第2話 初日はつらいよ
そして、ホテルで暮らすことしばし。とうとう配属日がやって来た。
午前七時、愛車の原付で工場へたどり着いたものの、気が重い。二トントラックよりも重い。
よつばマテリアルグループは、その総従業員に約一万人を有するメーカーだ。
中でも、幸海工場は最大規模の広さを誇り、二千人弱の従業員が二十四時間働いている。
建屋は、近隣のショッピングモールよりもよほど広い。
工場では、運動会も余裕で出来る。
まずはタイムカードを押し、更衣室で真新しい作業着に着替える。
淡いブルーの上衣と、濃いブルーのスラックスだ。だぼだぼで、ユニセックスな効率的に優れた制服。ただ、見た目はまったく美しくない。
そう言えば、同期で唯一理香と同じエンジニアとして採用された女子社員の早苗は、研修の間、作業着がださすぎてうんざりすると毎日ぼやいていたな。
けれど理香は、大学時代にも工場でアルバイトをしたことがあり、その時の制服にくらべればむしろおしゃれに思えるくらいで、上衣のすこし緑がかった淡いブルーが気に入ってさえいる。
一つ気がかりは、社内にいったいどれほどの女子社員がいるのか。早苗は北海道の工場へ配属された。
心細い。蜘蛛の糸より細い。
せめて年の近くて話のしやすい女性が見つかりますように。
男性社会から逃れられないのは、理系女子の宿命だ。
過去を遡れば大学時代も、周囲に女子が極端に少なく、寂しい思いをした。
それでもなんとか耐えてきたのだ。拳を握り、更衣室を出た。
とにかく、落ち着いてリラックス。
しようと思えば思うほど、逆に身体がガッチガチに硬くなる人体の不思議。
いつもの癖がでないよう祈り、深呼吸を繰り返す。
そうしているうちに、日当たりのよい四階の東側、配属先の技術部にたどり着いた。
扉の前に立ち、心の中で用意した挨拶を復唱する。
はじめまして、この度技術部に配属されます楠本理香と申します。至らないところもあるかと思いますが、早く一人前になれるよう努力しますので、これからどうぞよろしくお願いいたします。
よし、完璧。さあ行こう。ノブに手をかけたその時、
「おい、いつまでそこに突っ立っているつもりだ。ブツブツ独り言を言って、気味の悪い奴だな。どいてくれよ」と、背後から、枯れた声が響いた。
「あ、す、すみませんっ」
声に出てましたか。
頭頂の薄い六十歳ほどの男が通りすぎる。
振り向きもせず事務所へ入っていき、理香は一人取り残された。
これは、もしや、歓迎されていない雰囲気……?
いや、違う。
そんなはずはない。
鼓動が不快に早まっていく。
心が言うことを聞かない人体の不思議。
やばい、緊張してきた。
胸を押さえ、顔色を悪くする理香の背後から、また新たな人物が現れた。
「おはよう。そんなところで立ちどまって、一体どうしたんだい。緊張しているのかい」
こわごわ顔を上げると、二十代半ば過ぎほどの男が朝日を背にさわやかに笑っている。
この人、すごく輝いている。
「はじめまして、新入社員の理香ちゃんだよね。僕は、入社六年目の霧谷きりや渉わたる。おっさんばかりの部署で何かと大変だろうけど、悩み事があれば相談にも乗るし、できる限りサポートするよ。だから、そんなに不安そうな顔をしないでいいんだよ。リラックス、リラーックスね。女の子は笑顔が一番素敵なんだから」
霧谷は、社会人としてはやや長めの茶髪を掻き上げた。
「そう言ってもらえると心強いです。ありがとうごさいます、霧谷さん」
「ノンノン。僕のことは渉と呼んでくれよ、な? 理香ちゃん」
少し垂れた目が艶やかで、優しそうなのにな。
王冠と白タイツとちょうちんブルマーが似合いそうな、胸がときめかない王子様。
