【11月刊試し読み】皇帝陛下と恋する子猫

角川ルビー文庫

第1話




【1】


 瞼を開けると木々の隙間から鈍色の空が見えた。そこからふわふわと小雪が舞い降りてくる。

 体に雪が積もり半ば埋もれかけていた。

 どうしてこんな場所に倒れているんだろう?

 地面に横たわる体は氷のように冷たい。

 辺りを見回すと、太い幹の木々が見える。ここは鬱蒼とした森のようだ。昼なのか夜なのかわからないほど薄暗い。

 体に積もった雪を振り落とすと白い毛並が姿を現す。

 三角のぴんと立った耳、ふさふさとした白い被毛。そして尻からは長い尻尾が伸びていた。

 この体……何となく馴染みはある。

 けれど、名前は? 

 家族は?

 ……何も思い出せない。

 僕は今までどうやって生きてきたんだろう?

 不安と寒さが入り混じりぶるっと体が震えた。耳の裏がズキッとして、前脚で耳の裏を触る。真っ白い毛が鮮血に染まり子猫は驚いた。

 一体、どこでこんな傷を? 酷い怪我をしたのなら、絶対覚えているはずなのに。

 せめてどこからやってきたのかわかればと左右を見渡したが、雪が足跡を綺麗に覆い隠してて何の手がかりもない。

 うなだれる子猫の足元に雪が降り積もっていく。辺りを歩き回ってみたが、雪をしのげそうな場所はなかった。

 このままでは凍えてしまいそうだ。

 当てもないままのろのろと歩き出す。やがて、木々はまばらになり森を抜け出た。目の前には雪原が広がっていて地平線がぽおっと橙色に輝いているのが見える。 

 何だろう、あれ?

 伸び上がると、橙色の明かりはぽつぽつと増え続け、子猫を誘うように瞬いた。

 とても温かそう。でもあの明かりのある場所まで随分と距離がある。

 無事に辿りつけるか迷っているとヒョーと風が唸り声を上げ始めた。積もった雪が巻き上げられ視界は白く霞んでいく。

 これはもたもたしていられないと子猫は勇気を出して雪原に飛び込んだ。

 どれほど駆けたことだろう。体がすっかりかじかんでしまっていた。

 うなだれて歩いているとふいに、額にこつんと何かがぶつかる。目の前に革の長靴があった。さらに目線を上に移動させると赤い?(ズボン)。そして腰を覆い尽くす丈の同じ色の上着。上着の襟元には流れる雲の刺繍が金の糸で施されている。

 すらりとした背丈の男が立っていた。腰に短刀を下げ、じっと雪原を眺めている。風が吹くたびに、肩よりも長い漆黒の髪が揺れた。

「……猫か。どこから来た? 」

 男は膝を折って子猫の前にしゃがみ込む。形のよいくっきりした眉に涼し気な目元。鼻筋がすっと通っている。唇は薄く、冬の季節をずっと生きてきたかのような冷たい顔立ちをしていた。

 子猫は恐ろしくなり雪の上にぺたっと体を伏せた。

「酷い怪我をしている。もしかして、あの森から一匹でやってきたのか?」

 男は子猫が雪原につけた足跡を辿り、森の方角を見て表情を曇らせる。

 子猫がその隙に逃げ出そうとすると、むんずっと首の根っこを掴まれ雪原から引き剥がされた。男はもう片方の手で着ている長衣の紐飾りの釦を一つ、二つと外していく。そして胸元をはだけ子猫をそこにひょいと放り込んだ。

 一体、何?!

 懐に閉じ込められたのかと子猫は盛大に暴れた。なんとか脱出しようと衣の内側に爪を立ててよじ登り胸元に顔を出す。すると大きな手でぎゅっと体を掴まれ、男の鎖骨の辺りに抑え付けられた。ひんやりした手とは対照的に、鎖骨の辺りの肌は温かかった。

「一匹であの森に戻ったところで凍え死ぬだけだぞ。その小さな体では一晩と持つまい。そこでじっとしていろ」

 仔猫は男を見上げる。

 もしかして、僕を温めようとしてくれているの?

 ちょっと怖そうな雰囲気だけど、悪い人ではないのかも。

 子猫は素直に懐にうずくまる。

 風が唸り声を上げ始めても、男は一向に雪原から立ち去る様子を見せなかった。

 この人、こんな夜更けに一体何をしているんだろう?

