リケジョはつらいよ

鰐座流星群

第1話 火事はつらいよ

 始まりは、六月の晴れた朝。



 昨日荷物を運びこんだばかりのアパートが、今まさに燃えていた。


 そうとは知らず、理香は釣り糸と釣竿を両手に悪戦苦闘中だ。


 どうにかそれらしく針をぶら下げられたので、後は生餌を突き刺すのみ。


 クーラーボックスの中から生餌を取り出そうと蓋を開けたら、冷やしておいたペットボトルを取り巻くように虫たちがてんやわんやの大騒ぎをしている。


 静かな朝の埠頭に、悲鳴が響き渡る。


 上空で海鳥がキエーイと鳴いたのは、理香の雄たけびを仲間の鳴き声と勘違いしたせいだ。


「やだ、戻って、パッケージの中に戻ってよ、お願い」


 クーラーボックスごと放り出された虫たちは、コンクリートでグネグネ踊る。


 昨夜、釣具屋の店主にすすめられ、現物を見ず生餌を買った。


 理香は、おとぎ話の青い小鳥が食べる小さなミミズを想像した。だが、実物はとても触れそうにない感じのルックスだ。正直グロい虫たちを睨み、固まる。


「大丈夫?」


 振り向くと、実家に暮らす引きこもりの姉婿でもそこまでじゃないというくらい、この世の全てを恨む顔つきの男が、仁王立ちしていた。


 齢は、二十代後半から三十手前ほどか。


 笑えばもっと戦闘力が跳ね上がりそうな整った顔だが、いかんせん表情がいただけない。


 鋭い目つき。不機嫌結ぶ唇。口角だけはあくまで上向き。これが女子憧れのアヒル口というやつか。


 「大丈夫?」と、気遣う言葉と表情の不一致が甚だしい。不安を覚える。そんな理香に構わず、男は虫に接近する。


 そして、素手で虫を鷲掴み、本来あるべきパッケージに戻したうえで、理香へと手渡した。


「お、おありがとうございます」


 動揺した。いらないとは言えず、ひとまず受け取る。本当はもうパッケージすら触りたくないが。


「大丈夫?」


 二度目だ。もしかして、頭が大丈夫かということか。


「はい、私の方は大丈夫です。ご親切にどうもありがとうございます」


 男は、理香の『高級魚爆釣マニュアル』を冷たく一瞥し、「虫が大丈夫かって聞いたんだ」と、地鳴りのように唸った。


「ああ、そうですか。虫が……え、虫ですか?」


 まさかそっちの心配をしているとは。


 釈然としないが、虫の安否を確認する流れのようだ。


 おそるおそる地獄の蓋を開けると、ちょっと落ち着けと言いたくなるほど、虫は元気いっぱいだ。生命を謳歌し、躍動している。


「おかげさまでみんな無事みたいです。血がでたりちぎれたりもしてないですし」


 男は、「それならよかった。魚のえさになれず無駄死にすることになったら、ゴカイがかわいそうだからな」と言った。


 なるほど。この虫の名前はゴカイ。


 戸惑う理香を残して、男はさっさとあっちへ行った。

 きっと、あの人、前世が虫なんだ。だから虫たちの苦しみが身に染みて、苦悶の帆表情を浮かべたに違いない。

 とにかく、怖い顔で睨み倒され、助けてもらったありがたみも薄れた。


 男はさっきから近くで釣りをしていたらしい。


 それで、突然悲鳴を上げて後ろへぶっ倒れた理香に驚き、駆けつけてくれたのだろう。


 長い脚ですったすったと定位置へもどり、早々に釣りを再開した。


 さて、虫を海に還して、もう家に帰ろうかな。


 なんとはなしにもう一度横を見ると、あの男がこちらガンガン見ている、ような気がする。


 これはもしや、安易に生餌に手を出したビギナーを馬鹿にする眼差し?


