第7話 女はつらいよ

 翌朝はまた雨ふりだった。


 梅雨時は、毎年耳の裏がかゆくなる。



 出勤途中に見上げる空には、稲妻のような形をした一筋の雲の切れから、一瞬だけ眩い朝陽が差す。


 前方の山々に、大きな虹が二つ架かった。一つでもラッキーなのに、二つも見つけた。


 今日はいいことがありそうだ。そう思ったのに。




 午前七時過ぎのことだ。


 理香が出勤すると、人気のない事務所にはすでに恭一がいた。


 コーヒーマグを片手にライオンみたいに大口を開けてあくびをしていた恭一は、理香が入室するとばつが悪そうな顔を見せた。


「おはよう、楠本。早いな。」 


「おはようございます。蓮ノ葉さん、さっき向こうの山に虹が出てたんです。見ました?」


「見てない。どっち?」


 恭一は俄然興味を示す。


「あっちですよ」


 理香が西側の窓を開けてゆびさすと、恭一が理香の後ろから「どれどれ?」と子どものように声を弾ませ、同じ方向に身を乗り出す。


「あ、本当だ。消えそうだけどまだ端っこに淡い七色の欠片が残ってるな」


 恭一は、嬉しそうに笑った。


 目をやられた。


 それに、気が付けば距離がすごく近い。


 理香の頭のすぐ後ろから、恭一の声が聞こえる。


 微かな熱を感じるほどに、そばに恭一の身体がある。


「朝からきれいなものを見たな。ん?」


「ど、どうしたんですか」


「楠本、ここ、どうした? なんか赤くなってる」


「え? どこですか?」


「ここ、耳の裏」


 恭一が指先で、理香の耳朶を裏側から微かに触れた。


「そ、そうなんです、なぜか梅雨時になるとかゆくなるんです」


「へえ、変わってるな。港の近くにいい皮膚科があるらしいぞ。霧谷がくわしいから、聞いてみるといい」


「は、ははい」


 今、絶対に顔が赤くなっているはずだ。


 そんな理香に気付かず、恭一は席へ戻っていく。


 理香は、その場から動けない。


「それはそうと、昨日の話だが、やっぱりおかしいから、今朝一番に総務に確認の電話を入れてみたんだ」


「昨日の話っていうのは、私の住まいの件ですか」


「そうだ。それで、総務の担当者が言うには、今度市内に新しくできるレジャー施設の従業員が揃ってマンスリーマンションを借りているらしい」


「そっか。それで空きがないんですね」


「だから、やはりしばらくは物置で我慢するしかないそうだ。納得いかないだろうが、力になれなくてすまない」


「いえ、気にかけてもらってありがたいです」


 理香には、自分のために恭一が総務に確認を取ってくれたことがとても意外に思えると同時に、ちょっと泣きそうになるくらいうれしい。


 恭一に触れられた耳が、自然発火しそうにあつい。



 そして、午前の業務が終わる。食堂前の廊下で総務の福田とばったり会った。


「あ、こんにちは、福田さん」


「あら、楠本さん、ちょうどいいわ。一緒にランチでもいかが?」


「いいんですか? ぜひお願いします」


 その瞬間に、ランチのメニューは決まった。


 食堂の中でも眺めの良い窓際の席を、福田の連れが確保してくれていた。


 そこに集うは、理香を覗いて五人の女性だ。


 総務福田をはじめ、同じく総務の森尾有希、品質管理の加古美奈、同じく伊佐今日子、そして、寮でも見かけた製造の沢登晴美。