 雪原を越えてきた子猫はその風の冷たさを知っている。先ほど触れた手はとても冷たく、もしかしたら子猫より長い時間、雪原にいたのかもしれなかった。

「……様ー!! 晧月様ー!!」

 遠くから声が聞こえ、男が体を軽く捻る。

 晧月様? もしかして、この人の名前?

 子猫は懐から伸び上って襟元からそっと顔を出すと、雪を蹴散らして駆けてくる若者の姿があった。黒い武具を身に着けひょろっとした体付きだ。

 若者は、晧月と呼ばれた男の前までやってくると拝礼した。

「何用だ?」

 晧月が問いかけると、若者は白い息を吐き出しながら答える。

「天候を見てくると言って雪原に出て以来、なかなか戻ってこられないので。もしや銀華の森に向かわれたのかと」

「行きやせん」

 晧月は、森に背を向けずんずんと歩き出した。雪を踏みしめる、ぎゅっぎゅっという音が何だか乱暴に聞こえる。

「すみません。出過ぎたことを」

 若者が晧月の後を追ってきて隣に立った。

「雪、止みそうにありませんね。やはり夜戦は中止されるのですか?」

「夜戦どころか今年の戰も中止だ。この分ではあっという間に積もって根雪になる」

「では撤退を? 口惜しい。あと一歩のところまで追いつめたのに」

「天候のせいではない。あの下らない儀式のせいで兵の士気が下がった。それだけだ。部隊に撤退の旨を」

 若者は一礼し来た道を駆け戻っていく。晧月も若者が雪に付けた足跡をたどるように、明かりの方向に向かって歩き出した。

 子猫のいた森が遠ざかっていく。

 銀華の森と先ほどの青年は言っていたが、子猫には初めて聞く言葉にしか思えない。

 僕はどうしてあの森にいたんだろう?

 考えると、晧月と出会った驚きで忘れていた耳の裏の傷が、再びジクジクと痛み始めた。

 地平線の向こうでぽうっと光っていた明かりは、距離が縮むにつれ姿が次第に明らかになった。

 松明だ。雪原に建つ沢山の天幕を赤々と照らしている。

 天幕は柵で囲まれていて、若者と同じく黒い武具で身を固めた男たちが慌ただしく行き来していた。どうやらここは軍隊が駐留する野営地らしい。晧月はとても上の立場にあるようで、野営地の中に歩み入ると男達が一斉に動きを止め拝礼をする。

 さっき部隊とか撤退とか言っていたけれど、この人は何者なのだろう?

 子猫は野営地と晧月を交互に見比べる。

 晧月は野営地の奥にある一際大きな天幕を目指して歩いていた。入り口にいた兵が晧月に気付き、さっと幕を捲る。中は人間が数十人入ってもまだ余るぐらいの広さで、天井が高く床には赤い布が敷きつめられていた。隅に三日月のように反り返った大刀や赤い色の胸当て、それに兜などがある。