 なんだか怖いので、、とりあえず続行を決意。


 まずは、軍手を、両手に二枚重ねにして着ける。


 次に、薄眼で視点をぼやけさせつつ、虫を針に装着する。くじけそうになるたびに、元気があればなんでもできる! という素晴らしい名言を思い出し、自分を励ました。


 そして、ついにやり遂げた。猪木よありがとう。


 針の先で虫がうねる。


 よく見たらうええ、となるので、顔を逸らし気味にして、竿をしならせ、海へ投げた。


 これだけがんばったのだから、お願いしますよ。とれたてぴちぴちの高級魚がやってきてくれますように。イカも大歓迎だよ。


 だが、そんな理香の願いも虚しく、竿はぴくりともしない。


 しばらく待って、期待せずにリールをまわすと、案の定、針だけが帰還した。


 まあね、いきなり釣れるはずもないと思っていました。


 もう少しやってみよう。


 ふたたび半眼で虫を装着し、竿を海へ投げるが、釣れない。釣れない。釣れない。


 二時間かけて分かった事。釣りは退屈だ。




 ほわわわーとあくびを一つ。


 見渡す六月の晴れた朝の防波堤は、のどかだ。


 緯度の低いこの町は気温が高い。


 長袖ニットを選んだことを後悔しながら、額の汗をハンカチで拭い、腕まくりをする。


 目の前を、風に乗り海鳥が一羽飛んでいく。


 朝日に光る海に着水し、のんびりと浮かぶ姿はかわいい。


 ふと視線を遠く投じると、水平線の向こうの空は朝焼けの色。


 時間を追うごとに朝焼けが青く侵食されていく。


 理香は就職のため、大学時代に四年暮らした街から八百キロも離れたこの町へ引っ越してきた。


 ここ、幸海こうかい市はよく言えば風光明媚、悪く言えばど田舎で海しかない。


 他にめぼしい娯楽が無いので、こうして釣りをしにやって来たのだが、失敗だった。


 ついに最後の虫が魚に空しく食べられた時、理香はつぶやいた。


「つまんない。もう二度と釣りなんかするもんかい」


 その時、理香の背後で足を止めたのは先ほどの親切な? 虫愛ずるイケメンだった。


 荷物を抱えて、もう帰るのだろう。この人は釣れたのかな。


 目が合ったので、話しかけた。


「釣れました?」


「ああ。見ろ」


 やおら男は腰をかがめ、疲れ切った理香の目の前にクーラーボックスを誇らしげに開いて見せた。


 大小さまざまの魚が氷のベッドで仲良く雑魚寝している。


「おお、すごい! 私、一匹もつれませんでした」


「初心者がおでこなのはめずらしいことじゃない。諦めずにつづければそのうち釣れる」


「おでこ?」


「ボウズのことだ」


 どっちにしても初耳だ。


 男は数多い釣果の中から、三十センチほどのひと際大きな魚を手に取る。


 これは、かの有名な恵比寿様が小脇に抱えるあの神々しい魚ではないでしょうか。


「もっ、もしかして、鯛ですか」


「そうだ。この大きさなら、末端価格で最低でも二千円はする。時価で数倍に跳ね上がることもある」


「憧れの高級魚ですね、おいしそう」


 涎を垂らさんばかりの理香。


 男は、ほんのりと赤いうろこに覆われた美しい鯛を、理香のクーラーボックスに入れた。空っぽだった

ボックスが一気に華やぐ。


 まさか、これをいただけるのでありましょうか。


「だめですよ、そんなすごい魚、もらえませんから」


 言葉と裏腹に、喜びの表情を隠せない。


 本当はほしい。とれたてぴちぴちの鯛を食べてみたい。


「捨てるよりもましだからやるよ。遠慮はいらない。見ての通り、今日は食べきれないほどたくさん釣れて困ってるんだ」


「それならお言葉にあまえていただきます。ありがとうございます」


「新鮮なうちに刺身するといい。裁き方は自分で調べろ。不器用そうな顔だから気を付けろよ」


 ありがたいけど一言多い。顔は関係ない。


 また複雑な気持ちに襲われる理香に、男は背中を向ける。


 「待ってください」と、理香は男を呼び止めた。


「私、また近いうちにここに釣りに来ようと思いますので、もし、もしまた会えたら、その時は私に釣りを教えてくれませんか」


 男は沈黙。


 もしや、逆ナンだと思われた?


