思い出して、目頭が熱くなった。

「ほんでな。今日こうやって、改めてみんなで下関に来て……思ったんよ」

「何?」

「今もう、おじいちゃんは寂しないかなぁって」

 おばあちゃんのところに、行って。

 一緒のお墓の中で、今頃晩酌してはるんやろかって。

「そうやと、いいなぁって」

 ほとんど記憶にないはずの、祖父母の姿を思い浮かべているのだろうか。ことさら優しく、長女は笑っていた。

 何だか急に切なく、心細い気持ちになって、長女の横顔に向けて私はポツリと――心なしか早口で、呟いていた。

「きっと、毎晩飲んではるわ。おばあちゃんにお酌してもろうて」

「……うん」

「でも、どうかな。今日は……今頃お父ちゃんたちのとこに、混ざりに来てはるかもしれん」

「それはちょっと怖いなぁ」

 私の冗談に、ふふふ、と長女は頬を染めて笑った。

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父の背をみる @shion1327

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