 部屋の中央には、青い長衣を着て同じ色の頭巾を被った線の細い男が座っていた。入って来た晧月に頭を下げる。仕草は優雅で男の無骨さは微塵も感じられない。

「賢輪(シエンルン)、引き上げるぞ」

 晧月が言うと、賢輪と呼ばれた男は頷く。

「敵方への休戦の伝令はすでに出しております。賢明なご判断かと」

「寒さで兵を失うのはあちらも本意でなかろう。すぐに天幕を畳んで金華に帰還する」

「仰せのままに」

 軽く頭を下げた賢輪は、晧月の胸元から顔をのぞかせていた子猫に目を止めた。

「随分と可愛らしい拾い物をされたんですね」

「雪原でな。怪我をしているようなので連れてきた。今すぐ当ては可能か?」

「薬箱を取ってまいります」

 賢輪はさっと立ち上がって天幕の外に消えていく。

 子猫は懐から取り出され、晧月の掌に乗せられた。

「暗がりでは分からなかったが、随分、珍しい見てくれをしているな。純白の長毛に緑色の目とは。怪我のせいで少し汚れが酷いが」

 まじまじと見られて、子猫は掌の上で小さくなる。

 やがて薬箱と水差しを持った賢輪が戻って来た。

「晧月様は相変わらずお優しい。昔からこの手の動物に弱かったですものね。母猫を失った子狐、傷を負って飛べなくなった水鳥、それから……」

 賢輪が晧月の掌の上の子猫の傷口を確かめながら言うと、

「いいから早く怪我の手当を」

と晧月は少し声を荒げる。

「仰せのままに」

 くすっと笑って賢輪は床にひざまづく。持っていた薬箱の蓋を開け治療の準備を始めた。晧月は掌の子猫を賢輪の膝の上に置く。

 子猫は賢輪の膝から薬箱を覗き込んだ。薬匙やすり鉢、白い布や、紙の小さな包みがぎっしりと入っている。賢輪は幾つかの包みを取り出すとすり鉢の中に入れ水を注ぎながら乳棒で混ぜていった。

 晧月は天幕の入り口に向かって歩いていき、幕を捲ると外の様子を眺めた。

「撤退の準備は進んでいるか?」 

「ええ。滞りなく。風国も銀華の国境沿いから撤退を始めたとの報告がありました」

「冬の訪れは、春から秋まで小競り合いが続くこの地の民にとって喜ばしいはずだが、今年はさぞかし失望したに違いない」

「彩の国に神獣が現れる年……ですものね」

「皇帝が神獣を連れて戦場にやってきて、瞬く間に戰を終わらせてくれると期待していたはずだ。国境線を三国に囲まれ、絶えず戰を仕掛けられる彩の国がやっと平和になると」

「何も知らない民が神獣を心待ちにするのは致し方のない事。晧月様は皇帝として精いっぱいのことをされています」

 神獣?

 賢輪が薬を作る様子を眺めていた子猫はひょいと顔を上げ、晧月を見る。晧月は、天幕から外に向かって手を伸ばし降ってくる雪を掌で受け止めていた。

 この人は彩の国という国の皇帝なんだ。

 神獣という生き物が現われるのを待っているの?

 続いて賢輪を見ると、彼は乳棒を動かす手を止め心配そうに晧月の背中を眺めていた。

 やがて天幕に、沈黙がやってくる。

 長い間、晧月を見つめていた賢輪は、やがて薬箱の中から白い布を取り出して水差しの水で布を濡らした。そして、膝の上の子猫を抱き上げ体の汚れを拭き取っていく。

「なんとまあ! 汚れを落とすと美猫に変身ですね」

 賢輪の声は、沈んだ天幕の空気を振り払うかのように明るかった。

「見てくださいよ、晧月様。このふさふさとした長い毛の見事なこと。名前は決められたのですか?」

 子猫をチラッと見た晧月は、

「翠玉(ツェイユー)」

と答えた。

 賢輪は、はいはいと頷く。

「瞳が緑色の宝石のようですものね。翠玉、素敵な名前でよかったですね」

「にゃあん」

 膝の上で返事をすると、「まあ! 賢い子」と賢輪が笑う。そして、すり鉢の中の粉に水で溶いていった。

 出来上がった薬を翠玉は耳の裏の傷に薬を塗られた。傷口に染みて最初は少し痛かったが、すぐにジクジクとした痛みは薄らいでいった。

「はい。もういいですよ」

 手当てが終わり、翠玉は賢輪の膝から飛び降りて彼の周りを一回りする。

「元気になったな」

 晧月は翠玉を見て小さく笑い、賢輪が頷いた。

「鎮痛成分の入った野草を少し使ったので、それが効いてきたのでしょう」

 天幕の中は、先ほどの沈黙とは違い和やかな雰囲気に包まれる。

 翠玉は尻尾をゆらゆら揺らしながら晧月に近づいていった。足元で一緒に降ってくる雪を眺める。視界が真っ白な色で閉ざされそうになる中、肩に雪を積もらせて先ほどの若者が天幕にやって来た。

「馬車の準備が揃いました」

 晧月様。どこかに行ってしまうの? 僕は……?

