第10話 常務はつらいの?

 駅前の雑居ビルの三階に、今夜の宴の会場となる海鮮小料理屋「いなほ」の看板が、黄色く光る。


 ど田舎とは言え、駅前はさすがに賑わっている。


 夜の街が好きだ。


 雨に濡れた舗道に映る街灯や信号の影、遠い家の灯、今日は見えないけれど空の星とか、暗闇の中で一緒くたに見つめていると、懐かしい気持ちになる。


「後で合流するから、先に行っててくれ」


 近くのコインパーキングに向かう恭一を車に残し、ドアを降りようとした時、車のキーにぶら下げられた四角いパンツのスポンジの、鮮やかな黄色が目に残った。


「理香ちゃん、どうぞ」


 なんと、理香が降りるよりも先に、素早く外から霧谷がドアを開けてくれた。


 そんなことをされたのは初めてだし、されている人も映画やドラマの中でしか見たことがない。恐るべし。


「理香ちゃんどうしたの。幽霊でも見たような顔をして」


「霧谷さん、見事な職人技を見せていただきました。こうして女性を落とすんですね」


「えー? 何言ってんの理香ちゃん。これくらい普通でしょ」


 そんな無邪気な顔で微笑まれたら、差し出された手をついつい取ってしまう。これも手口か。



 優雅なエスコートに身を任せ、車を降りたところで室戸部長とばったり出くわした。


「おお、二人ともお疲れ。主役、さあ行くぞ」


 部長が先に立って歩き出す。彼もまた、恭一同様、珍しくスーツを着ている。


「部長、なんでスーツ着てるんです?」


「さっきまで常務と打ち合わせしていたんだよ。あの人、作業着で打ち合わせに行くと怒るんだ」


 と、部長は迷惑そうに言った。それなら、恭一がスーツを着ていたのも同じ理由だろう。午後から打ち合わせがあると言っていたし。


「へえ、大変ですね。それで、常務はもう東京へ?」


「ああ、帰ったんじゃないかな。実は帰り際に飲みに誘われたんだが、部署で新入社員の歓迎会があるからと断ったんだ」


 常務か。どんな人だろう。一度も見かけたことはないし、どんな仕事をしているかもよくわからない。 

「常務ってどんな人ですか? ちょっと会ってみたいです」


 理香の言葉に、部長は歩みを止め、何とも言えない目をして理香を見つめる。なんでそんな、生卵を飲んだ後みたいな顔してこっちを見るんですか。


「い、いや。ほら、楠本も、常務と一緒じゃ緊張してまた転ぶかもしれないだろう」


 そこに触れますか。結構なトラウマを、せっかく忘れかけた所なのに。



 三階に到着してエレベーターを降りてすぐ、安井に出くわし、合流した。この流れで席へ着くと、安井の傍に座らされそうな気がして嫌だ。


「いらっしゃいませ」


 入り口で待ち構えていたのは、落ち着いた藍色の着物を着た上品なおかみだった。これが大人の飲み会か。値段設定が高そうなお店だ。


 理香が学生時代に通ったチェーン店の居酒屋とは違う。酔って泣き喚く客も、王様ゲームに熱狂する客もいない。


 高級感がある店内を入ってすぐの大水槽には、大きな魚がゆうゆうと、これから食べらえることも知らずに泳いでいる。ここに釣り糸を垂らしたらすぐに釣れそうだ。


 カウンターは仕事帰りのサラリーマンでほぼ満席だ。理香たちは奥の大部屋へ通された。


 畳敷きの広間に、掘りごたつ式のテーブルが三つ並ぶ。その中で、理香は真ん中のテーブルに案内された。


 すでにほとんどの社員が揃った頃に恭一が遅れて到着し、何かと忙しそうに動き回っている。幹事さん、お疲れ様です。


 配属されてもうすぐ二か月になるが、指導担当の恭一と、なぜか何かと絡んでくる霧谷と、それから安井意外とは、あまり接点がない。今日は、皆の人となりを少しでも知れたらいいと思う。


「とりあえず、生でいいか」


 幹事の恭一に問われ、頷く。本当はカルアミルクが好きだが、社会人としてはとりあえずビールで。


 恭一の、愛想のまるでない乾杯の音頭で、歓迎会は始まった。


 理香はアルコールに強くないので、ビールジョッキを少しずつ干していたが、真ん前に座る安井にせかされて、早いペースで飲まされた。すぐに顔が赤くなる。


 理香の両隣とはす向かいは、部内でもとりわけ無口な古田、引地、奥井のスリートップにがっちり固られている。


 こうなると、いつもは鬱陶しい霧谷の軽口が、今日だけは恋しい。ちなみに霧谷は、端に座る恭一の隣で仲良く飲んでいる。

 いいなあ、あっちに行きたいが、そういうわけにもいかない。


 毎日仕事帰りに買っているスポーツ新聞よ、今こそ我に力を!


