第6話 出張はつらいよ

 雨の朝は、土のにおいがする。会社の正面玄関で傘を閉じる。ビニール傘についた雫を払っていると、「おはよう」と恭一の声が聞こえた


 駐車場からここまで走ってきたのだろう。荒く息を付き、雨に濡れた髪も乱れている。


 理香はハンカチを取り出そうとしたが、洗って返す先方の手間を考えてやめておいた。


 そこへ、「おはよう、お二人さん」と現れたのは霧谷だ。


 恭一の頭上に雨粒を見つけると、「蓮ノ葉、濡れてるよ」と、きれいにアイロンのかかったハンカチで、さささっと恭一の髪を拭いてあげていた。


 さすがモテる男は違う。


 恭一は、「悪いな」と、特に戸惑うことなく受け入れているあたり、これが二人の日常なのだろう。


「雨の日は、どうもやる気が出ないんだ。視力も落ちる気がする」


 恭一は、そう言って人差し指と親指で、鼻の付け根を抑える。


 繊細で、長い指だな。


 思わず口を開けて見とれていると、目が合って嫌な顔をされた。


「なんだよ、楠本」


「蓮ノ葉さんには、黒縁眼鏡が似合うと思いますよ」


「ああ、PC眼鏡なら持ってるんだ。黒縁だ」


「度入りを買うべきだと思います」


「僕も理香ちゃんに賛成だな」


「でもなあ、一度視力の矯正を始めると、坂道を転がり落ちるように目が悪くなるっていうだろう?」


「それよりも、覚束ない視力のまま生活する危険性を考えるべきです!」


 廊下に、理香の熱弁が響き渡ると、霧谷がくすっと笑った。


「蓮ノ葉、理香ちゃんの言う通りだよ。君の目つきは、最近とくに獣じみてきているよ」


「獣はさすがに言いすぎだ」


 言いながらすでに、冬眠寸前の熊的な猛然たる目つきに変わっていることに、本人は気づいていない。


「いいえ、霧谷さんは間違ってません。蓮ノ葉さんの目付きは、残忍冷酷、無慈悲で暴力的で邪悪です」


「はあ? なんだよそれは」


「つまり、怖いってことだよ」


 恭一は些か気分を害した様子ながら、「週末に眼鏡屋に行ってみるか」と譲歩してくれた。


 ぜひそうしてほしい。


 そうなれば、この清涼感たっぷりの冷凍光線を浴びずに済む。




 事務所へ入ると、恭一と共に課長に呼ばれ、隣県の自社工場へ日帰り出張を命じられた。


 正確に言うと、出張を言い渡されたのは恭一で、理香はついでに行ってくれば? という雰囲気で、物見遊山気分でよいらしい。


「じゃあ、明日は朝六時半に寮で待ってて。俺が車で迎えに行くから」


「いえ、私は電車で行きます」


 恭一と二人でドライブだなんて、話題を思いつかないし、冷え冷えクールな態度を取られてダメージを受けるのも嫌だ。


「まあ、電車でも行けないことはないけど、この辺はど田舎でディーゼルしか走ってないから、すんごい時間がかかるぞ」


「すんごいって、どれくらいですか」


「三時間くらいかな」


「車に同行させてください」


「いいよ」


 気が重いはずなのに、なぜか楽しみでもある。


 そこに隠された自分の気持ちに、気づかないふりをする。




 翌日は梅雨の最中には珍しく、快晴のドライブ日和だ。


 いつもよりも少し念入りに髪を梳かし、華美になりすぎないように心掛け、気に入りの服を選んだ。


 ふだんから、基礎化粧と、薄く眉をかきリップクリームを塗る程度のことしかしない。


 髪は背中の中ほどまでの長い黒髪で、手入れにも気をつけてはいるものの、手を掛けたアレンジなどはせず、いつも肩先で一つに結ぶだけだ。


 けれども今日はリップクリームの替わりに口紅をつけ、髪には葉っぱのモチーフのついたピンを飾った。




 約束の時間通りに、シルバーのCX5が女子寮の玄関先に迎えに来た。


「おはよう。乗って」


 ドアを開けてもらうと、デートみたいだ。


 平静を装い助手席に身を寄せた。


 ちょうどその時、出勤する沢登が横を通り過ぎたので、声を掛けたが、聞こえなかったようだった。



 低燃費の新型ディーゼル車。


 燃費重視の堅実な経済観念には好感が持てる。


 車内はきれいに掃除され、フレグランスなどは置かれておらず、煙草のにおいはしない。灰皿もない。


 FMから流れる心地よいボサノバのリズムに合わせて、恭一は時々鼻歌を歌う。


 悔しいけど、ちょっとかわいい。


 理香は見慣れない窓の外の景色を見る。


 新しくできたガソリンスタンドの店先で、くまの着ぐるみがチェッカーフラッグを振っている。今給油すると、箱ティッシュが五箱ももらえるらしい。


 それを恭一につたえたい。


 でも、なぜか言えない。


 車に乗って三十分ほど過ぎたが、会話は一言も交わしていない。


 先に口を開いたのは恭一だった。


「楠本の同期入社は何人いるの?」


「えっと、三十四人です」


「女性は楠本だけ?」


「いえ、一人だけいます。早苗は……って、同期の名前です。北海道の工場に配属になったんですけど、向こうでも女性が少なくて寂しいみたいで、よく電話がかかってくるんですよ。もう辞めたいって、泣いてました」