 同じ寮で顔見知りの沢登の姿を見つけて喜ぶ理香を、けれど沢登は知らない人のように扱った。


 その時点で、多少の違和感はあった。


「まあ、女同士これから仲良くやりましょ」と福田の仕切りでランチスタート。


 理香は、取り換えず様子を見ようと、興味深く五人の会話に耳を傾ける。


 そうするうちに、「仲良くやりましょ」という福田の言葉が口先だけのものだと思い知る。


 仲良くやる気がないのは他でもない福田だった。


 理香以外の五人は、理香の知らない共通の知人や、各自の業務内容で盛り上がるだけで、理香は完全に蚊帳の外だ。


 それでも、最初はにこやかに話を聞いていた。


 女子の集まりでは、よくあることだ。


 悪意があるとは限らない。


 しかし、疑念が確信に変わったのは、ふと思い出したように「楠本さんはどういう仕事をしているの?」と、福田が理香に話を振った時。


「私は、最近は指導担当の先輩について、いろいろ教えてもらってますけど、まだ仕事らしい仕事は任されていなくて、こんなんでいいのかなって、不安になります。でも、周りは年上の男の人ばかりで、気軽に話ができないから、今日こうして誘ってもらえてすっごく嬉しいです。これからよろしくお願いします」


 それに対する五人の反応は、理香の予想外のものだった。


「へえ、いいわねえ。幹部コースで入社された全国採用のエンジニア様はやっぱり違うわぁ。私達はただの地域採用の事務職だから、教えられることなんてないと思うわ。ねえ?」


 理香以外の四人が頷く。


「あーあ。楠本さんって、その若さで大した仕事もせずに、私達よりもたくさんお給料をもらっているんでしょう? うらやましいわ、ねえ、晴美ちゃんもそう思うでしょう」


 福田はそう言って、隣に座る沢登に同意を求める。


「そうですね、ずるいですよね。給料泥棒です」


 と、笑顔で沢登は同調。


 そして、理香に纏わる話題はそれでおしまい。


 これは、なんてあほらしい。 


 ざるそばを啜る。


 ざるそばならササッと食べられて、話の邪魔にもならないと思って選んだのだが、失敗だった。


 こうなると分かっていたら、もっと食べるのに手間のかかる焼き魚定職にすべきだった。


 ギギギギ


 これは、心の奥にあるネガティブを閉じ込めたシャッターが上がる鈍い音。


 ドドドド


 闇からあふれ出したネガティブが大波となり、理香のなけなしのポジティブを洗い流していく音。


 女は面倒くさい。


 有意義な話や、楽しい話がしたい。


 愚痴や悪口が大好きな人たちは苦手だ。


 こんなことなら、デスクで手作りの梅干しおにぎりをかじっていればよかった。


 早くチャイムよ鳴れ。


 涙が出てしまいそう。


 でも、この人たちの前では、絶対に泣きたくない。


「…………さん、楠本さんったら」


 福田に呼ばれて顔を上げる。


「ごめんなさい、ちょっと考え事してました。なんですか?」


「ねーえ? こう言っちゃ悪いけど、ぼんやりしたあなたがどうしてよつばマテリアルの狭き門に滑り込めたのか、はなはだ疑問を抱かざるを得ないわ」


「はあ、そうですねえ。私も知りたいです」


 笑顔で答えたつもりが笑えず、声も低い。


「どうしたの? 顔色が悪いわよ。ねえ、あなた、もっときちんとメイクした方がいいわよ。せめてチークと口紅くらい塗りなさいな。ほとんどすっぴんで会社に来るなんて、女として終わってるわよ」


