第8話 休日もつらいよ

 いろいろと、やってられない。


 週末は心に決めた通り、釣りに出かけることにした。


 金曜の夜に近所の釣具屋を訪れ、サビキ釣りの道具を手に入れた。サビキはチューブ詰めのオキアミ。生餌と違って、虫を触る必要がないので気軽にできる。


 最初からこれにすればよかった。


 翌朝は曇り空だった。初夏の幸海市では、既に紫外線対策が欠かせない。晴れの日にはきっちり対策をしなくては、翌日にはトーストみたいにこんがり焼ける。


 高校時代にソフトボール部に所属していた理香は、年中小麦色に日焼けしていた。


 そのせいか、体質的なものか、身体の色がすぐに変わる。あっという間に日に焼けて、すぐに元に戻るという特異体質なのだ。


 今日は曇りで良かった。


 理香は道具を大きなリュックに入れて背負い、えっちらおっちら自転車をこいで気づまりな寮を飛び出した。


 この間の埠頭に到着し、道具を広げる。


 以前と同じ場所に座ったのは、別に蓮ノ葉さんの到着を期待しているわけじゃないんだからね。


 そして、今日も高級魚爆釣マニュアルを広げる。


 


 サビキ釣りは、手が海老臭くなるのだけを我慢すれば、いいことづくめだった。なんと、竿を投げ入れてすぐに、小さな魚が釣れた。


 浮かれながら慣れない手つきで釣れた魚を針から外し、海水を入れたバケツに放す。理香の人差し指ほどの小さな魚は銀色で、バケツの中で泳ぐ姿がたまらなく愛らしい。


 名前は、銀ちゃんにした。五分ほどすると、酸素不足で銀ちゃんは元気をなくしていく。見ていられなくて、海へ放した。

 ばいばい、銀ちゃん。お前がもうちょっと大きな魚だったら、おいしく食べたのに。小さくてよかったね。


 私も逃げたいよ。

 バケツの中は、気づまりな会社の中みたいだ。

 しがらみのない大海原で自由に生きていけたらどんなにいいだろう。



「ん―――」と両手を空へ突き上げて、伸びをした。


 そして、竿をわきへ置き、パーカーのフードを枕にして、地面に大の字に寝ころんだ。

 午後から雨の予報が出ている通り、空模様は芳しくない。


 灰色の空にところどころ真っ黒い雲が見える。そんな天気なので、埠頭には理香の他に釣り人はいないし、スキニージーンズを履いているので、両足を大きく開いても大丈夫。


「ああ、もうやってらんない」





 最近は、実験データの解析を勉強している。


 恭一がパソコンでやるのを隣で見せてもらい、メモを取りながら手順を覚える。


 実験やデータ解析は学生時代から好きだった。一人で黙々とこなせる仕事ばかりなら楽なのだが、残念ながらそういうわけにもいかない。


 恭一の姿を見ていると、取引先に出向いて製品の開設をしたり、現場に支持を出したりといったコミュニケーション能力を求められる場面が多い。


 数少ない女子社員にさえなじめず悩んでいる理香とは違い、恭一はデスクワークも営業も文武両道というか、なんでもソツなくこなすできる男だった。


 恭一の担当する取引会社は隣国の大手家電メーカーで、お国柄が違うため何かと問題が発生しがちだ。


 だが、恭一は相手のどんなクレームも無理難題も、鮮やかに退ける。艶やかな笑顔と、強固な姿勢に相手先が気圧されてしまうためだった。


 あと七年後に、自分に同じことができるだろうか。わからない。でも、できるようになっていたい。



 自給自足で生きていけない限りは、何かしらの方法でお金を稼いでいかなくてはならない。


 大海原に逃げ出しても、一人じゃ生きていけない。あの小さな銀色の魚よりも、ある意味では無力な自分。


 魚じゃないから、人間は、コミュニケーションから逃げては生きられない。狭いバケツで窒息せずにいられるには、何が必要?


 つまらない人間関係で、せっかく手にした職業を離れるようなことはしたくない。



 まず手始めにできることと言ったら、福田と仲良くなることだろうか。

 いや、それよりも、現場のおじさんたちと信頼関係を気づくことが先決だろう。


 だって、職場へは、友達を作りに行っているわけじゃない。仕事をするために行くんだから。あがり症も克服しなくちゃ。


 決めた。もう泣かない。


 早速帰り道に、コンビニでスポーツ新聞でも買って帰ろう。いや、経済新聞の方がいいかな。とにかく、できることをやる。


 嘆いてばかりいたって、尊敬する先輩に、いつまでも認めてもらえない。




「よっしゃやるぞ」


 理香が思い切り大声で言い、閉じていた目を開くと、すぐそばに二つの目があった。


 驚きのあまり悲鳴を上げて跳ね起きる理香に、


「こんなところで若い女性が寝ていたら危ないよ。連れ去られて鎖につながれたらどうするの」


 と、その男が言った。


 危ないのは、あなたの発想の方ではないですか。理香は後ずさる。



 休日の埠頭には不釣り合いなスーツ姿のその男は、身長は百八十センチを超える長身で、スーツに隠された体躯はさぞかし屈強なのだろうと思われる。


 切れ長の両目をすっと細め、端整な顔に笑みを浮かべている。


 目が合うと、理香は慌てて目を逸らした。なんかフェロモンがとにかくすごくて、長時間見たらやばそうだった。


 男性のスーツに明るくない理香にも、紳士服の〇〇では売っていなさそうな高級なブランドものスーツなのだろうと一目でわかるのを着ている。しかもそれが嫌味ではなく、自然に似合う。


