第12話 同居はつらいよ

 雀の鳴く声と、障子の隙間から柔らかく頬を照らす朝日で目が覚めた。 天上の木目をぼんやりと眺める。


 今、完全に自らの所在を見失っている。どうしてここにいるのか、しばらく本気で考えて、そして昨夜のことを思い出した。


 重い体で布団から起き上がり、枕元に置かれた歯ブラシを手に取る。これを、恭一から受け取った記憶がないから、寝落ちしたのだろう。


 気持ちのいい夢を見た。桃色のおおきなふわふわドームの中を、縦横無尽に飛び跳ねる夢。



 歯磨きをして顔を洗い、庭へ出る。空は快晴で、日差しは肌をじりじりと突き刺す。梅雨明けと、夏の始まりが近いのだろう。


 縁側に座り、鷹峰が小さなパン屑を庭に撒いている。雀や見たことのない白と黒の野鳥がやって来て、ツンツン突ついて食べている。


「おはようございます、鷹峰さん」


「ああ、おはよう楠本ちゃん。離れの居心地はどうだった? よく眠れたかな」


「はい、おかげさまでよく眠れました」


「はは、それは良かった。今、台所で朝飯作ってるから、ちょっと待っててね」


 言われてみれば、良いにおいが奥から漂ってくる。香ばしい焼き魚と、ほのかに甘い味噌の香り。ふすまを開けると、台所で恭一が干物を焼いていた。


「ああ、おはよう、楠本」


 後光のような朝陽が指している。眩しいのは朝陽のせいだけじゃない。自分の気の持ちように問題があることはわかっている。


「おはようございます。昨日はありがとうございました。物置部屋の百万倍、快適でした。久しぶりに熟睡できました」


「それはよかった。向こうに座っていてくれ。魚が焼けたら朝飯にしよう」


 新婚さんみたい。居間では鷹峰が、「腹減った、恭一、朝飯まだ?」と催促をしている。そうだ。二人きりじゃなくて、この人もいたんだ。よかった。


 鯵の干物、豆腐と大根となめこの味噌汁、茎わかめ、小松菜のお浸し、味付け海苔と、色とりどりの小鉢がテーブルに並んだ。


「すごいです、旅館の朝食みたい。これ全部蓮ノ葉さんが作ったんですか」


「すごくないよ。こんなものは、切って茹でて焼くだけだ。誰でもできる」


 少し不機嫌そうに聞こえたのは、照れているせいだろうか。


 味付けは濃すぎず薄すぎず、みそ汁はきちんと出汁を取ってあっておいしい。料理の腕前は、大学時代に四年間自炊をしてきた理香よりも上に違いない。


 ありがたく朝ご飯をいただいた。帰り支度を整える前に、皿を洗おう。


「蓮ノ葉さん、私やります。座っててください」


「悪いな」


 手に優しい天然素材の洗剤をスポンジつけ、泡立てる。


「ねえ、恭一にきいたけど、楠本ちゃんは物置に暮らしているんだってね」


 と、鷹峰が言う。


「ええ、成り行きで、いつのまにかそうなりました。でも、二か月の間だけだから、なんとか我慢しています」


「快適じゃないんだね」


「正直あまり……健康的で文化的な最低限度の生活という感じですかね。ただで住まわせてもらっているから、ありがたいと思わなくてはいけないんですけどね」


「なあ、恭一。この家は無駄に広いから、一人くらい住人が増えてもあまり変わらないよな」


「まあ、そうだな」


 ん? 何の話?


「恭一、あの離れ、どうせ使っていないんだろ。理香ちゃんに貸してやったらどうだ」


 またそんなおかしなことを言って、きっと、蓮ノ葉さんに一掃されるだろう。


 けれど、 


「それもいいかもな」


 と、恭一は頷いた。


「え? 二人とも、何を言い出すんですか」


「ずっと、考えてたんだ。どう考えてもおかしな話だ。物置で暮らしていたら、疲れがとれないだろう。そうでなくても、慣れない土地に引越して、身体だけじゃなく、心も疲れているはずだ。ずっと、何とかしてやりたいと思っていた」


