第3話 小言はつらいよ

 嫌味のデパート課長補佐の安井に目をつけられ、毎日お小言をくらっている。


 デパートの品ぞろえは豊富で、なかなか尽きることがない。


 だがしかし、理香は、見つけた。安井の小言をノーダメージでやり過ごす極意を。




 例によって、その日の昼前にも、理香は嫌味のデパートに、ついうっかり入店してしまった。


「楠本。ベータおひょいにしてくれよ」


 だって、たしかにそう聞こえた。


「え? すみません、もう一度お願いします」


「データを表にしてくれって言ったんだよ。なんで一度で聞き取れないのよ」


 それをきっかけにもう十分以上お説教が続いている。


 その間、前方を直視したまま微動だにしない理香。


 その異様さを見かねた霧谷が、助け舟を出した。


 ちなみに恭一は、取引先との打ち合わせ不在だ。


「なあ、楠本。何時までも学生気分でいてもらっちゃあ困りますよ。まったく。ろくに仕事もできないんだから、せめて人の話くらいは一度で聞き取りましょうよ。ほんっと、さっきから何度も同じこと言わせやがって」


「すみません」


 水のみ人形のように頭を下げる。心はまるで伴わない。


「ねえ、安井さん。一度や二度、話を聞き返したくらいでそんなに怒ったら、理香ちゃんがかわいそうですよ」


「うるさい霧谷。初日からずっと、こいつはわしの言うことを一度で聞き取ったことが無いんだよ」


「それは安井さんの滑舌が悪いからでしょうよ。それに女の子には、もっと優しく接するべきです。そうでないとモテませんよ」


「どうせわしはもてねーよ。だけどおまえはやりすぎだ。この前も製造の女性社員に手を出したってな。女の尻ばかり追いかけてないで、少しはわしを見習って堅実に生きてみたらどうなんだ、え?」


「お言葉ですが安井さん、尻をおいかけてるんじゃない、僕は、どっちかっていうと胸フェチです」


「聞いてねーんだよ」


 うちの会社は社内恋愛禁止だと蓮ノ葉さんが言っていた覚えがある。


 霧谷に何らかのペナルティはないのだろうか。


 昼休みのチャイムが鳴る。





「理香ちゃん、一緒に食堂行こうよ」


「はい」


 理香はきつねうどん、霧谷はかつ丼を選んだ。


 混み合う正午の食堂で、二人向かい合って座る。


「いやあ、理香ちゃんもほんと災難だね。安井さんは悪い人じゃないんだけど、人が悪いんだよね」


「霧谷さん、それ、フォローになってない気がします」


「ああいうタイプを黙らせるには、強気で言い返すといいよ。うっせぇよはげ、ってね」


「大丈夫。私には、ストレスを軽減する秘策があるんです」


「へえ、聞きたいな、教えて」


「まず、言っていることはほとんどすべて聞き流します。頭の中で千の風になってを歌いながら、安井さんの頭部をじっと見つめるんです。ほら、安井さんは頭皮が八割がた露出しているでしょ?」


「うん、はげてるね」


「そう、はげている。腹が立ってきたら、残り少ないひ弱な毛たちを、一本一本ぷちぷちと抜く様子を、リアルに、できる限りリアルに、感触や音やその時の安井さんのリアクションまで想像します」


「うえっ」


「そしてあとは、肌色の頭頂部に残る産毛が空調にふわふわと揺れるのをひたすら眺めるだけです。だんだん楽しい気持ちになってくるんですよ」


「全く理解できないけれど、原理としては一種のトランス状態みたいなものかな」


「そうです。一度そのゾーンに突入すると、どんな小言もそよ風です。走っても走っても疲れない、むしろ気持ちいいという、ランナーズハイと似たようなものです」


「そうなの?」


「はい、たぶん」


 霧谷は「んー、微妙……」と、反応が薄い。


「でも、理香ちゃんっておもしろいねえ」と理香の頭をぐりぐりと撫でた。


「やめてください」


 食堂は広い。


 見晴らしも良い。


 誰に見られているかわからない。


 にこやかに、あくまでにこやかに霧谷の手を払った。


 だって、霧谷が今手をつけているという品質管理部の女性に見られたりして、いらない恨みを買うのは絶対に嫌だ。


 平穏無事な社会人生活を送りたい。


「理香ちゃん、きょろきょろしてどうしたの?」


「いえ、女性社員って本当に少ないんですね」


「そうだね。でも、総務や事務関係の部署には何人かいるよ。あと製造にもね。きっと、彼女たちは手作りの弁当をデスクで食べているんじゃないかな」


「さすが、霧谷さんは女性のことに詳しいんですね」


「いやあ、それほどでもないよ」 


「あの、つかぬことをお伺いしますけど」


「なんだい?」


「うちの会社は社内恋愛禁止なんですよね。それなのに、霧谷さんは噂では女の子といろいろ騒ぎを起こしているらしいですけど、大丈夫なんですか」


「大丈夫って、なにが?」


「ほら、教師の場合なんかだと、恋愛をしているのがばれたらどちらかが移動させられたりするっていうじゃないですか」


「はははっ、そんな罰則ないない。そもそもうち、社内恋愛禁止じゃないよ。誰がそんなことを君に教えたのかな?」


「蓮ノ葉さんがそう言ってました。うちの会社は恋愛禁止だから、私に釣りを教えられないそうです」


「よくわらないけど、恭一の言うそれは、理香ちゃん限定だよ」


「私限定? それ何の嫌がらせですか」


「それはね、君に長く仕事を続けてほしいという上からの親心らしいよ。恋愛のもつれで仕事を辞められたら困るから、ぜったいに理香ちゃんに手を出すなと、随分前から部内にお達しがあったんだ。特に直属の指導担当として理香ちゃんと接する機会の多い蓮ノ葉は、手を出したらただじゃおかないと強く言われているらしいよ。かく言う僕もね」


