第11話 深夜はつらいよ
そうして、親睦を深められないまま、歓迎会は終わった。
「よっし、帰るぞ恭一」
鷹峰が、恭一の肩を抱いた。
最初、後部座席に鷹峰が乗り込んできた時には、緊張で固まっていた霧谷だったが、男子寮の前に就く頃には、すっかり二人打ち解けて、今度一緒に合コンしようねと約束するほど仲良くなった。やはり、似ている二人は通じ合う。
「おやすみなさい、霧谷さん」
窓を開け、霧谷を見送ったその時、いつの間にか、霧谷とともに車を降りていた鷹峰が、助手席のドアを開け、理香の手を引いた。
深夜の風の中、「楠本ちゃん、俺と一緒おいで」と、鷹峰が言う。
「いい加減にふざけるのはやめろ、鷹峰。自分の会社の新入社員だぞ。たぶらかしてどうするんだよ」
恭一が運転席から身を乗り出し、理香の右手を掴む。
「楠本ちゃんが気に入ったんだ。本気で、今夜一緒に過ごしたくなった」
「鷹峰さん、いい加減にしてください。私はもう信じませんから」
「本気だよ。いいだろ? 恭一」
「なんで俺に訊くんだよ。だめに決まってるだろ」
左手を鷹峰、右手を恭一に捕まれている。再び訪れた、この私のために喧嘩はやめて状態。どうしてこうなるのか。
「わかったよ、今夜はうちに泊めてやる。だから、楠本を離せ」
「楠本ちゃんも一緒に頼むよ」
「それはだめだ。こんな遅い時間に、女の子を連れまわすわけにはいかない」
「それならホテルに行く。楠本ちゃんも連れていく」
「わかった。楠本も一緒でいいから、俺ん家に泊まってくれ、頼むから」
「やったね、楠本ちゃん」
「いえ、私は別に……」
理香の意志とは無関係に、話が進んだ。
「おかしなことになってすまない、楠本」
「いえ……」
鷹峰は、おとなしく後部座席に戻り、車は恭一の自宅へ走り出す。
「鷹峰、おまえ何を企んでる。やってることがむちゃくちゃだぞ」
「企むとは何事か。俺はおまえたちはもっと親睦を深めるべきだと思っただけだ。あのな、恭一、おまえ彼女の指導担当だろ。もっと親身になってやれ。彼女は、見ず知らずの俺に仕事がつらいと漏らしたぞ。さっきも思いつめた顔をして、いけすの魚に話しかけていた。呑気な顔をしているが、実は相当参ってるはずだ。相談に乗ってやれ。今夜はいい機会だ」
魚を見ながら思ったことが、口に出ていたとは気づかなかった。
「余計なお世話だ。本社勤務のおまえになにがわかるんだよ」
史上最悪に機嫌の悪い恭一の握るハンドルの下で、不釣り合いなぬいぐるみが揺れている。
理香は、空気を換えようと、「蓮ノ葉さんって、スポンジ〇ブが好きなんですか?」と問い掛けたが、恭一はますます怖い顔をして、答えようとしない。まあ、そうなるかもしれないとは思った。
車のキーについた四角いパンツの黄色い奴が揺れている。
「これはね、恭一の彼女の趣味だよ」
自分がつらそうに眉根を寄せていることも、鷹峰が実験動物を観察するように冷たくこちらを見据えていることも、理香は知らない。
「知りたいなら、もっといろいろ教えてあげるよ、恭一のこと」
後部座席から、鷹峰が理香の耳元に囁く。歪んだ笑みを浮かべて。
時刻は深夜二時を廻っていた。
こんな遅い時間に男性宅を訪れることに抵抗もあったが、それよりも恭一のプライベートへの興味が、まだ冷めない酔いと共に理香の背中を押した。
「蓮ノ葉さん、お邪魔してもいいですか?」
恭一は黙って頷いた。
恭一の住まいは一人暮らしの男性としては珍しく、町はずれの閑静な住宅街に建つ古風な木造の一軒屋だった。
近隣は既に寝静まり、三人の声よりほかには風の音だけ。昭和そのものの母屋では、縁側から中庭を望める。
庭と家屋の落ち着いたたたずまいに、なぜかノスタルジーを感じる。生まれた時からアパート住まいなのに、不思議だ。
中庭もこれがまた広い。まだ葉の青いもみじ、大きな八重桜、隅には金木犀、すずらん、ラベンダー、入り乱れ、雑多な植生。でもなぜか喧嘩をせず調和している。小さな池には、色とりどりの鯉が、泳いでいる。そして空には、全てを見下ろすまるい月。
「なんだか心が和みまね」
「そうだろ」
鷹峰ほ誇らしげだ。
「ここは鷹峰さんのお宅ですか」
「いや、俺と恭一の祖父母が暮らしていた家だよ。俺たちの実家は東京にある。ここは、十年前に祖父が亡くなってから、空き家になっていたのを俺が頼んで貸してもらった。それ以来、出張のたびにちょくちょくこっちに来て、手入れをしているっていうわけさ。五年前に恭一がこっちで就職を決めてからは、恭一に譲って、俺はたまにこうして泊めてもらってる」
「よく言うよ。鷹峰は女をこの家に囲って、管理をさせていただけだろう。庭をここまで手入れをしたのは俺だ」
恭一は、あついお茶をテーブルに置く。
正座する理香に足を崩すように言い、自分はその向かいに胡坐をかいた。
「俺がこっちに引っ越してきた五年前には、ちょくちょく鷹峰の女がやって来た。しかも、一人や二人じゃなく、学生時代ならこれは一クラスの女子全員だろっていうくらい、大勢なんだ。『ここは私と鷹峰の家だから出て行ってよ』って、俺に文句言うんだよ。まったく、おかしな女とばかり付き合いやがって」
