第14話 風邪はつらいよ

 食費を受け取ってもらえない以上、現物を献上するしかない。理香は、原付に乗せられるだけたくさんの食材を買い込んで、帰宅した。


 冷蔵庫でビールを冷やし、買ってきた食材をテーブルに広げ、腕組み。


 恭一は、台所をいじられるのが嫌いだと言っていた。だからと言って、理香が先に帰宅した場合、お腹空いたよー、ごはんまだー? という態度で先輩を待つわけにいくだろうか。


 なるべく調味料や器具の配置を変えないように気を使えば大丈夫だろう。




 だけど、困ったことに、恭一の好きな食べ物を知らない。朝は焼き魚がメインだったので、夜は肉料理にしてみるか。


 今までこれが嫌いだという人に出会たことがない肉料理、それは、唐揚げ。鶏むねと鶏ももを切って醤油と料理酒に漬けること一時間。味がしみ込んだ頃に卵を割り入れ、薄力粉と片栗粉を適量入れてかき混ぜて揚げる。その間に米を炊き、春雨の中華スープ、パプリカのサラダ、デザートにグレープフルーツを切って盛り付けて冷やしておく。


 そんなこんなで一時間半。時刻は午後八時になるが、恭一はまだ帰らない。


 とりあえず風呂を沸かし、縁側で月を見上げる。今夜は、頼りない半月。


 庭の手入れを頼まれたが、未だかつて庭のある家に暮らしたことがないので、庭木の手入れの仕方がわからない。今度、ガーデニングの本を買おう。


 そんなことを思ううち、うとうとしていた。


 ふと、お腹に温かいものを感じ、何気なく手を伸ばすと、温かく柔らかい生き物に触れた。


「なぁん」


 黒と白の猫だ。


「かわいい子だねー、あなたどこからきたの?」


 ゴロゴロと喉を鳴らす。


 猫を撫でているうちに、いつの間にか眠りに落ちた。

 夢へ転がる坂道の途中、気が付いた。もしかして、あなたが噂のレイカ?




「さむっ!」


 自分の声で目が覚めた。


 七月とはいえ、家が焼けて以来ほぼ一張羅のリクルートスーツのままで夜風に当たり続けたせいか、お腹が冷えて寒い。レイカ? はどこかへ行った。


 慌てて飛び起きると、白いシャツがはらりと板張りの床へ落ちた。


 これは、男物のシャツだ。恭一が、かけてくれたんだろうか。


 見れば、居間の食卓に並べた料理の半分が無い。冷蔵庫に冷やしておいたビールも一本減っている。どうやら、帰宅した恭一が食べたらしい皿洗いは頼む、とか言っていたくせに、きっちり洗い物をするところが恭一らしくて、少し笑った。


 時計は一時を廻っている。恭一はきっと眠っただろう。


 空腹はあるが、それよりも今は寒い。唐揚げを一つ頬張り、残った食材はラップをして冷蔵庫にしまった。


 それから離れへ戻り、コンタクトをはずし、タオルと桶と着替えを片手に母屋の浴室へ。眠っているであろう恭一を起こさないように、静かに浴室の引き戸を引くと、淡いラベンダーの香が鼻をくすぐる。