 違うんです。釣りの極意を教わって、腕を上げて、食費を浮かせたいだけなんです。 


「あの、ナンパじゃないです。私、三日前にこの町に引っ越してきたばかりで、誰も知り合いがいなくて、単純に友達がほくて声を掛けただけです」


 慌てて告げると、


「いいよ。釣りを教えるくらいなら構わない。ただ、俺はプロじゃないから、その本に書かれている程度の知識くらいしか教えられないが、それでもいいならな。ただ期待はしないでほしい」


 と、意外にも男の答えはイエス。


「はいっ、全然期待してません」


 男の眉がピクリと動く。


「よろしくお願いします、師匠。私、楠本理香くすもとりかと言います」


 理香が自己紹介をしたその途端、男の顔に驚きが浮かぶ。


 そして、たいして珍しくもない理香の名前を意味ありげに復唱した。


「君、よつばマテリアルの新入社員か」


「え? そうですけど」


 もしかして、この人も『よつマテ』の社員の人?


「俺もだ」


「うわ、偶然ですね。よろしくお願いします。いろいろ教えてください」


「いや、やっぱり、釣りを教えるのはやめておく。悪いな」


 男は急に意見を翻した。


「え? なんで? 何か不味いことでも……」


「うちは社内恋愛禁止なんだ」


「は?」


「うっかり休日に二人で楽しく釣りなんかして、周囲に誤解されると困る」


 そんな、「田中君と鈴木さんて付き合ってるんだってー」とか噂になるような、小学生レベルの会社なのだろうか。


 たしか、東証一部上場企業のはずなのに。


「とにかく、そういうわけだから」


 男は帰ってしまった。



 おかしな人に出会ってしまった。


 先いきが激しく不安だ。


 ペダルに苛立ちをぶつけ、シャカリキに漕ぎまくって五時間ぶりに帰ったアパートの前には、消防車が停まっていた。


 人だかりに隠れてアパートの様子がよく見えないが、何か良くないことが起きているっぽい。


「すみません。私、この家の住人なんです、通してくださいっ」


 すぐに野次馬を掻き分け、アパートの前に躍り出て、言葉を無くした。建物は火事で焼けていた。


 どうやら出火元は二階中央の部屋らしい。周囲には、焦げ臭いにおいが漂い、黒く煤けて炭化した柱から内部が露出している。


 幸いにも、理香の部屋は二階の角部屋で、出火元と隣り合ってはいないので、直接の延焼を何とか免れた。 

 それでも、無傷というわけにはいかない。開け放したまま出かけた窓から、消防の放水が家財道具を水浸しにしていた。


 これは運が悪すぎだ。


 鯛と、帰り道の商店街で購入した刺身醤油を抱えたまま、しばし放心。


 十分ほどして、はっと我に返った。 


 所属部署への正式な配属まで、あと一週間もない。それなのに、家が無くては仕事どころではない。やることはたくさんある。


 はじめに、携帯電話で会社の総務へ電話を掛け、事情を説明した。


 福田という、うぐいす嬢のように美しい声の女性が応対した。


『わかりました。災難でしたね。すぐに女子寮の空き部屋を確認して、折り返し電話します。当座の間に合わせで、配属までの四日間は駅前のビジネスホテルに宿泊してください。領収書を提出して下されば、経費で落ちますので』


「助かります、ありがとうございます。よろしくお願いします」


 それから部屋へ戻り家財道具を整理して、必要なものをスーツケースに詰め込むと、福田に支持されたとおり、ビジネスホテルに予約を入れた。


 無事にホテルにチェックインできたのは、十二時過ぎ。疲れ切って、部屋に入ってすぐにベッドに倒れ込んだ。

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