第5話 あがり症はつらいよ
引っ越しの日がやってきた。
空には、引越日和の青空がひろがる。
手荷物はスーツケース一つだけ。
ようやく、このシングルルームに別れを告げられると思うとうれしいが、行き先が物置だと思うと悲しい。
なかなか思い通りにはいかないものだな。
市内を循環するバスに乗ることにした。
やがて、駅前から六つほど停留所を過ぎた海沿いの小高い丘の上に、女子寮が現れた。
バス停からてくてく歩いて行って、大きな玄関にたどり着き、出迎えてくれた寮母に挨拶をした。
どうやら、日曜日の午後なので、他に誰もいない様子だ。
寮母に案内されるままに、根城となる物置部屋へと足を踏み入れたが、その瞬間に光の速さで後悔した。
やっぱり物置は物置だ。
人が住むべきじゃない。
一応窓はあるが、残念ながら、日当たりが悪い。
窓を開け放しても染みついた埃臭さは消えない。
さらに悪いことに、壁紙も天井も全体的に黄ばみ、ところどころカビが生えて黒ずんでいる。
カビの模様がハート形の場所があって、そこだけは唯一のプラス。
寮母は若干理香に同情した様子を見せつつも、基本的には我関せずのスタイルで、じゃあよろしくねとドライに告げてさっさとどこかへ行ってしまった。
仕方がない。期間限定だと割り切ろう。文句言ってもどうにもならない。
結局、掃除だけで、貴重な休日が終わってしまった。
そして迎えた週明けは、入梅の初日となった。
午前七時、目覚めは最悪。
ヘドロを口の中に流し込まれるという悪夢で目覚めた。
そんな朝でも、仕事は待ってくれない。
朝食の時間だ。
「はじめまして、技術部の楠本理香です。よろしくお願いします」
相手が女子なら、まるで緊張せずに自己紹介できる。
技術部のみなさんが女装してくれたら、理香のミスはもっと減るかもしれない。
食堂の入り口に立ち、中ですでに食べ始めている女子寮の一堂に挨拶をすると、彼女らはおおむね好意的な態度で、新入りとして理香を迎えてくれた。
そして皆一様に、物置に暮らさざるを得ない理香の境遇に同情してくれた。
そんな中、「こんな田舎でマンスリーマンションに空きがないなんておかしいから、もう一度総務に確認を取った方がいいよ」と、理香にアドバイスしたのは、沢登春海さわのぼりはるみだった。
沢登は、製造の事務に就く二三歳で、見た目と雰囲気に、彼女となら仲良くなれるかもしれないと思わせる何かがあった。
この女の子と仲良くなりたいと願う気持ちは、少し恋に似ている。
理香は、期待に胸を弾ませ寮を出発した。
だが、一歩外へでると、月曜日の朝から鬱陶しい雨が降っている。
実際のところ、よつばマテリアルの女子寮は、男子寮に比べて規模が大幅に小さい。
女子社員自体が少ないのだから当然と言えば当然と言えるが、男子寮はどこかの病院かと思わせる巨大でモダンな鉄筋造りのマンションなのに、女子寮は全室合わせても十部屋にも満たない木造のアパートだ。
こんなに部屋が少ないんじゃ、空きがでないのも頷ける。
すぐに会社へ到着した。
出勤してすぐに朝礼が始まる。
いつも通り、部署内の一同が順に近況報告をする。
これまで理香の順番は飛ばされていたが、
「今日は楠本も近況の報告をしてみなさい」
と、唐突に部長に言われ、理香は涙目になった。
心臓がにわかにバクバクと音を立てる。
例のごとく押し寄せる嵐のような緊張感に翻弄されて、小さな声で、「今はまだ、仕事を覚えるのに精いっぱいです」と、口にした
俯いて顔を赤くする理香を、恭一は爽涼な瞳で見つめていた。
自分がこんなことでは、指導担当の恭一まで悪く思われる。
恭一に、申し訳なかった。
朝礼が終わると、恭一が理香を呼び止めた。
「楠本、会議室に行くぞ」
きっと怒られるんだろう。
覚悟を決め、恭一に後について会議室へ移動した。
窓の外は雨模様で、会議室の中は薄暗い。
理香の気持ちを表しているようだ。
恭一は、一番窓際の長机を理香に勧め、自分は部屋の電気を付けながら言った。
「楠本、さっきはお疲れ様」
瞬時に部屋は明るくなる。
優しい恭一の言葉に、少し驚いた。
「楠本、余計なお世話かもしれないけど、聞かせてほしい。楠本が配属されてきてからずっとそばで見ていて思ったんだが、君はもしかして上がり症なのか」
「はい……私、大勢の男の人に注目されるのが苦手なんです。自意識過剰だとわかっているんですが、どうしてもコントロールできなくて……」