 足元をうろうろとすると、晧月は迷うことなく翠玉を抱き上げ天幕を出て歩き始める。賢輪と若者が後ろに続く。

 外は他の天幕が取り払われ更地と化していた。野営地を抜けた先に四頭立ての馬車が止まっていて、控えていた兵がやってきた晧月のために扉を開ける。赤い革が張られた座席は大人四人が楽に座れそうだった。

 踏み台に足を駆け晧月は振りかえる。雪が降る中、微動だにせず長い間、銀華の森の方向を眺めていた。

「この雪では……凍えてしまうな」

 懐の中から見上げた晧月は、誰かを憐れむような表情をしていた。振り切るようにして馬車に乗り込もうとするが、また唸り声を上げ始めた風の音に苦しそうに顔を歪める。

「楊毅(ヤンイ)、森を……」

 背後に控える若者から「かしこまりました」と声が上がった。

「銀華の森は広大です。捜索に少しお時間を下さい」

 楊毅に背を向けたまま無言で晧月は頷いた。馬車の座席に座ると賢輪が続いて乗り込んでくる。

 御者台の兵がぴしりと馬に鞭打つ音が聞こえる。

 馬車が動き出すと賢輪が心配そうな顔で馬車の小窓を開けた。数名の兵を率いて銀華の森へ向かう楊毅の後ろ姿が翠玉の目に映った。

  

 太陽が昇る方角に向かって馬車は進む。護衛の馬車を先頭に次に晧月の馬車。そして将軍らが乗った馬車が続く。銀華を離れると吹雪く日は少なくなり、澄み切った青空の日が続く。馬車の小窓から流れ込んでくる空気は暖かい。

 しかし、幾日過ぎても翠玉の失った記憶は戻ってくる兆しがなかった。不安になって「みゃーみゃー」と鳴くと、晧月は銀華の雪原で出会ったときと同じように翠玉を懐に入れてくれた。人肌は母猫に温めてもらっているような安心感があり、すぐそこが翠玉の定位置となった。それに、晧月の懐は花のようないい香りが漂っていて幸せな気分になる。

「翠玉。手当ての時間ですよ」

 今日も晧月の懐でうとうとしていると、賢輪の声で起こされた。懐の中に晧月の手が伸びて来て外に出される。真向いの席に座る賢輪に翠玉は手渡された。傍らにはすり鉢と水差しが置いてあって、半透明な傷薬がすでに出来上がっている。

「みゃー」

「はいはい。手当てが終わったらまた晧月様の懐に戻れますから」

 ジタバタを四肢を動かして賢輪の手から逃れようとするが、膝の上で首の根っこを抑えられた。

 翠玉を手渡した晧月は、片肘をついて半分開けた馬車の小窓から景色を眺めはじめた。帰還の旅が始まってからというものずっとこんな感じだ。口数も少ない。何やら考え事をしているようだ。

「気分が塞いでおられるのですか?」

 翠玉の耳の裏に傷薬を塗りながら賢輪が聞く。

 しかし、晧月は黙ったままだ。

「薬師には話せないことでしょうか? なら、晧月様の乳兄弟としての私はいかがでしょう? 離宮でずっと一緒に過ごした仲ではありませんか」

「……ああ」

 窓の外を眺める晧月の眉根が中央にくっと寄る。

 晧月様。どうしてしまったんだろう?

 傷の手当てが終わって賢輪から解放されると、すぐに晧月の膝に飛び乗った。長衣をよじ登り肩まで辿りついて小窓を覗き込んで驚いた。馬車は小高い丘のてっぺんを走っていて、眼下に城壁に囲まれた街が見える。碁盤の目に仕切られ整然と屋根が並んでいた。

 真向いの賢輪が腰を浮かせ外を見る。

「間もなく王都金華ですね」 

 ここが、金華。なんて巨大な街!

 街の入り口には細長い塔。それに中央には抜きんでて大きな建物が見える。赤色の屋根と壁が目を引いた。

 あれはお城なのかな? もしかして晧月様のお住まい?

 嬉しくなって翠玉はぴんと尻尾を立ち上げるが、隣の晧月の表情は険しいままだ。

 どうして? 長い旅を終えて王都に戻ってきたのに。

 翠玉の疑問は解決されないまま馬車は丘を下り始める。

 いよいよ金華の街が近づいてきた。左右の端が見えないほど延々と黄褐色の城壁が続いている。そそり立つような高さで、遥か頭上の見張り台には兵士が何人も立っていた。街への入り口は一本道で両側に堀が掘られている。

 奥には門があり、馬車が近づくと重々しい音を立てて門が開いた。丘から見えた細長い塔が間近に立っている。塀と同じく石作りで、四角く窓か切り取られていて随分遠くまで見ることができそうだ。

