第9話 歓迎会はつらいよ

 金曜日の朝、技術部内の空気はざわついている。週末へ向けて気が緩むのだろうか。理香に特別な予定などはないので、平常運転だ。ガオでDVDでも借りて、ポテチ食べながら見るつもりだ。


 今日も頑張ろう。



 出勤してすぐのこと、一息つこうとマイボトルに持参したコーヒーを一口飲んだその時、


「今日の午前は、現場でサンプルを作ってみようか」


 と、恭一に声を掛けられた。


「サンプルですか?」


「そう、ちょっと汚れる作業だけど、デスクワークばかりで目も疲れるだろう。たまには手先を動かすのもいいんじゃないかと思ってね。パソコンの画面ばっかり見てると、肩がこるだろ」


「私はまだ若いので、肩こりはしません」


「へえ、うらやましい。俺、最近ばっきばきだよ」


 と、恭一が肩を回し、「もうすぐ三十路だもんなー」と呟く。


 七歳年上か。

 私が小一の時、蓮ノ葉さんは中二。

 恋愛対象としては、どうなのだろう。 


「まあそういうわけで、今日は現場ね」


 視線を合わせず、「はい」と答えたのは、横顔に視線が突き刺さっているのがわかっているのに、首をどうしてもそちらへ向けられないから。


 涙腺崩壊を目撃されたあの日以来、ずっとだ。





 現場では、微粒子が飛ぶのでマスクをしながらの作業となる。恭一に倣って見様見真似でサンプルを削る。 製造部の班長が、「蓮ノ葉さん。女の子にこんな汚れ仕事させていいのかい」と声を掛けてきた。


「デスクに張り付いてるばかりじゃ疲れるし、女性だからという理由でデータ処理ばかりさせるのもね。現場の空気にも早く慣れてほしいしね」


 恭一は、同意を求めるように理香を見つめる。


「はい」


 首を横へ巡らせると、不意打ちで目が合った。蓮ノ葉さんって、こんな魅惑的な目だっけ? 不謹慎にも跳ね上がる鼓動がうらめしい。


「は、はい、私は細かい手作業が大好きなので、こういうのはむしろ大歓迎ですよ」


 どんどん頬が赤くなる。マスクよ、顔を隠してくれてありがとう。鼻の孔もまもってくれてありがとう。


「それならいいけど。ところで蓮ノ葉さん、今、向こうで装置動かしてるんだけど、もうすぐ品質のデータが出るからちょっと見に来てくれないかな」


「わかりました。ちょっと外す」


「はい、行ってらっしゃい」




 一人になり、黙々と作業をこなしていると、「あのあのあのあの……」と近くで誰かが呼ぶ。


 特徴的な話し方で、すぐにピンときた。クリーン服の笹井さんだ。


「あの、出来上がった塊が、品質にちょっとちょっとばらつきがあって、もしかしてスペックアウトじゃないかって話でそれであのあのあの」


「すみません、笹井さん、私、まだ入ったばかりで作業工程のことはよくわからないんです。だから、製造の上の人か、技術部なら蓮ノ葉さんに聞いてくれますか。今、装置の方にいますよ。ほら、向こうに頭が見えますよね」