「それには、何かきっかけでもあるのか」
理香は顔を上げる。
斜め前の席に着き、パイプ椅子の背もたれを抱えるようにして、恭一は理香の顔を真正面から見つめている。
その瞳に先ほどまでの冷たい光が無い。
理香はポツリポツリと話し始めた。
「中学までは、そんなことはなかったんです。はじまりはたぶん、高校三年生の時です。男女共学のありふれた公立高校だったけど、三年の文理選択で理系を選んでから、二年生までとは環境ががらっと変わりました。男子校に転入したみたいになったんです。その年は、どういうわけか、理系と文系が見事に男子と女子に別れてしまって、理系を選ぶ女子が私以外誰もいなかった。創立以来初めてのことでした。四十人のクラスに女子が私一人だけでした」
「それはつらいな。俺も、女子四十人のクラスに一人放り出されたらと思うとぞっとする……」
「休み時間は、文系クラスの友達のところに逃げてました。仲良くしゃべれる男子が見つからなかったから。その頃、授業で先生にさされて答える時、男子が私を冷やかすようなことを言うようになったんです。間違えると、それを笑って指摘したり、馬鹿にするみたいにかわいいって言ったり。あとは、制服のシャツから下着が透けて見えるとか、足がえろいとか、男子ってそう言うことばっかり考えてるのかと思うと嫌でたまらなくて……それ以来、男性の集団から注目されると嫌な記憶がよみがえって、挙動不審になっちゃうんです」
「つらかったな。高校生男子なんて、えろいこと以外何も考えてない猿みたいな生き物だと思って、忘れろ。って言っても、それができないから、こうして悩んでいるんだよな。すこしずつ、治していこう」
「はい、これでも大学時代に比べたら、今はだいぶ良くなったんです」
「そうか、それならよかった」
そう言って、理香の目の前に、恭一はA4サイズの紙片を置いた。
「余計なお世話かとも思ったが、読んでくれると嬉しい。もちろん、気に入らなければ破棄してくれ」
「蓮ノ葉さん、これは何ですか?」
「読めばわかる。その前に少し、朝礼での報告の仕方を一緒に考えてみよう。ここ数日の作業指示書を取りに行ってくるから、楠本はそれを読んで待っていてくれ」
「はい」
恭一は出ていった。
一人になり、紙片を手に取る。
表紙には、『あがり症克服マニュアル』とある。
細かな文字がびっしりと打ち込まれた、A4サイズの紙片が十五枚にも上る。
そこには、人が緊張をして失敗する時に陥る心理状況に対する分析と、その具体的克服方法が端的にまとめられていた。
恭一が作ったものらしい。
読み終えると、ありがたくて、紙片を胸に抱きしめた。
ずっと思っていたこと。
いつも冷たい目をして理香を見つめる恭一は、自分を軽蔑しているに違いない。
理香の指導担当という役目は、申し付けられて仕方がなくこなしているだけだ。
自分は、恭一の負担でしかない。
それでも、口先だけの慰めよりもはるかに重く温かく理香を励ます、はじめて恭一が理香に対して向けてくれた親切。
とても嬉しかった。
「大事にします」
呟いた時、ドアが開き、恭一が資料を抱えて戻ってきた。
「ありがとうございます。ずっと悩んでいたことだから、気付いてもらえて本当にうれしいです。私、がんばりますね」
理香が満面の笑みを見せると、恭一はそっぽを向いた。
「そんながんばらなくてもいいんだよ。そのままで」
と、ぶっきらぼうに呟く。
恭一の耳が少し赤くなっている。
理香は思わず笑った。
しばらく二人で打ち合わせをして、今後の朝礼では慌てなくて済むような報告の仕方をまとめた。
「備えあれば憂いなし、ですね」
「ああ、それでもやっぱり緊張してどうしようもないときは、俺の方を見るといい。渾身の変顔を披露して、楠本を和ませてやるよ。笑えば体の余計な力が抜けるから」
「それ、今すぐ見てみたいです」
「するかよ。ほら、戻るぞ」
そう言った恭一はいつも通り気難しい表情を浮かべているのに、もう怖いとは感じなかった。
「楠本、初めて笑ったな」
言われて初めて気が付いた。
今まで、恭一の前で一度も笑ったことが無かった。
心を閉ざしていたのは、案外自分の方だったのかもしれない。
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