 くぐって街へと入っていくと、黒い石が敷きつめられた道が真っ直ぐに続いている。

 両脇には平屋建ての家がひしめき合うように建っていて、どの玄関先にも赤い灯籠(提灯)がぶら下がっていた。明かりが灯され、夕暮れの金華は幻想的だ。

 通りは嬉しそうな顔をした人で溢れかえっていた。護衛の馬車を先頭に一行がゆっくりと進み始めると、

「皇帝様のご帰還だ!」

「晧月様! お帰りをお待ちしておりました」

という声が方々で上がる。顔を覆って道端にしゃがみ込み泣きだす者さえいた。

「王城まで人が鈴なり……。意外ですね」

 賢輪が馬車の小窓をさっと閉めた。

「何か企んでいるのだろう。油断できないぞ」

 晧月の言葉に賢輪が険しい顔で頷く。

 こんなに歓迎を受けているというのに、二人はなぜか警戒している。

 翠玉の謎は深まるばかりだ。

 やがて馬車が止まり扉が開けられた。数十人の男が二列になり頭を下げている。片方は橙色、もう片方は白色の長衣を着ていた。

 出迎えの男達の背後には何千人も並べそうな広場があった。さらに奥には白い石の階段あり、二重の屋根が特徴的な赤い屋根の城がそびえ建っている。建物を支える数百にも及ぶ真っ赤な太い柱が美しい。

 男たちをじっと見ていた晧月は、翠玉がこれまで聞いたことのないような冷たい声を出した。

「官吏の出迎えはあるにしても……」

 橙色の長衣を着た男たちを見た後、少し間を置き、今度は白色の長衣の男たちを見て突き放すように言う。

「お前達、神官がまだ俺を出迎える気があったとは」

 すると、一人の青年が歩み出て来る。

 翠玉は青年の顔を凝視した。

 この人、なんだか晧月様に似ている。

 髪は晧月のように長くはない。体も小柄だ。でも冷たげな目の辺りがなんとなく……。

「我ら神官は、皇帝のしもべ。晧月様が皇帝の職務を全うされるならどこまでも従います」

 晧月に良く似た青年は、口元に薄笑いを浮かべる。

「民の歓迎ぶりはいかがでした? 戦で勝利したときよりも凄かったのでは?」

 戰は雪が降って引き分けたと晧月は言っていた。なのに勝利のときよりも民は喜んでいるらしい。

「笑顔の民を、これから失意のどん底に突き落とすのは心が痛みませんか?」

 青年は体を捻って背後にある城を指さす。

「加冠の儀の一件はお互いに水に流して、話合いをいかがでしょう? 皇帝家と神官家は五代に渡って供に歩んできたのですから、一度の過ちで決別するのはあまりにも残念です」

「炎輝(イェンフゥイ)。少し黙れ」

 晧月は冷たく言い放った後、すっと賢輪に視線を送る。賢輪は小さく頷いて馬車の取っ手に手を伸ばした。

「晧月様は長旅からの帰りです。話は明日、伺いましょう」

 扉を閉めた賢輪は、馬車の天井を見上げてふうっと深い息をついた。

「民の心情を質に晧月様を脅してくるとは、あの方々は、一筋縄ではいきませんね」

 加冠の儀? 晧月様は銀華へ戰に行っていたのではないの?

 それに、神官は皇帝のしもべと言うわりに、炎輝という神官が晧月に対して居丈高なのも不思議だ。

 再び馬車は動き始め、次に止まった先はこじんまりとした門の前だ。左右に白い塀と小道が続いている。

 翠玉は晧月の腕に抱かれ外に出た。外はすっかり日が暮れて、空に月が出ている。門を潜って中に入って行くと大きな池があって、中央に浮かぶように屋敷が建っていた。

 屋敷までは石で作られた橋を幾つか渡っていくようだ。部屋の内部に明かりが灯って揺らめいている。

 晧月の腕の中から辺りを眺めていると、橋と橋の中間に四阿(東屋)が見えてきた。使用人らしき男が廂に灯龍を掲げている。

「あ、晧月様。賢輪様。お帰りなさいませ」

 二人に気付いた男は、拝礼をした後、急いで屋敷に駆けこんで行く。余りにも慌てすぎて靴が片方脱げてしまった。その様子を見て、神官らと別れてからずっと疲れた顔をしていた賢輪が少し笑った。