「そうだろうな。圧倒的に男だらけの業種だ。戸惑うのも無理もない。楠本も、辞めたいと思ったことがあるか」


「いえ、今のところ大丈夫です」


「それはよかった」


 愁眉を開いた恭一を不思議に思った。


「蓮ノ葉さんから見て私は、嫌々働いてるように見えますか」


「いや、そんなことはない。ただ、霧谷に言われたんだ。楠本が悩んでいるようだからもう少し優しくしてやれってな。それで、少し思うところがあった」


「思うところ、ですか」


「そう。君の指導担当は俺なのに、君が悩みを相談しようと考えた相手は、俺ではなく霧谷だった。そこに俺の君に接してきた態度への答えがあるように思えた」


「それは……」


「いや、責めているわけじゃない。楠本が気軽に話しかけられる雰囲気を、用意できなかった俺に原因がある」


「それは、製造の田島部長にぶっ飛ばされるからですか?」


「霧谷から聞いたのか」


 と、恭一は少し笑った。


「今度の新入社員は貴重な女性エンジニアなんだから、大切に育てろと口すっぱく、君の入社した春からずっと言われてきた。それはわかるが、絶対に手を出すな、恋愛対象として死んでも見るなと、上から何度も言われて、頭に来ていたんだ。俺を霧谷と一緒にするなよ、ってね。でも、君に言われて安心した」


「何をですか」


「社内恋愛する気が無いと言っただろう」


「ああ……」


 そうか、なるほど。


 それで、突き放す必要がなくなったというわけか。


 霧谷のおかげで、恭一は理香に意図的にやさしくしようと思い直してくれたのか。


 ありがたいながら、なにか喉の奥に引っかかる。 




 車は、隣県へ入った。


 通勤ラッシュを過ぎ、国道は快適に流れ始める。


「楠本はどうしてよつばに入ったんだ」


「それはですね、私の実家は隣県なんですけど、車で一時間くらいで、ここはほぼ地元みたいなものなんです。で、このあたりでよつばマテリアルと言えば有名で、安定してて人気があります。小さい時から冗談交じりに言われていたんです。理香は算数が得意だから、将来はよつばマテリアルに勤めなさいって」


「へえ。夢がかなったわけか」


「まあ、私の夢というよりは、両親の夢です。私、姉が一人いるんです。名前が文香ふみか。で、私が理香。文字通り姉は文系で、私は理系。姉は今年で二十九になるんです。三年前に結婚して、去年赤ちゃんが生まれた。そしたら、うちの両親が私に言うんですよ。孫の顔を見れたからもう思い残すことはない、あんたは結婚しなくていいから、一生仕事に生きなさいって」


「それもまた極端な……」


「なんか、振り返ってみたら、親の言いなりですね、私。まあ、今のところ結婚願望はないし、せっかく働くならお給料もたくさんもらいたいし、何よりうちの実家の経済力はちょっと頼りないんです。お父さんが数年前から無職で、その上姉の旦那さんも今ちょっと鬱っぽくて休職してるんです。だから、私が大黒柱になって実家を支えるのもわるくないかなと思ってます」


「親孝行な娘でご両親は幸せだ」


「いえいえ、これは、姪っこにアピールしてるんですよ。何でも買ってあげるから、将来おばちゃんの面倒見てねーって」


「っふ。零歳児に恩売ってどうする」


 あ、もしかしてまた笑った?


 残念、見逃してしまった。


 笑顔を見たかった。


「楠本は、結婚しないと決めてるのか」


「いえ、べつにそういうわけじゃないですけど、婚期が遅れるのは間違いないでしょうね。今は、仕事を覚えるだけで毎日いっぱいいっぱいですし」


「女性は大変だよな」


 突然、恭一はしみじみと言う。


「結婚すれば否応なく名前が変わって、子どもができれば仕事も辞めざるを得ない」


「産休育休が十分に取れれば問題ないんでしょうけどね」


「一般企業では難しいだろうな。うちの会社なんか、まず期待できない」


「まあ、彼氏もいない私には、縁遠い話です」


「彼氏いないのか」


「残念ながら」


「理系は男だらけだから、学生時代は相当もてただろう?」


「いえいえ、そんなことはないですよ」


 たしかに、興味本位で告白されることは多かったが、それは身近な女性が他にいないだけで、自分自身に魅力があったわけじゃない。


 この流れなら自然に聞けるかもしれない。


 ずっと気になっていた疑問。


「そういう蓮ノ葉さんは、恋人はいらっしゃるんですか」


 できるだけ軽い口調で、さらりと。


「ああ、遠距離で、もう長いことあっていないが、一応いるよ」


「へえ………………どんな人なんですか、彼女さん。今度写メ見せてくださいね」


「やだよ」


 そっか、そりゃあいるよね。彼女くらい。


 優しくて、かっこいい人だもの。





 それから午前、午後と業務に従事し、先方との打ち合わせはつつがなく終わり、普段よりも一時間以上早い時刻に業務を終えた。 


 駐車場の出口を右折し、車は国道の通勤ラッシュに滑り込む。


 外はすっかり暗くなり、フロントガラスには降り出した小雨の粒が光っている。


「楠本。寮生活には慣れたか」


「いえ、まだ入寮して間もないなので、慣れるのはもう少し先になるかと思います」


「間もないって、引っ越してきてからもうすぐ一か月だろ」


「それが、いろいろとありまして……」


 事情をかいつまんで説明すると、恭一は「はあ? なんだそれは」と納得いかない様子を見せた。


「じゃあ、アパートが燃えて、その後はホテルで三週間暮らしていたのか」


「はい」


「で、これから女子寮の部屋が空くまで三か月間も、物置で暮らすことになったのか」


「そうなんです」


「君はそれで納得してるのか。話がおかしいだろ」


「まあ、確かに替わりのアパートに空きがないって言うのはちょっと変だとは思いますけど、でも三か月くらいならなんとか我慢できないこともないので、平気です」


 恭一は溜息を吐き、「お人よしなんだな、楠本は」と呟いた。

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