「最近のソフトバンクは強いですねー」


「もうすぐ梅雨が明けますね、今年はエルニーニョとかどうなんでしょうね」


「AKDでだれが好きですか? 私はぶるるです」


 理香は、野球、天気、仕事の話題などを振ってみたが、どれも周囲の皆様には響かないらしく、会話はまるで続かない。こうなると、アダルト記事の出番か。いや、いくらなんでもそれはかなり厳しい。


 安井は酔っ払って、家族の愚痴を吐きちらしているので、適当に相槌を打って勝手にしゃべらせておくとして……もう、なんだこれ、いろいろと地獄だ。早く帰りたい。


 すっかり会話をあきらめて、理香がお酒に走りだす頃、程よく酒の進んだ無口三兄弟が、突如饒舌に語りだした。


「製造は馬鹿ばっかりだから、俺の指示がわからんのですよ。虫けらですよ。脳みそゼロ」


「虫けらは皆淘汰されるべきですな」


「三次元とかBBAばっかですよ。女はやっぱり小学生ですよ」


 会話を要約すると、まずひとつめに、最高学府を出られたお三方は、他大学の出身者をはじめとした一般庶民を脳みそ空っぽの虫けらと思っている。

 二つ目に、自分たちの話を理解できない虫けらは、滅んでしまえと思っている。

 三つ目に、三次元の女性、っていうか小学生にしか興味がない、ということがよく分かった。

 変態だよ。

 ため息が出た。


 彼らにとっての自分は、興味のない虫けらなんだな。それならいくら話しかけても返事がもらえないはずだ。もうやだ。本格的に帰りたい。    


 席を立ち、化粧室で念入りに手を洗い、思う。


 石けんで汚れを流すように、心に溜まっていくストレスをごしごし洗い流す術があればいいのに。

 用が済んでもすぐに戻る気になれず、入口に回った。


 おかみが「ご気分がお悪いのですか」と気遣ってくれる。


 「ちょっと魚を見させてください」と頭を下げた。「ごゆっくりどうぞ」柔らかい微笑みに癒される。


 笑顔が素敵なおかみも、あの三人も、自分も、魚から見たら、どれも同じ顔に見えるのだろうか。人間からは、魚の顔がどれも同じく見える。


 ぼんやりと水槽の魚を眺めていると、「こんばんは、新入社員ちゃん」とカウンターから一人の男が声を掛けた。その声、漂う香水、どれも覚えがあった。


 埠頭で理香にビールをくれた東京の男、鷹峰だ。


 漂う、アーバンな香り。なぜか昭和とバブルのにおい。おそらく三十代半ばくらいの年齢のはずなのに変だな。


「た、鷹峰さん? すごい偶然ですね」


「久しぶりだね。新入社員ちゃん。浮かない顔で魚を見つめて、また何か悩んでいる? 難儀な子だね」


 鷹峰は、焼酎のコップを掲げ、氷をカラカラと鳴らし、「おいで、一緒に飲もう」と理香を誘った。


「お誘いは嬉しいですが、今日は私の歓迎会を開いてもらっているんです。だから、私が抜け出すというわけには……」


「でも、魚が友達なんだろう。戻りたくないと、顔に書いてあるよ」


「違いますよ。お酒の席になれていないだけです」


「じゃあ、俺がおいしい飲み方教えてやる」


 腕を取られて、逃げられない。ぐいぐい近寄られ、戸惑う。いい匂い。ついついくんくんしてしまう。


「鷹峰さん、わたしまだ子どもだから、こういうことされるとすぐに勘違いしますよ。面倒くさいことになりますよ。だからやめてください」


 精一杯のけぞると、すぐそばに鷹峰の喉仏がある。近いよ、これは近すぎる。


「子どもは、自分を子どもだとは言わない。子どもじゃないと言い張るものだ。それに、からかってなんかいないよ。あの日、海できみを見つけたその日に、俺は思った。神話の女神、テティスの具現化した姿に違いないとね」