また新たな人物が出現する。
「おい、霧谷。いくら技術部初の女子社員だからって、初日からがっついてナンパするのはやめろ。春先に派遣の事務員がおまえを取り合って二人とも辞めていったばかりだろう。あの後俺がおまえのしりぬぐいでどれほど苦労したか知らないとは言わせないからな。おまえはこの先五十年、社内恋愛禁止だ。女なら趣味の合コンで探せよ」
どこかへそを曲げたような声音には聞き覚えがある。
まさかね……でもこの寝起きのお父さんみたいにもごもごとして機嫌悪そうな特徴的話し方はもしや。
振り向くと、そこにいたのはやっぱり、埠頭で鯛をくれた、社内恋愛にこだわりのある男だった。
あの日は前髪をおろした無造作ヘア(というか寝癖ヘア)だったが、今朝は前髪をあげてきちんとワックスで整えている。だいぶ雰囲気は違うが、間違いない。
「蓮ノ葉はすのは、合コンを馬鹿にするなよ。いいかい、合コンは遊びじゃない、趣味でもないんだ。じゃあ何かと君は俺に問うだろう。答えはこうだ。合コンは、俺のライフワークなんだ!」
「へえ、薄っぺらだな、おまえの人生は」
いきなり喧嘩を始めないでほしい。
こっちは配属初日の新入社員なんだから、あんまりハラハラさせないでよ。
二人に挟まれおろおろする理香に、蓮ノ葉は威圧感たっぷりの視線を向ける。そして、「また会ったな」と、邪悪に笑った。正直怖い。
「そ……その説は、ご迷惑をおかけしました。立派な鯛をごちそうさまでした。おいしかったです」
実は、あの鯛。ホテルの料理長に無料でさばいてもらった。
借りたアパートが燃えて調理ができないと話すと、同情してくれたのだ。いい人だったなあ。鯛のお造りは、忘れられない美味だった。今度は自分で釣りたい。
「あれえ? 二人は既にどこかで会っているのかい。気になるなあ、どこで会ったんだい」
霧谷が興味津々に言い、蓮ノ葉が面倒くさそうにあしらう。
そうするうちに、始業時刻の五分前を告げるチャイムが鳴った。
「さあ、行こうか」
いよいよだ。
とうとう事務所へ足を踏み入れる時が来た。胸の高鳴りが止まらない。
理香の緊張が頂点に達し、一番恐れていた事態が訪れようとしていた。
なんということでしょう。何もないはずの平面で何かに足を取られ、バランスを崩してしまった。
そのまま部両手を投げ出し、びたーん、と、濡れた音を立てて転んだ理香に、部内は静まり返った。
慌てて立ち上がるが、用意した自己紹介を忘れた。
三十余名の諸先輩方を目の前に、
「は、初めまして、楠本理香と申します。こんな私ですが、どうか見捨てないでください!」
と、勢い良く叫んだ。
そして、ずきずきと痛む理香の鼻からは、鼻血が一筋零れ落ちる。
もう最悪だ。穴があったら入りたい。穴が無くても掘り起こしたい。誰か、つるはしをください。
技術部一同は戸惑うばかりだ。
静寂が肌を突き刺す。
恥ずかしい。
俯く理香に白いハンカチを差し出したのは、蓮ノ葉だった。
「ありがとうございます」
ハンカチが血に汚れることを謝罪するのも忘れ、すぐに鼻を拭った。
その間、蓮ノ葉は、唇の端をヒクヒクと震わせ、懸命に笑いをこらえている。
いっそ大声で笑ってください。
「俺は、蓮ノ葉はすのは恭一きょういちです。これからしばらくの間、俺が君の指導役を任されてるので、何かわからないことがあれば俺に訊いてください。よろしく」
そう言って、恭一は自席へと着く。それから、彼の隣のデスクへ理香を手招きした。
「大丈夫か。現場では転ばないように気を付けてくれよ。私が、部長の室戸むろと善次ぜんじだ。男ばかりの部署でやりづらいこともあるだろうが、困ったことがあれば何でも相談してくれ。君には期待しているよ。ぜひとも、末永くよろしく頼むよ、楠本」