「そうなんですか。気持ちはありがたいですけど、そこで恋愛禁止というのは、少し発想が斜め上過ぎやしません? そんなことよりもまず安井さんの当たりの強さをなんとかしてほしいんですが」


「それはね、たぶん、社内恋愛のもつれで辞めていく女子社員の多さが、ここところ特に問題になっていて、そのせいだろうね」


「なんだか他人事みたいに言いますけど、それって、もしかして、霧谷さんのせいじゃないですか?」


「よくわかったね。えらいえらい」


 褒められてもうれしくない。


「そう言う理香ちゃんは、もしかして社内でのラブアフェアに期待していたのかい? 大丈夫。僕ならオールウェイズウェルカムだよ。僕と秘密の恋、しようか」


「冗談でもやめてください」


 この人と一緒にいると、どうも調子狂うな。 


「ところで、蓮ノ葉とはどう。うまくやってる?」


「はい、忙しい中でも丁寧に教えてくれるし、私がくだらないミスをしても怒らないし、いろいろと感謝してます」


 感謝はしてますけど。


「それにしては浮かない顔だね。悩みがあるなら話してごらん」


 霧谷が懲りずに手を伸ばすのを、すかさず避ける。


 この軽さの半分でいいから、蓮ノ葉さんにわけてあげてくれないかな。


 理香は琥珀色の麵つゆに物憂げな視線を落とした。




 ここのところ指導担当の恭一とは、ろくに会話ができていない。それが理香の悩みだった。


 恭一の態度には丁寧さはあったが、親切さが無い。


 理香が少しでも個人的な話をすると、「興味がない」「関係ない」と、一掃されてしう。


 別に、就業中に自分の身の上話をしているわけでもなければ、恭一のプライベートを質問しているわけでもない。


 それなのに、休み時間に食べたお菓子の話や、恭一のカバンについたキーホルダーのことなど、他愛のない話でも、恭一は理香とだけはしてくれない。


「蓮ノ葉さんは、私に呆れているんでしょうね」


「そんなことないよ。あいつ、理香ちゃんのこと頑張ってると言ってたよ」


「でも、会話がろくに成立しないし、冷淡というか、低温というか、南極大陸というか、とにかく御寒い視線でいつも私を睨むんです」


「蓮ノ葉の目つきが悪いのは今に始まった事じゃないけど、会話が成立しないって言うのはこまるね。でも、具体的に、呆れられるようなことを何かした心当たりはあるのかな」


「それは、数えきれないくらいありますよ。まず、初日から転んで鼻血を出してる時点で、良く思われるはずがないです」


「もう忘れなよ。転んだことは仕方がないし、僕はかわいいと思ったよ」


「かわいく思われたいんじゃなくて、評価されたいんです。役に立ちたい。せめて、お荷物にはなりたくない」


「あのね、あいつの無愛想は今に始まった事じゃない。俺たちが新入社員の時から、あいつは今と全く変わらなかった。ものすごくふてぶてしい新入社員だって、当時は噂になるくらいだったんだから」


「そうなんですか。でも、蓮ノ葉さん、現場の製造の人にはすごく優しいですよね」


 私には冷たいのに。


「それは、円滑に仕事を進めるために必要なことだからね」


 せめて愛想笑いでもいいからみせてくれたらと思うのは、わがままだろうか。


「つらいなら、僕から何か言っておこうか?」


「いえ、私が自分で話してみます。いつか、蓮ノ葉さんの機嫌がよさそうな時に」 


 そのいつかは、意外とすぐにやってくる。


「がんばれ。それにしても、ふふふ」


 霧谷が笑う。


「どうしたんですか、霧谷さん」


「いや、理香ちゃんは、蓮ノ葉が大好きなんだなと思って」


「なんでそうなるんですか」


「だって、安井さんの小言はぜんぜん応えてないみたいなのに、蓮ノ葉に冷たくされるのはつらいんだろう」


 そう言って、霧谷は避ける間もない素早い動きで、理香の髪をぐしゃぐしゃと掻きまわした。


「違いますよ。好きとかそういうんじゃないです。触るのはやめてください」


「ああ、ごめんね」


「彼女さんが怒りますよ」


 理香はトレイを抱えて立ち上がる。


 すると、思いがけず、自分たちのやり取りが周囲の視線を集めていることに気が付いた。


「私、先に戻りますね」


「ああ、待ってよ。僕も一緒に行く」


 二人並んで廊下を歩きながら、思う。


 恭一を好きになるなんて、絶対にない。 


 初日にいきなり、拒絶されているのだから。


 ただ、認めてほしいだけだ。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る