 服を脱ぎ、浴室へと足を踏み入れる。


 そして、煙る湯気の向こうに、湯船につかる恭一の姿を見つけた。幸い、乳白色の湯船に沈む恭一の身体は見えない。

 向こうもイヤホンをして目を閉じているので、こちらの様子に気付いていない。


 今なら、こっそり音をたてないように出れば、気づかれない。なかったことにできる。どうか、目を開けないで。


 祈るような気持で後ずさり、後ろ手にガラス戸を引いたその時、かぽーんと、乾いた音を立てて、浴槽の淵に乗っていた湯桶がタイルに落ちた。


 恭一が、目を開けた。


 そこに立つ裸の理香を見つけると、


「何してるんだよ、楠本」


 と、夕刻に会議室から見せたのと同じ冷たく呆れたような顔を見せた。


 この冷静な反応、立ち直れない……


「す、すみません……ご入浴中とは気付かずに、大変失礼いたしました……」


 逃げるようにドアを閉めると、


「楠本、話があるから、俺が出るまで居間で待ってろ」


 と、怒りに満ちた声が浴室から響いた。


「は、はい……」


 おそろしすぎる。


 今夜はもう入浴は諦めて、離れへ戻り、部屋着の中でも一番分厚いスエットに着替え、恭一を待つことにした。



 十分ほどして、ほくほくの身体から甘い香りを漂わせ、濡れた髪をタオルでかき混ぜながら現れるなり、恭一は理香を叱りつけた。


「脱衣籠に俺の脱いだ服があっただろう。どうして浴室に入る前に気が付かないんだ」


「すみません、コンタクトを外すとよく見えないんです」


「だったら眼鏡をかけろ」


「それが、家事のどさくさで壊れてしまって……」


「新しいのを買えばいいだろう」


「すみません」


「こんなことがあるといけないと思って、浴室のドアに俺が入浴中だと注意書きを張り付けたんだぞ」


「それも気が付きませんでした」


「もー、しっかりしてくれ」


 仕事中の失敗を叱る時の比ではないほど、怒っている。


「ほんとうにすみませんでした」


 理香は深く頭を下げると、寒気に襲われくしゃみを一つこぼした。


「縁側で無防備に眠るのも禁止だ。この家の合い鍵は鷹峰も持っているんだから。襲われても知らないからな。わかったらさっさと風呂入って寝ろ」


 自分が襲うという選択肢はないらしい。


「おふろはいいです。今日はもう遅いから寝ます。ほんとにすみませんでした。おやすみなさい」


 あーあ、何という一日だろう。疲れた。



 約束の合コンを今週末に控え、理香は福田と幾度か電話でやりとりをした。


 霧谷とは社内メールで連絡を取り合った。そしてやって来たその日の朝、理香は発熱し、布団の中から起きられない。


 恭一と浴室でバッティングしたあの日から、ずっと鼻風邪を患っていたが、市販の風邪薬で何とかごまかしてきた。それももう限界らしく、体内に広がる菌に薬が敗北した。


 今朝がたから体があつ~いとさむ~いを交互に繰り返している。


 少しでも身じろぎしようものなら、布団の隙間から入り込んだ微かな風が肌に触れ、瞬時に鳥肌が全身を覆う。


「さ、さ、さ、さむい~~」


 布団にくるまり体を抱えて震える。


 会社に間に合うには、あと三十分以内に出勤しなくてはならないが、無理っぽい。


「さ、さむ、さむ~~」


 呻きながら布団をかぶる。スマホの元へ這って進む。


 なんとか会社に電話をかけ、風邪を引いたので今日は休みたい旨を伝えた。


 恭一には、余計な心配を掛けたくないので、メールを送る。


『今朝は急な腹痛で(女性特有のものなので、ご心配は無用です)一日お休みさせてください。寝ていれば治りますのでお気遣いなく』


『お大事に。冷蔵庫におにぎりあります』


 すぐに返信があった。


 それを見て安心した理香は、意識を失った。




「あ、あつ~い!」


 またしても、自分の声で目が覚めた。布団と衣服は汗でぐしょぐしょだ。


 喉がからkらに渇いている。流しへ這って行って水を飲み、濡れた服を脱ぐ。


 途端に耐え難い寒気に襲われ、理香は悲鳴を上げた。


「さささささむ~~い」


 歯ががちがちと震える。また熱が上がるのだろうか。着替えどころではない。布団を体に巻き付けて、ガタガタ震えながらその場に蹲った。


「母屋まで叫び声が聞こえたぞ。こんな時期に寒いって、いったいどうした、楠本ちゃん」


 そこへ現れたのは、なぜか鷹峰。そう言えば、合鍵を持っているんだっけ。


「鷹峰さん……ですか。こんにちは、お邪魔しています」


「いえ、こちらこそお邪魔してますって、そんなことよりしっかりして、すごい熱だ。大丈夫か?」


 鷹峰は布団ごと、理香を抱え上げた。


「た、鷹峰さん、わたし……」


「楠本ちゃん、なに?」


「私、梅干したべたい……」


 それきり意識が途切れた。




「ほわっ、ほわああ」


 恐ろしい夢に恐怖して目を開けると、隣にはなぜか上半身裸の鷹峰が添い寝をしている。


 彼の隣には、脱ぎ散らかした理香のスウェットの上下がくしゃくしゃに丸まっている。


「え? え? え?」


 そして布団の中の自分はと言うと、下着の上にいい匂いのする男物のワイシャツを着ている。状況から察するに、これはおそらく、鷹峰のシャツだろう。


 枕元にははぜか梅干しが一つ転がっている。


「何これ……?」


「俺が聞きたいんだが」


 見れば、離れの玄関先で恭一が仁王立ちをしている。


 表情は、初めて出会った日に埠頭でこちらを見下ろしたあの時に匹敵する恐ろしさだ。


「誤解です、これは違います」


「何が違うんだ」


「いえ、ですからこれは、ちょっと、鷹峰さん、起きて、起きてください」


「ん……あ、理香、おはよう」


「え? なんでいきなり呼び捨て?」


「だって、なあ?」


「なあって、何が? 私が熱を出して、たまたま鷹峰さんが見つけてくださって、看病してくれたんですよね? それで、着替えが無いからシャツを脱いで、貸してくださったんですよね? ね?」 