 海風が吹くと、淡くさわやかな香水が香る。完璧なビジネスマン。頼れる男の具現化した姿のようだ。


 どうして朝もはよからこんな磯くさい埠頭に、激しく不釣り合いな男が現れたのか。男は、釣り道具を手にしているわけでもない。


 もしかして、夢かな。


 いや、見た目に騙されてはいけない。

 先ほどの一言から、アブノーマルな性癖を持っているのは間違いない。 


 男は片手に、コンビニ袋をぶら下げている。


 警戒心をむき出しに自分を睨み付ける理香を面白そうに眺めて、


「一杯つきあってくれないか」


 と、理香の隣に座り、男はコンビニ袋の中から缶ビールを二本取り出した。


「酔わせて、飼い犬にするつもりですか」


 男は、大爆笑して、「ないない、冗談だよ。そこまで女に困ってないから」と。

 まあ、確かにそうだろう。ハイスペックな大人の男が、自分を連れ去るメリットがない。連れ去るなら、もっと美女を選ぶだろう。


 理香は首に巻いていたタオルを広げ、「スーツが汚れますよ、ここに座ってください」と地面に置いた。朝方の霧で地面が湿っている。仕立ての良さそうなスーツに染みが出来ては格好悪いだろうと思ってのことだった。


 男は人懐こく笑った。


「わかった。じゃあ君はこれをおしりに敷くといいよ」


 と、男はブランド物のシルクのハンカチを理香に差し出した。


「いえ、私の服は安いやつなので、どうでもいいです」


「ふうん。見て、つまみもあるんだ」とサラダチキンと唐揚げちゃんを差し出す男に嬉しそうな顔を見せられては、あっちに行ってほしいとは言いづらい。


「私は自転車なので、やめておきます。飲酒運転になるから」


「引いて帰ればいいじゃない」


「まあそれはそうなんですが……距離もだいぶあるし」


「若いんだから、オッケーオッケー。なあいいだろう、はい、乾杯」


 男はビール缶を理香へ押し付けた。


「それじゃあ、いただきますけど……」


 サラダチキンを頬張る男の横顔を見つめる。ハイスペックな雲上人っぽいのに、どこか人を和ませる雰囲気。


「おれは鷹峰たかみね。東京から出張に来たサラリーマン。今日は、美しい田舎の海を肴に酒を飲みにやって来た。今さっき一仕事終えて、後は飛行機に乗って戻るだけだから、休日のようなものなんだ。一人で飲むのも寂しいと思っていたら、ちょうど良い所に若い女の子が暇そうにしているじゃないか。となれば、当然誘うよね。どう? 怪しい者じゃないってわかってもらえただろうか」


「はあ、なんとなくはわかりました」


「君、ひとりできたの?」


「はい、まあ」


「へえ、珍しいね。ここにはたまに来るけれど、女の子が一人で釣りをしているのはあまり見かけたことがないな。たくさん釣れている?」


「さっき小さな魚が一匹釣れたんですけど、死にかけてかわいそうだったので海に還しました。釣りは今日で二回目なんです。でも、あんまり向いてないみたい。ただ、ぼんやりと海を眺めていると、自分の悩み事がちっぽけに思えて元気が出てくるから……って、私、もう酔ってますね。初めて会った人にこんな話するなんて」


「悩みってどんなの? おじさんに聞かせてごらん」


 年上ではあるが、おじさんという言葉はまるで似合わない男が、理香を優しく急かす。せっかくだから、愚痴らせてもらおう。


「そうですね、よくある話ですけど、仕事がうまくいかないんです。こんなはずじゃなかったって思うことばかりで、失敗の連続で、人間関係もうまくいってるとは言えないし、八方ふさがりでつらいです。私、小さなころからあがり症で、大勢の人に注目をされるのがすごく苦手なんです。緊張すると必ずおかしな失敗をしてしまうから、ますますみんなの信用を失って、自信を無くして、また緊張が募って……っていう悪循環に陥るんです。指導担当の先輩も、きっと私に呆れてます」


「それは大変だね。まあでも、最初はだれでもそんな感じだと思うよ。俺だって、今じゃ慣れたけど、初めて営業に出かけた先ではガッチガチに緊張して、貧血起こて倒れたりしたもんだよ。それが今では心臓に毛が生えたように図太くなって、ヤク〇みたいな取引先にも鼻歌うたいながらるんるんでのりこんでいけるよ。場数をこなせば、解決できる。だからがんばってね、新入社員ちゃん」


「ありがとうございます」


 鷹峰はビールを豪快に飲み干し、立ち上がる。


「さってと、行くか。これ、あげる。まだ手を付けてないから、安心して」


 唐揚げちゃんを理香に託し、「じゃあね」と言い残し、鷹峰は颯爽と去っていった。


 きっとあの人は、落ち込んでいる自分を元気づけるために、神様が天から遣わしてくださったスーツ姿の天使なのね。唐揚げとビールを堪能しながら、思った。


 ずっと、心のどこかで恭一が来てくれないかと期待していたが、来なかった。


 梅雨が明けたらまた釣りに来よう。 

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