「鷹峰さんの武勇伝はすごいですね」
「いやあ、それほどでもないよ」
「褒めるなよ楠本、つけあがるから」
「別に褒めてるわけじゃないですけどなんとなく私、蓮ノ葉さんに文句を言った女の人たちの気持ちがわかります」
「楠本、正気か。こいつだけはやめておけよ」
「鷹峰さんの魅力がどうこうというわけじゃなく…………あ、いえ、鷹峰さんはとても素敵な男性だとは思いますけど、それよりもその女の人たちは、この家の風情に魅力を感じて戻ってくるんだろうと思ったんです。勝手な想像ですけど」
鷹峰は首をひねる。
「へえ、そんなこと一度も考えたことがないけどなぁ。この屋敷は古くてでかいから、夏は暑いし冬は寒いし、虫は出るし、掃除は大変だし。ガキの頃、夏休みに毎年この家に連れて来られるのが苦痛だったよ。和式トイレが大嫌いで、夜はお化けがでそうで怖くて入れなかったもん」
今は百八十センチを優に超える立派な体躯の鷹峰にも、おばけに怯える子供時代があったのかと思うとおかしい。
「俺は、昔からこの家が好きだったから、楠本の気持ちがわかる気がするな」
「恭一は、じいさんの秘蔵っ子だったもんな」
「ああ、大好きだった」
恭一は微笑んだ。その無邪気な笑顔。驚きとともに、耐え難いほどのかゆみが胸を襲う猛烈な、胸を掻き毟りたくなる疼き。
組織液を噴き出して今にも溶けようとするナメクジに、さらに塩を振りかけるように、恭一が理香に言った。
「なあ、楠本、今日はもう遅いから、泊まっていけよ」
「え? 大丈夫です、タクシーで帰ります」
「まだ酔いが残ってるんだろ。心配で、一人で帰せるわけないだろ」
いえ、顔が赤いのは酔っているからじゃなく、もっと邪な理由です。
「ほら、奥に離れがあるのが見えるか」
恭一が身を乗りだし、中庭を指さす。
その時、同じ方向に体を向けた理香と恭一の顔は一瞬、息も触れ合うほどに近づいたのに、顔色を変えたのは理香だけだった。恭一は涼しい顔をして、続ける
「あそこが玄関。離れは完全に独立した別棟で、鍵もかかる。鷹峰は絶対に近づけさせないから、安心していい。泊まっていけ。朝まで誰も近づけさせないよ」
「何だよ、俺を野良犬みたいに言うんだな。大丈夫だよ。嫌がる女を襲う趣味はないから」
「でも、そこまで甘えるわけには……」
「いいんじゃないの。そうしなよ、楠本ちゃん」
「こっちだ。離れに案内するよ」
「は……はい」
立ち上がると、眩暈に襲われ、恭一の腕の中に倒れ込んだ。頬に触れたのは、恭一の熱い首筋。体温の高い体から、理香は慌てて身体を放す。
「俺のことは気にせず、ゆっくり親睦を深めてね」
「うるさい! すぐに戻る!」
鷹峰の呑気な声に見送られ、居間を後にした。
一度庭へ降り、男もののサンダルに履き替える。
「ちょっと待っていてくれ」と言い残し、恭一は母屋へもどっていく。
しばらく、鯉の鱗がぬらぬらと月光に光るのを見つめていると、恭一が戻った。その右手には、離れの鍵があった。
玄関を入ってすぐに木製の三和土と下駄箱があり、上には空っぽの花瓶が一つ置いてある。三和土を上がりガラス戸を開けると、八畳ほどの居間。ガラス窓の向こうに、母屋の居間と縁側が見える。
両隣には、洗面所と、流し台が備え付けられた三畳ほどの小部屋。奥の物置部屋に布団があるそうだ。
今は使われていないというこの離れは、けれど、かび臭い女子寮の物置とは比べ物にならないほど清潔で清浄な空気に満ちている。
恭一の手で定期的に掃除されているのだろう。埃はなく、箪笥や窓際の文机は落ち着いた様相で、磨き上げたような飴色の艶はアンティークとしてもすばらしく思える。
「こんな素敵な部屋を、お借りしていいんでしょうか」
「素敵かどうか知らないが、好きに使ってくれて構わないよ」
恭一は、物置から布団を取り出し、畳の真ん中に敷いてくれた。
「今日はもう遅い。後で備えの歯ブラシを持ってくるから使ってくれ。風呂を沸かしておくから、気が向いたら入るといい。着替えだけは我慢してくれ。夜が明けたら、寮まで送ろう」
恭一は出ていった。
一人になると力が抜けて、ぺしゃんとその場にへたりこんだ。布団の上に体を横たえると、三秒ほどで睡魔に襲われた。
理香が寝息を立て始めてすぐに、歯ブラシとコップと歯磨き粉、タオルなどを持って、恭一が戻った。
すでに夢の中にいる理香を見つけると、恭一は小動物を見るようで、おかしくなって笑った。
理香はやはり、どこか隣の家の買い猫に似ている。
「歯ブラシ、ここに置くぞ」
枕元に道具一式を置き、風邪をひかないように布団をかけてやろうと身をかがめた恭一の耳元で、不意に理香がうめく。
「……です」
「ん? なに?」
恭一は、かすれた小さな声を聞き取ろうと、理香の口元に耳を寄せる。
耳に突き刺さったのは、「好きです……」という甘い声だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます