第13話 とばっちりはつらいよ

 昨夜、久しぶりに広い浴槽で入浴した。おかげで深く眠れて、心も体も絶好調だ。体中の細胞が喜びの声をあげている。


 理香が顔を洗い、着替えて母屋へ顔を出すと、台所では、朝日の中、すでに恭一が朝食の準備を終えていた。


 当たり前のように理香の分も用意してある。この状況は女子としていろいろと考えさせられる。仕事のみならず、家事まで有能な恭一のできる男ぶりに打ちのめされた。 


「おはようございます。早いですね」


「ああ、おはよう」 


 これまでほとんど見せなかったのが嘘のように、この週末だけでもう五度目の笑顔で、恭一が理香を悩殺する。


 先行きが思いやられる。クラクラしながら食卓についた。


「朝食の用意をしていただいてありがとうございます。でも、大変でしょうから、これから私の分は自分で料理します」


「悪いけど、台所をいじられるのは嫌いなんだ」


 女子力高く却下された。


「でも、それじゃあ、あんまりにも申し訳ないです。せめて家賃と食費、光熱費を受け取ってください」


「昨日も言っただろう。いらないよ」


「そういうわけにはいきません! お金のことはきっちりしましょう」


 理香の気迫に、恭一はしぶしぶ提案した。


「そうだな、なら楠本は、労力をて帰京してくれ、掃除と皿洗いでどうだ」


「それだけじゃ足りません。もう一声!」


「んー、洗濯は各自でやるとして、他に家事……ああ、そうだ。庭の手入れを頼もうか」


「はい、他にも何かあったら言ってくださいね。私、何でもしますから」


「楠本、女の子がそんなことを言うものじゃない」


 突然、恭一はお父さんような口ぶりに変わる。理香は箸を止めた。


「俺は君に手を出すつもりはないとは言ったが、互いに年頃の男女だから、何か間違いがおこらないとも限らない」


 生真面目な顔で言われた。そんなつもりじゃないのにそういう捉え方をされると、あえて触れなかった方向に目が向いてしまう。


「別に、蓮ノ葉さんが望むなら、私はそれでもかまいません」


 恭一は瞬時に氷点下の瞳で理香を見据え、「だから、そういうことを軽々しく言うなと言っているだろう」と、重低音を響かせた。


「すみません、味噌汁おいしいです」


 軽々しく言ったわけじゃない。本当は胸がどきどきしてる。

 そもそもそんなに怒るなら、はじめからそっちの方向に話を持っていかないでほしい。




 出勤時間はもちろんずらした。理香が先に原付で家を出て、十分後に恭一が車で出勤する。


 職場では、いつものよそよそしい恭一に様変わり。理香の方は、家でも職場でも恭一に対しては同じように距離を持って接する。近づきすぎても、つらいだけだ。


 だって、冗談めかして告白することさえ許してもらえないのだから。 




 そして恒例の朝礼が開かれ、理香の報告の番がやってくる。恭一にもらった『あがり症克服マニュアル』を熟読して以来、あがり症は若干緩和したように思える。


 上がり症とは要するに、極度に他人の目を気にすることに起因するらしい。他人からどう見られるかを気にするよりも、大切な人や自分が自分をどう見るかが大切なのそうだ。


 恭一からどう見られているか、気になる。あの人が誇れるような後輩になりたい。

 中の心を占める恭一の割合は、日に日に増えていく。




 お昼休みにちょっとした事件が起きた。デスクでおにぎりをパクついていると、思わぬ人物が技術部のドアを叩いた。


「こんにちはあ。霧谷さんいますかぁ」


 半分開いたドアから上半身だけを事務所に滑り込ませ、ばっちりの決め顔で現れたのは福田。


 しかし事務所の中に理香しかいないと分かるとすぐに口角を下げた。わかりやすい。誰かを意識していたんだろう。

 たしか、霧谷を読んでいた。もしかするとこの間、福田が理香につらく当たったのは、霧谷を巡る嫉妬? いつか二人で食堂にいたところを目撃されたのかもしれない。そうだとしたら、早く誤解を解かなくては。


 そこで、一つの名(迷かもしれない)案を思い立った。


「福田さん。こんにちは」


 理香が笑顔で挨拶をすると、福田は眉尻を跳ね上げた。以前にコテンパンにぶちのめした理香が何事もなかったように話しかけてくるのその図太さに、苛立ちを隠せなかったのだろう。


「あら、楠本さん。今日もすっぴん? 見苦しいからおやめなさいな」


 今日も元気に口が悪い。 だが、こんなことではくじけない。もう二度と、泣いて逃げ出すようなことはしないと心に決めたのだ。


「私、福田さんみたいな素敵なメイクの仕方がわからないんですぅ。今度教えてください。どうしたらそんなにプロっぽい仕上がりになれるんですかぁ」


 ちょっと媚び過ぎたか。しかし、福田は気をよくしたらしい。


「あら、そんなことならお安い御用よ」


 などと、既に懐柔され始めている。やっぱり、思った通り、この人は単純だ。


「あの、福田さんにお願いがあるんです」


「なによ」


「実は、霧谷さんが今度合コンをしたいらしいんです。それで、私に面子を揃えてくれないかって頼むんですけど、ほら、私って引っ越してきたばかりでこっちに知り合いもいないから、困ってるんですよ」