「ああ、そうかそうか。そうなのか。わかりました」


 笹井は慌てた様子で、装置とは反対の方向へと走って行った。本当にわかっているのか不安だ。念のために恭一に報告をすることにした。


「大丈夫でしょうか」


「うん、笹井さんは水野さんと同じ作業工程にかかわっているはずだ。今出来上がったもののスペックは問題なかったから、大丈夫だろう」


 ちょうどその時、チャイムが鳴り、二人は作業を引き上げた。

 後にこれがおおごとになる。




 そして、午後五時半。


 事務所の窓から見える広大な大自然は、薄暮に迫られている。そろそろ帰るか。何の喜びも癒やしもない、物置部屋へ。


「お先に失礼します」


 まだ新人で残業のない理香は、いつものように他の社員に帰宅の挨拶を告げ、事務所のドアに手を掛けた。


 その時、


「ねえ、理香ちゃん。もしかして帰ろうとしてないよねえ?」


 霧谷に呼び止められ、理香は足を止めた。


「そのもりですけど、何か用ですか? 霧谷さん。私、今日中にガオにDVD返しに行かないといけないんで、ちょっと急ぐんです」


「へえ、何借りたの?」


「魔女宅です。定期的にあのパン屋の旦那さんが見たくなるんですよ」


「あの人、一瞬しか登場しないよね。そんな魅力的な場面ってあったっけ?」


「ありますよ」


「理香ちゃんって珍しい趣味してるね、ああ、でもあの魔女の女の子は、どじで頑張り屋なところと、顔つきがどことなく理香ちゃんに似てる」


「言われたことないですけど……けなされてる気はしませんね」


「うん。褒めてる」


 にっこり微笑まれて、悪い気はしない。


 髪を撫でられ、そのまま頭をぐりんぐりんと揺らされるうちに、悔しいかな、癒された。人は頭を温められると、母親の子宮内環境を思い出すらしいとどこかで聞いた。


 だが、気がつけば、事務所内の視線がこちらに集中している。


 霧谷に頭を撫でまわされるのにも慣れて、いちいち反応するも億劫でなすがままにさせていたが、これは良くない。感覚がマヒしてしまっている。慌てて霧谷の手から逃れた。


「楠本。そうやって、冗談ぽい感じで日常的な接触を増やし、警戒心を溶かしたところでいきなり本気出すのが霧谷の手口だ。油断するとやられるぞ」


 恭一が現れ、霧谷の手をぶっ叩きながら理香に忠告した。


「ほら、行くぞ」


「行くって、どこに? もしかして、蓮ノ葉さんもガオに用事ですか」


「違うよ。今日は楠本の歓迎会だろうが。幹事は俺だ。魚のうまい店を選んだから、期待していいぞ」


「そんな話ありましたっけ?」


 恭一はあきれ顔を見せた。

 どうやら、初日に理香が鼻血を噴き出している間にそんな話があったらしいのだが、全く記憶にない。


「会場は駅前の海鮮小料理屋。このあと七時からだ。乗せていくから着替えてこいよ」


 スーツの裾を翻して事務所を出ていく恭一の後を慌てて追いかけながら思う。


 作業着姿からスーツ姿への変化は、綺羅びやかすぎる。後ろ姿から目を離せない。


 これは、やばいなあ。




 更衣室ですぐに着替えて、駐車場へ急ぐ。今日に限って、スカート丈の短いリクルートスーツで来てしまった。おとなしく足を閉じていられるだろうか。


 シルバーのCX5は、理香が雨に濡れないように入口のすぐ前で待機していてくれた。


 助手席のドアを開いて乗り込むと、後部座席で霧谷が不満の声を上げる。


「理香ちゃん助手席なんてやめて、俺と一緒に後部座席に乗ろうよ」


「いやです、霧谷さん、絶対触りますよね」


「そんなことしないよ。ちょっと膝と膝くっつけるだけだよ」


「うるさい、霧谷。黙って乗ってろ」



 雨の駐車場を出発したのは午後六時過ぎのことで、駅前まではニ十分弱のドライブになる。車が走り出してから、霧谷がずっと喋り続けている。


 ハンドルを握る恭一の腕を眺めていた。腕まくり。普段は見えない場所が露出すると、気になってついつい見てしまう。私はエロ親父かと、自分に突っ込む。


 細くて長い指。見とれる理香に、霧谷が声のボリュームを大きくして言った。


「ねえ、理香ちゃんってもしかして、耳悪い?」


「ああ、はい……」


 そのうちばれると思っていたが、案外早かった。


「そうなんですよ、霧谷さん。私、右耳だけ聴力が低いんです。補聴器を付けるほどでもないんですけど、右から話しかけられると聞き取れないことが多くて、すみません。わざと無視してるわけじゃないんですよ」


「え? 本当に?」


 霧谷は驚き、それからすまなそうな顔。


「だったら、なんで安井さんにそう言わないんだよ」


 声を荒らげたのは恭一だった。驚いて、肩が震えた。


「す、すみません」


 恭一の剣幕に怯えながら謝罪。恭一は、いつにも増して殺気立った様子で、乱暴にハンドルを切る。


「別に怒ってるわけじゃない」


 どう見ても怒ってますよね。


「でも、最初から耳がよくないことを安井さんに知らせていれば、あんなに毎日毎日小言を言われずにすんだのにと思うと、腹が立った」


 だからそれ、怒ってますよね。でも、私のために、ですね。嬉しい。


「そうですね、確かに、安井さんには悪いと思うんですが、なんとなく言いづらくって……でも、ちょっと考えなくちゃだめですね、補聴器とかつけようかな」


「理香ちゃん、なんかごめんね、僕、無神経なこと言ったみたいだ」


 霧谷が後部座席で、塩を振られた青菜のようになっている。


「気にしないでください。だって事実ですから」


「理香ちゃん、やさしいね。今日の君は天使のように愛くるしいよ」


「夜だから顔がよく見えてないだけだと思いますよ」


「ほら、着いたぞ。降りろ」


 車は、繁華街で停車した。

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