第4話 物置はつらいよ
おなかはぱんぱん。愚痴ってすっきり。晴れやかな気持ちで事務所に戻る。
すると、デスクでコンビニおにぎりをぱくぱくしていた恭一は、揃って戻った理香と霧谷に、不服そうな顔を見せた。
「あれ、おまえら、一緒に昼飯か。仲がいいのは悪いことじゃないけど、霧谷の女性関係に楠本を巻き込むのだけはやめろよ。彼女は貴重な新入社員なんだからな」
またその話。
こころもち、いらっときた。
「心配しなくても、私、社内恋愛をする気はありません!」
それは、ずいぶんと冷たく響いた。
恭一は、一瞬瞠目したが、すぐに表情を消す。
「そうか。悪かった。悪いついでにもう一つ、午前中からの打ち合わせが長引いたせいで、少し遅くなりそうなんだ。楠本、先に工場へ移動していてくれるか」
午後から、理香は恭一と一緒に現場に出向く予定だった。
「はい、わかりました。それで、私は蓮ノ葉さんが来るまでの間に、現場で何をすればいいのでしょうか」
「ああ、俺が行くまで適当に」
「適当に?」
「うん、まずは現場の雰囲気を知るために、おっさんたちと世間話でもしてみるといい」
「おっさんと会話ですか。私には難易度が高いです」
「まあ、職人気質のとっつきにくい人もいるけど、基本的には気さくでおもしろい人ばかりだよ。楠本もいつかは一人で現場に支持を出すようになるだろう。だから、今のうちに慣れておくといい」
恭一の言葉に、霧谷が頷く。
「そうそう、初めはどうしても生意気に思われてしまうから、現場の人に嫌われちゃって鬱になって休職してる同期もけっこういるんだ。だから、業務上のかかわりが深くなる前に、仲良くなることが大切だよ」
「そう。霧谷の言う通り。そういうわけだから、信頼関係を作っておいて損はない。わかったか」
よくわかった。現場で恭一がことさら柔らかい態度を取る理由が。
「はい、わかりました」
そういうわけで、理香はひとりで工場に向かった。
たどり着いた広い工場内には、リノリウムの床に、炉、るつぼ、ワイヤーソー、検査機など、大きくて厳つい装置が配置されている。
巨大ロボットアニメのみたいに、いきなり足が生えて、動き出したらおもしろいと妄想し始めて、五分ほど経過した。
恭一から聞いた話と違い、誰も話しかけてこない。
そうかと言って、理香の方から気安く話しかけることもできない。
仕方がないので工場を歩き回り、装置の配置を覚えることにした。
その時のこと。
ふと、浮遊微粒子を管理するクリーンルームから出てきた一人の男性に目が止まる。
どことなく、違和感があったせいだった。
理香の視線は釘付けになる。
「待たせたな。楠本、俺のいない間、何か変わったことはなかったか」
そのうちに恭一が現れた。
「はい。とくにありません。蓮ノ葉さん、あの人、どこか変じゃないですか」
「変って、なにが」
「違和感です。例えるなら、秋田県の中に柴犬が一匹紛れ込んでいるような」
「それ、限りなく微小な違いだな」
理香に言われ、恭一は目を眇める。
上下のまぶたをほとんどくっつけ、目が糸状になるまで細める。
その目付きといったら、悪質、腹黒、無慈悲。
とにかくこわい。
凶悪面でその人を睨んでいた恭一が、不意に声を上げた。
「ああ、あれ、うちのクリーン服じゃない。色味が微妙に違うし、マスクがついてる。どこか別の会社のものだ」
「ええ? それじゃあ、あの人はライバル会社のスパイ!?」
「いや、あれはたしかにうちの笹井さんだ」
「なんで別の会社のクリーン服着てるんですか」
「なんでだろうな」
恭一は、笹井の元へと駆けていく。理香もその後に続いた。
「笹井さん、そのクリーン服、どうしたんですか。うちのじゃないですよね」
「そうなの? じゃあどこの?」
「そんなのこっちが知りたいですよ」
突然恭一は、晴れやかに破顔した。
先ほどまでの悪人面と打って変わって、快活で艶やかで陽気で、つられてこちらまで楽しくなる朗らかな笑顔だ。
ギャップがすさまじい。
恭一は、笑いすぎて目じりに浮かんだ涙を拭いて、子どもをあやすような口ぶりで言う。
「笹井さん、それ、自分ちで洗ってます?」
「いや、クリーニングに出した」
「それじゃ、そこで取り違えられたんですね。すぐに替えてもらった方がいいですよ」
「俺は別にこれでいいよ」
「笹井さんがよくても、会社的にダメなんです。その服の持ち主も困ってますから、お店で替えてもらってください」
笹井は首を縦に振らない。
「わかりました。じゃあ、今日の夜、俺がかわりに行ってきますよ。どこの店ですか」
「駅前だよ駅前」
「じゃあ、後でそのクリーン服、脱いで俺に渡してください」
「なんで?」
「だーかーらー」