 これは事実。


「それで、良かったら福田さん、参加してくれませんか?」


「ええ? どうしてもというのなら参加してあげないこともないわ。でも、私にもスケジュールというものがあるから、即答は出来ないけれど、今月の週末は空いている日も少なくないわね。これ、私の携帯番号とメルアド、あとレインIDね。日にちは追って連絡して頂戴ね。ちなみに、私いま糖質制限しているので、炭水化物よりも野菜とお肉をたっぷり食べられるお店にしてね」


 口ぶりとは真逆の乗り気な態度で、福田はメモを残し、上機嫌で事務所を出ていった。


 ほっと息をついた。


 ふと見ると、分厚い作業ににじみ出るほどぐっしょりとわき汗をかいている。頑張った自分をほめてあげたい。あとは霧谷に話をつけるだけだ。



 その日の退勤後、都合よく廊下で霧谷と鉢合わせた。幸い、周囲に人通りはない。


「霧谷さん、よかったら合コンしてくれませんか」


「ああもちろんだよ理香ちゃん、喜んで申し出をお受けするよ」


 霧谷は一瞬の思案もなく、即答した。さすがだ。


「それで、人数と、希望の日時を教えてくれる?」


「女の子は五人です。今月中の週末で、野菜とお肉がおいしいお店にしてほしいそうです」


 五人は、先日経験した地獄のランチ会メンバーを想定している。


「わかった、準備してすぐに連絡するよ。もちろん、理香ちゃんも来るんだろうね?」


「いえ、私は行きません」


「なんで、おいでよ」


「私が行けば霧谷さんの選択肢が減るでしょう?」


「そんなことないよ。あわよくば、理香ちゃんを口説きたいと思ってるのに、どうしてわかってくれないの」


「霧谷さんは恋多き人だから、私には手に負えないです」


「でも、今は理香ちゃんが一番だよ」


「私、好きな人がいますので、ごめんなさい」


 これは本当だ。恭一が好きだ。


「理香ちゃん、誰が好きなのさ」


「そんなことどうして霧谷さんに教えなくちゃならないんですか」


「知りたいからだよ。教えてくれないと、合コンしてやらないからね」


「それは困ります! その、あ! そうそう思い出しました。私が好きなのは元カレです。大学時代に別れたきり何年も会ってないんですけど、未だに未練タラタラで、時々夢にまで見ちゃうくらいに……」


 これは嘘だ。元カレは、もう顔すら覚えていない。



「ぅおいっ! おまえらうるさいぞ。こっちは打ち合わせしてんだ。会議室の前で合コンだの元カレだの浮かれたことばっかぬかしやがって、ぶっ飛ばすぞ霧谷この野郎!」


 突如として、ふたりの隣でドアが開き、ゴリラみたいな体格の男が叫んだ。


「うわあ、田島部長!」


 霧谷が理香の後ろに隠れる。これがあの田島部長か。以前に霧谷のおかげで事務の女性社員が二人も辞職して以来、霧谷への風当たりが強いことで有名な製造部の。


 面食らって動きを止めた理香の視界の片隅に、田島が開いたドアの中の景色が見える。


 見慣れた冷たい視線に、息を止めた。頬杖を付き、呆れ返った顔つきで理香たちを眺めるのは恭一だった。


「ほら、理香ちゃん、行こう」


 霧谷が理香の腕を引く。


「おい、ちょっと待て。そこの新入社員」


「わ、私ですか……?」


「そうだよ、俺は製造部の田島っていうもんだ」


「存じております。私は技術部の楠本理香と申します」


「あのな、楠本。おまえ、社内恋愛だけはするなよ。特に霧谷には絶対気を許すな。こいつと付き合ってもな、百パー浮気するからな。そうしたら会社にもいづらくなるだろう。だから男は社外で見つけろ、いいな、わかったな、楠本」


「でも……お言葉ですが」


「返事は、楠本!」


「はっ、はい!」


「よし、帰れ」


 ええええ…………。


 目の前でドアが閉じるのを、理香は呆然と眺める。


 田島の剣幕はすごかった。きっと、よほどのことがあったのだろう。 恭一の自宅に部屋を借りていることは、絶対に知られてはならない。



 とりあえず会議室から遠く離れ、人気のない中庭に場所を変えた。


「ごめんね、俺のせいで理香ちゃんまでとばっちりくらっちゃったね」


「本当ですよ。霧谷さんが子どもみたいなことを言い出したせいですよ」


「うん、ごめん。この埋め合わせは必ずするからね。とりあえず携帯番号教えてくれる?」


「嫌です。社内メールにしてください」


「わかったよ」


 うなだれる霧谷を見送り、とぼとぼと家路につく。この後、恭一に合わせる顔が無い。ご機嫌取りというわけじゃないけれど、とりあえず夕ご飯を作ろう。

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