 もう無理だ。我慢できない。


 ブチ切れて怒鳴りつけてしまう前に、事務所に戻ろう。


 そう決めて立ち上がった。


 その時、誰かが理香の肩に、そっと手を置いた。


「楠本、休憩中に悪いが、打合せしたいことがある。ちょっと事務所まできてくれ」


 理香の顔を覗きこんだのは、恭一だった。


 濡れた黒目が、気づかわし気に理香を見つめている。


 いつになく優しい色を湛えたその瞳が、理香の現状を見透かしていることはすぐにわかった。


 鼻の奥がつんとして、涙腺崩壊の危機。


 理香は立ち上がる。


 きっと、見られてしまった。皮肉と嫌みを言われまくっているみじめな場面を、恭一に見られてしまった。


 そう思うと、いたたまれないくらい恥ずかしい。


 気がつくと、逃げ出していた。


 一人になりたい。


 それなのに、恭一がついてくる。


 情けない泣き顔を見られたくない。


 追いかけてくるなんて嫌がらせだ。


「ひ、一人にしてください……」


 理香はよろけながら中庭へ向かう。


 外は霧雨が降っている。


 内履きのまま、敷地の外まで歩き続いた。


 人気のない野外グラウンドを見つけ、大きな木の下で立ちどまる。


 ここまでくれば大丈夫。思いっきり泣いてデトックスしよう。午後から頑張れるように。


「もうやだ、友達はできない、部屋は物置、知らない町で、私、一人きりだよ」


 声に出すと、いよいよ自分がみじめに思えた。


 涙があふれだす。


 悲しみの海に溺れよう。


 それできっと気が済むから。


「はー、ふー、っく……」


 どれくらいそうして泣いていただろう。


 なんとかネガティブをシャッターの奥に閉じ込めることができた。


 きっともうじきポジティブが戻ってきてくれる。


 そろそろ事務所へ戻ろう。


 きっと、休憩から戻らない理香を皆が心配している。


「さあ、行くか……」


 泣きはらしてむくんだ顔を上げると、そこには恭一が立っていた。


「な、なんで、蓮ノ葉さん、いつからそこに……!?」


「おまえが海へでも飛び込むんじゃないかと心配で、後を付けた。すまない」


 いつもなら、その気遣いを喜ぶかもしれない。


 でも、今は放っておいてほしかった。


 社会人として、仕事を放り出して泣きじゃくるなんてマイナス評価以外の何物でもない。


 これだから女はだめなんだと、この人にだけは絶対に思われたくなかった。


「私は大丈夫ですから、先に戻ってください」


 恭一は睫毛を伏せた。


「大丈夫。楠本は頑張ってるよ」


 唇をかみしめる理香の肩に、恭一は手をのせる。


 優しい言葉と、柔らかい熱が降りてくる。


 せっかく堰き止めたのに、また涙腺が崩壊の危機が訪れた。


 恭一は、俯き震える理香の髪を一房、やんわりとつかんだ。


「楠本は、会社に必要な人間だ。技術は、時間が経てば誰でも覚えられる。だが、それだけが問題じゃない。会社が君を選んだ理由が俺にはわかる。君はいつも明るくて前向きで、努力家だ。給料泥棒なんかじゃない。俺が保障する。だからもう泣くな」


「っう……く……」


 雨に濡れた髪を、恭一はずっと撫でてくれた。


「ご、ごめんなさい」


「なんで謝る?」


「だって仕事中にこんな情けない」


「ぶはっ」


 え? 今笑った? 私の顔を見て。


 膝に手をつき、肩を震わせ、声をこらえている。


 これは、どう見ても笑ってるよね。


「す、すまない……泣き顔が、レイカにそっくりで……」


 誰よ、レイカ。

 もしや、彼女の名前?


「あ、レイカは隣の家の猫で、ご、ごめん。レイカ、時々瞼が三重になるんだ」


 確かに私も、泣きはらすと瞼が三重になる時がある。


「なんか、もういいです」


「ごめ……楠本、怒ってる?」


「怒ってないです」


「じゃあ、そろそろ戻るか」


「はい」


「俺が君にお使いを頼んだことにするから、ゆっくりもどっておいで。顔を洗って化粧を直すといい」


「ありがとうございます」


 もともとほぼすっぴんで出勤している。


 こんな気遣いができるということはきっと、恭一の彼女はいつでもきちんとメイクをする人なんだろう。むしろ、自分のようにろくに化粧もしない女の方が、特殊なのかもしれない。


「先に戻るな」


 事務所へ戻っていく恭一の背を見つめる。


 頭の天辺に、何度も優しくなでてくれた手の温もりが残っている。


 あの手を独り占めできる人は、きっと幸せだ。


 胸が痛い。





 寮に戻り、夕食時、沢登は理香を無視した。


 これまでとは明らかに違う彼女の態度に少なからず傷ついたが、恭一のくれた言葉を思い出すと、何とか乗り越えられそうな気がした。

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