弟橘姫ニ思イヲ馳セ

空牙セロリ

第1話


 穏やかな波に船が揺れている。


 遙か昔し、相模の国よりヤマトタケルノミコトがこの半島へやってきた。この小さな海を見て、彼は「飛び上がってでも渡れよう」とのたまったそうだ。

 しかし、おだやかな海は獣のように彼らへ襲いかかることになる。

 今より簡素な木の船では、ひとたまりもなかったであろう。愛する夫のため、海神の怒りを静めようとオトタチバナヒメはその身を投じたのだ。


 彼女はいったいどんな気持ちだったのだろう。

 ヤマトタケルはどんな気持ちだったのだろう。


 愛する人のために死を選び、愛する人が死にゆく所をただ見ているというのはとても辛かっただろう。

 俺も辛かった。悲しかった。なぜこうなったのかとも思った。自分の無力さを呪うほか無かった。


 俺の妻も、この海へ沈んでいった。


 バカな俺たちは、海に遊びに行って大時化に遭った。穏やかな海は一変し、唸る波は太陽を隠した。弾丸のように打つ波と冷たい雨は、容赦なく俺たちの体力を奪う。必死に船へしがみつこうも、暴れ馬のごとき海にはかないはしない。


 振り落とされる俺の手をつかんだのは、妻だった。

 細い腕に反して力強く引かれた俺の腕はなんとか船の木片にしがみつくことができた。そのかわり、俺の妻はそこで力つきるようにその身を海へゆだねたのだった。


 沈みゆく妻は穏やかな顔で俺を見つめた。一言、ただ一言。妻は「生きて」と。


 俺が手を伸ばすより早く、波は妻を連れ去ってゆく。妻が完全に海へ引きずり込まれて数時間後、嘘のように穏やかな海へと戻った。


 妻はそのまま戻ってこなかった。体の一部さえ見つからなかったが、あの日妻が着ていた服の袖らしきものが地元の海岸に打ち上げられていた。


 運命はなんと残酷なものなだろう。夫のために海へ沈んだオトタチバナヒメの袖も、この袖ヶ浦へ流れ着いたそうだ。俺の妻はオトタチバナヒメになってしまった。



 アクアラインが東京へ延びているのを、妻の袖が流れ着いたこの海岸で眺める。

 ああ、妻よ、俺の妻よ。俺はいつまでもおまえを忘れることは決してないだろう。

 悲しみを抱きながらも、妻が託したこの命、最後まで生きると誓おう。


 海へ託したこの花束が、今も海で眠る妻へ届くことを願って。

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