「でも、だからって一緒に住むのは……」


「遠慮する必要はない。たった二か月の話だ。楠本さえよければ、寮に空きが出るまで、離れに暮らしてくれてかまわないよ」


 突然そう言われても、何と答えていいのかわからない。


 理香が黙って皿を洗い続けていると、


「すまない、余計な心配だったか。若い女性が、男と暮らすなんて落ち着かないよな。俺は、何を言ってるんだろうな。今言ったことは忘れてくれ」


 と、恭一が言った。


「いえ、いいえ。余計だなんて、そんなことないです。お気遣いはうれしいです。うれしいですけど、迷惑じゃないですか?」


「俺は、別に迷惑なんかじゃないよ。そう思っていれば、最初からこんな提案はしない」


「でも、彼女さんに、迷惑がかかりませんか」


「それは」


 恭一の声が沈む。


「別にいいんじゃないのー。おまえらどうせ遠距離で、この二年間で一度も会ってないんだろ。それって付き合ってるって言えるのか。瑞穂みずほには、おまえの他に男が居るよ。仕事終わりに堂々と男と腕組んで歩いてる。おまえらもうこのまま自然消滅する流れでいいんじゃないの」


 鷹峰が言った。恭一の恋人を知っているようだ。彼女は、東京で働いているのだろうか。


「そうだとしても、五年も付き合ったのに、有耶無耶で終わらせるわけにはいかない」


「真面目だね」


 鷹峰が吐き捨てるように言う。


「まあとにかく、俺に恋人がいてもいなくても、気にすることはないよ。絶対に君に手を出したりしないから」


 恭一のきっとその言葉は本当だろう。最初から、恭一はそう言っていた。

 理香が恭一を好きになれば、困らせるだけだ。


 先に進めないことが目に見えている想いは、そのうち消えてなくなるだろうか。


 向けられた純粋な親切を、断ることが最善だろうか。


 ただ、声を聴きたい。笑顔を見たい。この家に住んでみたい。


「お言葉にあまえて、引っ越させていただいてもよろしいでしょうか」


 期間限定だから。物置暮らしがつらいから。ただそれだけ。下心はない。


 恭一の答えを待つ間、胸は早鐘を打った 恭一はハトが豆鉄砲を食らった顔をして、「本気か」と呟いた。


「やっぱりそんなの無理ですよね、ごめんなさい……」


「いや違う。構わないよ。ただ、受け入れられるとは思わなかったから、びっくりした」


「じゃあ、いいんですか? 私、ここに引っ越しても……」


「ああ、さっそく明日にでも、荷物を運び出すといい。車を出すよ」


 二人なぜか動揺しながら、話を進めた。鷹峰がにやにやしながら見ている。


「いいなあ、同棲」


「ルームシェアだ」


「間借りするだけです」


「へえ、どっちにしてもなんかいやらしいよね」と、ますます嬉しそうに脂下がる鷹峰をどついて畳へ突き倒し、恭一は、「空港行くぞ」と立ち上がった。



 食後、一時の飛行機で東京に帰ると鷹峰は言っていた。ついでに理香も車に乗せてもらうことにした。


「じゃあ、こいつを送ってまた来るから、それまでに荷物まとめておけるか」


「はい、家財は火事でほとんど使い物にならなくなったから、荷物はスーツケース一つ分しかないんです。すぐに準備できます。でも、寮母さんにはどう伝えましょうか」


 正直に、「蓮ノ葉さんのおうちに間借りします」と言ってはあらぬ誤解を招くだろうが、会社に引越先を報告しないわけにもいかない。思案する理香に、鷹峰が言った。


「大丈夫。総務には俺から連絡をしておくよ。余計な口出しやいらない噂が立たないように、常務の権限浸かっていろいろよろしくやっておくから、楠本ちゃんは安心して荷物をまとめて物置を脱出するといいよ」