一から説明を始める恭一。
笹井さんは結構な変わり者とみた。
理香は、クリーンルームへ戻っていく笹井の背を横目に、疑問を口にした。
「蓮ノ葉さん、余計なお世話かも知れませんが、同じ会社の仲間とは言え、相手はいい大人なのに、そこまでしてあげる必要はあるのでしょうか」
「うん、必要はないけど、いいんじゃないの。おもしろいからほっとけないんだ」
恭一は穏やかな声音で言う。
思い返せば、最初に埠頭で会った日も、理香を助けてくれたくらいだから、根はきっと、人懐こくて優しいのだろう。
「蓮ノ葉さん。一つお願いがあります」
「なんだ」
「やっぱり釣りを教えてくれませんか」
「ああ、その話ね。やめとこう」
「大丈夫ですよ。私、絶対に蓮ノ葉さんなんか好きになりませんから」
「そう断言されるとなんか腹立つな」
恭一は腕組みをする。
「別に、惚れられたら困るなんて、本気で思ってるわけじゃないよ、あ。田島さーん」
恭一は製造部長を見つけて、走って行った。
入社以来、初めて恭一と仕事以外の話をこんなに長くした。
⋆
退勤後に、更衣室で私服に着替え廊下へ出ようとドアを開けると誰かにぶつかった。
廊下には、三十代半ば、きれいな巻き髪にフルメイク、気合満天のぽっちゃり女子。
彼女は「あら、あなた、火事にあった楠本理香さんじゃない?」と、澄んだ声には聞き覚えがある。
「もしかして、この間電話に出てくれた、総務の福田さんですか?」
「そうよぉ。よくわかったわね」
「はい、すごくきれいな声なので」
「まーあ! 可愛いこと言ってくれるわね。今度一緒にランチでもしましょう」
福田は、ふっくらとした頬を緩ませた。
ジェルネイルで美しく飾った手で、理香をばしっと叩く。
その勢いで理香の身体は後ろに吹っ飛び、廊下を歩く誰かにぶつかった。
「あ、理香ちゃん、どうしたの」
「お、楠本、なにやってんだよ」
技術部のイケメンツートップ恭一と霧谷だ。
恭一が、理香の腰に手を回して支えてくれた。
「すっ、すみません」
「気を付けて」
「ふふふ、蓮ノ葉、こんなところを万が一でも田島部長に見られたらぶっ飛ばされるよ」
「それは困る。じゃあな、楠本」
「理香ちゃん、また明日」
「お、お疲れさまでした……」
一部始終を見ていた福田は、「あなたいいご身分ねえ」と、笑ったが、瞳孔が開いている。
「そうそう、寮の空き部屋のことなんだけど、折り返しの電話が遅くなってごめんなさいね。まだホテルでくらしているのよね?」
はい。いい加減疲れがたまっています。外食ばかりで胃もたれしてます。
「遅くなった上に悪い知らせで申し訳ないんだけど、今のところ女子寮に空きがないのよ。ただ、三か月後に総務から一人、寿退社の予定があるの。だから、それまでの間にマンスリーマンションを手配してあげたいんだけど、どういうわけかちょうどいい空き部屋が見つからないのよ」
「寮に入れるなら、お願いしたいです。でも、部屋が空くまでの三か月、ずっとホテルにいるわけにもいきませんよね」
「そうなのよ。それじゃ経費がかかりすぎるでしょ? だからね、悪いんだけど、女子寮の端の物置が空いているので、三か月ほどそこに暮らしてくれないかしら」
え? 空耳かな?
「も、物置ですか」
「そうよ。物置部屋よ」
「そ、それは、人が住める広さなんですか」
「ええ、六畳ほどで窓もある。ベッドはないけれど、布団を敷くスペースがあればじゅうぶんだわ。そう思うでしょう?」
そんなふうに満面の笑み断定されては、否定しづらい。
少し、いやかなりの抵抗はあった。だが、三か月ならなんとかならないこともない、か? いや、やっぱり苦しい?
「三か月なんてあっという間よ。我慢しなさいな」
結局、相手が上手だった。
強引に押し切られ、頷いてしまった。
本当にこれで良かったのだろうか。
せめて快適に暮らせるように、掃除はしっかりやろう。
ホテルへ戻り、駐車場に原付を停車する。
ふと目についたのは、クリーニング店の桃色看板だ。
駅前のクリーニング店。もしや、ここが例の……? そう思ってしばし眺めていると、見おぼえのある背の高い男性が店の中へ入っていき、例のクリーン服をもって出てきた。
やっぱり蓮ノ葉さんだ。本当に笹井さんのかわりにクリーン服を交換しに来たのだ。
本当に、親切な人なんだ。
尊敬と、少しの淋しさを覚えた。
たぶん、笹井さんのように、自分にも優しくしてほしいと、心の奥で思っているから。
その夜理香は、恭一と白熊とペンギンが仲良く温泉に浸かるのを、のぞき見する夢を見た。
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