 これはもしや、本気で口説かれているのだろうか。いや、酔ってるだけだ。女神っぽいなんて言われたことない。


「君を好きになってしまった」


「ちょっと、ほんとに、冗談ならもうやめてください」


 鷹峰からダダ漏れのフェロモンに周囲がざわつき始めたその時、


「おい、何やってんだ、楠本」


 理香の腕を引いたのは、追加注文を頼みに来た恭一だった。


「ああ、蓮ノ葉さん、助けてください、この人が私を誘惑します」


 理香を背後に庇い、恭一が鷹峰を睨む。


 これはもしや、ドラマや少女漫画でよくある私のために喧嘩はやめて状態! 一人の女を巡り、睨み合う二人の男……緊迫する空気。


 しかし、意外にも鷹峰はにこやかに「よう、恭一」と呑気に言った。理香を含めた周囲の凍り付いた空気は、一瞬で解凍された。


「なにやってんだよ、鷹峰。うちの新人に悪影響を与えないでくれ、頼むよ」


「悪影響とは失礼な。彼女の仕事上の悩みを取り除いてやろうとしただけだ。なあ、新入社員ちゃん」


「でも、女神とか好きだとか言ってましたよね」


「なあ、鷹峰。もういい年なんだから、いい加減そういうのやめろ。おまえが中途半端に手を出して捨てた女の尻拭いで、俺がどれほど苦労したと思ってるんだ」


 以前に霧谷にも、同じことを言っていた。尻拭いが得意なのかな。


「できる男はモテるものだ。モテる男はつらいものだ」


「あほらしい。行くぞ、楠本」


 そうですね。本当にあほらしい。こんな人に、ちょっとでもドキドキした自分も。


「まあ待て恭一。俺、明日は休みだから、今夜はお前の家に泊まるぞ」


「勝手に決めるな。まずは俺に伺いを立てるべきだろう。『今夜泊めてくれないか』と」


「その必要はない。なぜなら、元は俺の家だから」


「もう五年も前の話だろ。今は俺の家だ」


「へえ、そうなんだ。そう言う態度をとるんだ。じゃあ、いいよ。ホテルに部屋を取るから」


「ああ、そうしてくれよ」


「新入社員ちゃん、駅前のホテル、最上階のスイートでいいかな?」


「え? 何でそんなこと私に聞くんですか」


「君と一緒に一緒に泊まるからだよ」


「勝手に決めないでください」


「じゃあ、お願い。一緒に泊まろう」


「嫌ですよ」



「楠本、間に受けるなよ。こいつは酔っ払ったら誰彼かまわず持ち帰ろうとするんだ。十股は当たり前の手練れだ。霧谷の上位互換……いや、下位互換みたいな男だ」


「蓮ノ葉さんのまわりは、そう言う人ばっかりですね」


「なぜだろうな。俺はこんなに真面目なのに」


 そうですね。遠恋でも、一途ですもんね。さっさと別れればいいのに。あ、いけない。黒い自分が顔を出してしまった。思ったよりも、酔っている。


 と、そこへ奥から室戸部長がやって来て、理香たちを見て目を丸くした。


「うわ、宝生常務、なんでここに!?」


 部長の目線は、鷹峰に向いている。


「常務? もしかして、鷹峰さんのこと?」 


「なんだ、楠本は知らなかったのか」


 恭一が言う。


「知りませんでした」


 ということは、よりにもよって、自社のお偉いさんに愚痴を言ってしまったということか。


「どうしたんだ、楠本、目玉をむき出して」


「あ、いえ私、常務というのはもっと年配の方の役職だと思ってました」


「だろ、そういうこと言われちゃうだろ。だから嫌なんだよ。常務とか、いまいち業務内容不明だし、説明も面倒くさいし、肩書から加齢臭が漂うから秘密にしたかったのに、ばらしやがってこの野郎」


 鷹峰は、室戸部長に絡み、そのまま大広間へ乗り込んでいった。



「うわあ、やべえ」


「何がやばいんですか?」


「あいつ、俺の従兄なんだ」


「それのどこがやばいんですか?」


「あのな、ずっと秘密にしてきたが、俺と鷹峰の祖父は、よつばマテリアルの創業者だ」


「だからそれ、どこがやばいんですか?」


「俺が創業者一族だと知れれば、周囲は色眼鏡で見るだろう。それが嫌で隠してきたのに、鷹峰はきっとバラすだろう」


「じゃあ、蓮ノ葉さんは、社長の孫なのに、コネを使わずに入社したんですか」


「そういうことだ」


「かっこいー! でも変なの。私なら真っ先にみんなに自慢しますよ。さっさと昇進して、高給取って、いいじゃないですか、特別扱い、最高ですよ」


「楠本は、欲望に忠実だな」


「素直だと言ってほしいです。でも、蓮ノ葉さんの気持ちはわかりますよ。どこまで自分の力でやれるか、試してみたかったんですよね。すごいです。えらい!」


 背伸びをして、恭一の頭を撫でる。見た目以上に柔らかい猫っ毛だ。恭一は理香の手を掴み、やめさせた。


「楠本、おまえ相当酔ってるだろう」


「酔ってますよ。だって、真ん前は安井さんだし、周りはT大三兄弟だし、お酒を飲まなきゃやってられないですよ」


「わかった、でかい声出すな。広間にまで響いたらどうする」


「嘘ですよ。蓮ノ葉さんの選んでくれたお店の料理がおいしくて、ついついお酒が進みました。ありがとうございます。私、蓮ノ葉さんを尊敬してます」


 にっこり微笑み、恭一の手をぎゅっと握る。


 酔いが、理香の箍を外していた。


 肉食なのは、理香自身無自覚な真の姿。


 恭一はその片鱗を垣間見た。

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