室戸課長は五十歳くらいで、見るからに敏腕そうだ。頼れる男という感じ。
「よろしくお願いいたします」
次に、優しそうな男が立ち上がる。
「僕は橋口はしぐち雄大ゆうだい。課長やってます。よろしくね。後で医務室に行くといいよ。医務室は一階の西に端にあるからね」
「ありがとうございます」
いい人だ。
続いて、その隣席の偉そうな男が立ち上がる。
「まあ、せいぜい足を引っ張らないようにしてくれよ。わしは課長補佐の安井やすい順じゅんだ」
それは、先ほど入り口で理香を邪魔にした男だった。
あんまりかかわらないようにしよう。
その後も、自己紹介は続いた。
ひょうきんな須藤。
おどおどしている古田。
名前しか言わない引地。
神経質そうな奥井。
貴重な普通の人佐藤。
いきなり下ネタ日野。
他にも、部署にはまだまだ多くの社員がいたが、覚えきれない。
両手にはメモとボールペンを持っているが、名前をメモするのも失礼な気がしてやめた。
そのままの流れで、朝礼が始まる。
朝礼は、各自が仕事の進捗状況を報告をする場らしい。
ほうほう、ふうん、用語がわからない。
なんとなくで聞き流していたら、不意打ちで質問を求められて一気にわき汗があふれる。
「以上だが、楠本、ここまでで何かわからない所はあるか」
みなの視線が突き刺さる。
注目されると頭が真っ白に。
過去のトラウマで、男性ばかりの集団が苦手だ。
「とくに、ありません」と答えるのがやっとだった。
課長補佐の安井が、ふんっと鼻を鳴らした。
「それでは、各自の業務に移ってくれ」
室戸課長の言葉で、朝礼は解散の運び。
理香は一人考え込む。
質問、した方がよかったのかな。でも、自分で調べればわかることを、貴重なみんなの時間を割いてまで尋ねるのは申し訳なかった。
理香なりの気遣いだった。
でもそれを、鼻で笑われたらさすがにへこむ。
恭一は、意に介さない様子だ。
「楠本、今日は、俺の隣で見ているだけでいいから」
そうは言われたものの、四六時中ずっと見ているだけでは申し訳ない。
それならば皆の分のコーヒーを淹れようと、淹れ方を恭一に質問したところ、「そういうことはしなくていい」と窘められた。
やる気が空回り。回し車の中で暴れるハムスターのごとく、一歩も前に進めない。
結局、初日はただ恭一について、彼の仕事を眺めるだけで終わった。
金魚の糞というやつです。
午後五時過ぎになり、理香は誰もいない更衣室で一人、作業着を脱いだ。
上衣のポケットから恭一のハンカチがはらりと床に落ちる。
理香の鼻血が付着して、赤黒く変色している
否応なく今日の失敗を思い出させるその染みを、早く消してしまいたい。
明日は挽回できるかな。
帰り道でドラッグストアにより、中性洗剤を購入して、部屋に戻ってすぐにハンカチをごしごしと
洗ったが、染みは消えなかった。
明日こそは緊張しないぞ。みんなジャガイモだと思って頑張るぞ。
布団をかぶって叫んだ。
けれど、誓いも虚しく、翌日もまた同じように緊張をした。
あくる日もまたあくる日も同じありさま。
例えば、先輩の名前を間違えたり、書類を提出する部署を間違えたりという細かな失敗でも、塵も積もれば、恭一を失望させるには十分だった。
氷点下の眼差しに終始さらされ、風邪をひきそう。
夢にまで見る。
夢の中で恭一は、白熊の背に乗り、氷の衣装を身に着け、ペンギンたちを従えている。
よちよち歩きのペンギンたちが理香を抱え上げ、バケツリレーで水際まで運び、流氷の漂う極寒の海中へ投げ込むのだった。
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