「ありがたいですけど、どうしてそんなに良くしてくれるんですか」


「そりゃ、かわいい従兄の大事な後輩だからね。俺も君をかわいく思ってるんだよ。いろいろ辛いこともあるだろうけど、まだ辞めないで頑張ってね」


「ありがとう、ございます」


 去っていくCX5の窓から、鷹峰が手を振った。


 その時はまだ、純粋な善意だと信じていた。


 手続きの全てを鷹峰に任せるべきではなかったのだと、理香が気づくのはまだ先のことだ。





 寮へ戻り、理香は訝しむ寮母に手短に引っ越しを告げた。


 幾度か理由と行き先を聞かれたが、あとで総務を通して連絡しますという一点張りでやりすごした。


 着替えと洗面道具とDVDプレーヤーをスーツケースにまとめ、借りていた布団を畳み、掃除をして、寮を後にするまで、一時間とかからなかった。


 恭一はおそらくまだ鷹峰と共に車に乗っているだろうから、迎えの必要はないと連絡を入れて、スーツケースを荷台に括り付け、原付にまたがった。どうか途中で警察に見つかりませんように。


 祈りながら海沿いの道を爆走。


 無事に恭一の家にたどり着いた。そして気が付いたことは、当たり前のことだ。鍵が無くては中に入れない。門の前でうろついていると、


「もしかしてあんた、鷹峰ちゃんの彼女かい?」


 と、お隣から一人の老女が出てきた。


「いえ、違います。私は蓮ノ葉さんの会社の後輩です。用事があってお邪魔したんですが、お留守なのでまたにしますね」


 鷹峰ちゃんの彼女かいと言われた。鷹峰がここで暮らしていたのは五年前だと聞いたが、いまだにその彼女が出没するとは、すごい。


「恭ちゃんのお客さんなのね。それなら戻ってくるまで、うちで待っているといいよ」


 お誘いを断る理由もないので、お邪魔させてもらうことにした。


 お隣さんは、宗田さんというお宅で、おばあちゃんの名前は三つ葉と言った。三つ葉は、幼いころから夏休みになると祖父を訪ねて遊びに来る恭一と鷹峰を、未だに我が孫のようにかわいがっているそうだ。


 三十分ほどして、恭一の車がもどってきた。


「じゃあね、理香ちゃん、またおいで」


「はい、おばあちゃん、お茶をごちそうさまでした」


 車から降りた恭一は、隣家から出てきた理香を見てぎょっとした。


「なんで楠本が宗田さんちから出てくるんだ」


 庭先の柵を開錠しながら、恭一が言う。


「家の前を歩いていたら声を掛けていただいて、お茶をごちそうになりました。やさしくてかわいいおばあちゃんですね」


「ああ、まあな。それで宗田さんと、どんな話をしたんだ」


「蓮ノ葉さんの、子どもの頃の話をいろいろ聞かせてもらいましたよ」


「やっぱりな。いっつもそうなんだよ。宗田さんは、全然関係ない鷹峰の元カノも部屋に呼び込んで、俺の子どもの頃の話をするんだよ。どうせまた俺が庭の柿の木から落ちた話をしたんだろう」


「はい、聞きました。それでおしりを三針縫ったんですよね。やんちゃだったんですね」


「ガキの頃の話だ」


 恥ずかしそうな恭一も新鮮で良い。


 玄関口で立ちどまる。


「お邪魔します」


「ただいまでいいよ。二か月とは言え、今から楠本の家だから、いちいちお邪魔しますじゃ他人行儀だろ。で、夕飯は何にする? シャンプーや歯磨き粉なんかは好みのものがあるだろうから、俺と同じものを使えというわけにはいかないだろうな。ひとまず荷物を離れに置いて、買いだしに行くか」


「いえ、お部屋を貸してもらえるだけで十分ですので、そこまでお気遣いいただかなくても……」


「遠慮するなよ。夕飯の買いだしついでだ。ほら行くぞ」


 会社でのよそよそしい態度が信じられないくらい、距離感が近い。とまどいながら、誘われるままに車に乗った。


 こんなところを会社の人に見られたら、どう言い訳をするつもりなのだろうか。


 夕ご飯はもしや自分の分まで作ってくれるつもりなのだろうか。


 部屋を間借りするだけで、直接的な接触は出来る限り避けるつもりでいたのに、こんなに親切にされたら、勘違いするじゃないか。


 夕暮れの街を眺めながら、この先への覚悟を決めた。


 このやさしい人に、迷惑はかけたくないから。

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