「理香、忘れたの? あんなに激しく、俺を求めてくれたのに……」


「え、え、えーー? そんな、嘘です、あり得ません!」


「そうでーす、冗談でーす」


「は?」


「からかってゴメンね、楠本ちゃんの言う通りだよ。楠本ちゃんがいきなり『さささささむ~い』って叫んで、俺のシャツを奪い取ったんだよ」


「ごめんなさい!」


 理香は布団に崩れ落ちた。


「何やってんだよ。熱は、もう下がったのか?」


 恭一が枕元に跪き、理香の額に手を当てる。


 ひんやりとして、冷たい手。


「まだ熱があるな」


 恭一のその声を聴きながら、理香は今日三回目のさささささむ~いに襲われ、意識を失った。



 次に目覚めた時に、夜だった。


 薄闇に目を凝らすと、ぼんやりと白いものが目の前にある。


 そっと手を伸ばし、触れて掴んだのは、恭一のシャツだった。


「うわ、おい、引っ張るな」


 バランスを崩した恭一は、理香の胸元に倒れ込む。


「ごめんなさい、コンタクトが無いとよく見えなくて……」


「だから眼鏡を買えと何度言えば……。いや、それより熱は下がったか」


「はい、もう大丈夫だと思います」


「まだ寝てろ。腹減らないか?」


 言われてみると、朝から何も食べていないので、胃の中は空っぽだ。ぐるぐると腹が鳴きだした。


「ふっ。待ってろ。おかゆでいいか?」


「梅干し食べたいです」


「わかった。去年俺が漬けたやつがあるから、楽しみに待ってろ」


 優しい。天使だ。


 ホカホカのおかゆと冷たい経口補水液を持って、恭一が離れに戻ってくる。


「ありがとうございます」


 起き上がると、眩暈がしてふらついてしまった。


「大丈夫か」


 恭一が駆け寄り、倒れかけた理香の背を支えた。


 この体勢はいけない。心臓が破れそうだ。 


「す、すみません」


 すぐに体勢を立て直した。


「いただきます」


「熱いから、ふーふーして食べろよ」


 ふーふーて。


 蓮ノ葉さんは私を殺す気か。


 まだ続く熱のせいか、手が震えてスプーンが持てない。


「仕方ないな。食べさせてやる」


「それはさすがに、恥ずかしいです」


「じゃあ、その手のぷるぷるを止めてみろ」


「やってみます」


 スプーンに伸ばす手は、やはりぷるぷるだ。


「ほら見ろ」


 恭一は勝ち誇ったように言い、おかゆをひとさじ掬い上げた。


「口開けろ」


「はい……」


 これはとても恥ずかしい。


 差し出されたスプーンを、口に含む。


「おいしいです」


「それはよかった」


 恭一は、理香が呑み込むのをじっと見つめる。


 それは、次のひとさじを救うタイミングを計るためだろうと分かっていても、見つめられると身体が固まる。


「どうして今朝、熱があると俺に言わなかったんだ」


「それは、心配かけると思ったから……」


「あのなあ。それで無理をしてこじらせて、余計に心配かけることになっているんだぞ。意地を張らずに、つらいときは素直に甘えろ」


「はい、すみませんでした」


「わかればいい。あの夜、風呂を途中で中断させたのは俺だ。そのせいで、君に風邪をひかせてしまったんだな。気がつかなくて、俺の方こそすまなかった」


「こちらこそ、汚いものをお見せしました」


「そう言う卑屈な言い方は良くないと思うぞ」


「だって、蓮ノ葉さん、私の裸を見ても、ぜんぜん動揺しなかったじゃないですか」


「おい、何をいきなり……」


「蓮ノ葉さんにとって、私のカテゴリは何ですか? 飼い犬ですか? レイカと同レベルですか」


「カテゴリって何だよ。レイカは猫だ。俺にとって楠本は、会社の後輩だよ」


「性別は?」


「どう見ても女だろう」


「でも、私の裸に興味ないんですよね」


「楠本!」


 突如、恭一は理香の口に体温計を突っ込んだ。


 ぴぴぴ。三十八度九分。


「やっぱり、また熱が上がってる。ほら、水飲んで寝ろ」


「はひ」


 理香は布団に倒れ込んだ。


 洗い物を片付け、恭一は立ち上がる。その時、


「私だって、女れすよ」


 と、熱に浮かされ、理香が言う。


「そんなこと、わかってる。嫌になるくらい」


 言い残し、恭一は母屋へ戻った。


 その夜、恭一は、離れの物置の隅で、毛布をかぶって眠った。


 理香の身体を案じて。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リケジョはつらいよ 鰐座流星群 @waniza

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