 晧月と賢輪が屋敷へ入って行くと、入り口に数十人の女官と使用人の男が並んで待っていた。二人の顔を見て、

「お帰りなさいませ」

「御無事で何よりです」

と口々に言う。彼らもまた、金華の街の民のように嬉しそうな顔をしていた。しかし、晧月は、「今、戻った」と言ったっきり黙っているので、女官や使用人の顔から徐々に笑顔が消えていく。

「みゃー」

 不穏な空気に翠玉は鳴き声を上げた。すると「あら、子猫」と一人の女官が晧月の腕に抱かれた翠玉に気付く。

「銀華の雪原で拾った子猫だ。皆で可愛がってやってくれ。名前は翠玉と言う」

 晧月は翠玉を女官に押し付けると、足早に屋敷の奥へと歩いて行く。賢輪もその後に続いた。

 晧月様、どこに?

 翠玉は甲高い声で鳴くが晧月が戻ってくる様子はない。女官の腕から這い出て、廊下に飛び降りると後を追いかけた。

 四阿と同じく灯龍が灯され薄明りに包まれた廊下を駆けてようやく追いついた翠玉は、晧月にまとわりつきながら必死になって声を張り上げる。

「みゃー!!」

 晧月はちょろちょろ動き回る翠玉に、その場で立ち止まる。

「何だ、ついてくるとは」

「よっぽど晧月様のお傍がいいのでしょう」

 隣りの賢輪にそう言われ、呆れ顔で晧月は手を伸ばしてくる。

「帰還の旅の間中、散々、懐に入れてやったのにまだ甘え足りないのか」

「にゃあん」

 ひしっと胸元にしがみつくと、晧月は「本当に、この猫は」と大げさなため息をついた。そして、翠玉を抱いたまますぐ傍の部屋に入って行く。

 明かりが灯された部屋には、大きな寝台があった。天蓋に獅子や豹などの細工が施されている。壁に書が飾られ、真下に長机がある。そこには分厚い書物が数冊積まれてあった。

「部屋まで連れて来たということは翠玉を屋敷の猫でなく、ご自分の猫にするおつもりですか?」

「この様子じゃな」

 晧月は、長衣に爪を出ししがみついている翠玉を胸元から引き離そうとしてみせた。

「では、貴方にいい物をあげましょう」

 賢輪は翠玉の頭を軽く撫で晧月の部屋を出て行く。すぐに底の浅い箱と赤い布を持って戻って来た。

 晧月の了承を得て賢輪は寝台の下に箱を置く。そして、ひざまづいて底に花の刺繍が入った綺麗な赤い布を敷いた。

「さあ、翠玉のお家が出来ましたよ」

 翠玉は箱を見つめた。

 晧月様の部屋に僕のお家?

 嬉しくなって晧月の腕の中で右に左にゆっくりと尻尾を動かす。

「にゃあーん」

「分かりやすい猫だ。賢輪、お気に召したようだぞ」

 晧月は腰を折って翠玉を箱の放した。中を一周して自分の体をこすりつけ、翠玉はころりと横たわる。

 ここが僕のお家なんだ。

 安心感に眠気が襲ってきて、大きなあくびが出た。

 晧月は、賢輪に手伝わせ、長衣から夜着へと着替えを始める。光沢のあるツヤツヤとした生地が、蝋燭の明かりに反射していた。

「賢輪、お前は明日から薬事殿の仕事に戻っていい。仕事が溜まっているだろう」

 袖を通しながら晧月は言う。

「でも……」

「神官らがどう出ようが、俺の気持ちは変わらん」

「わかりました。でも、大変なときはいつでも呼んでくださいね」

「ああ」

 二人が話をしていると、お膳を持った数人の女官がやってきて長机の上に食事を並べていく。

 賢輪が翠玉に焼いた魚を一切れくれた。香ばしい匂いの焼き魚だが、夢の世界に旅立とうとしている翠玉は口に咥えたままうとうとしてしまう。

「まあ、翠玉ったら。食べながら眠っている。この子には癒されますね。王城に戻ったら、笑うこともままならないだろうと覚悟していたのに」

 二人の会話は、眠りかけている翠玉の耳にはどこか遠い。

 完全に眠りの世界に旅立ちかけたときだった。どこからかともなく低い声が聞こえてきて、翠玉の白い毛が瞬時にばっと逆立った。

 何十人もの男の声がする。

 何だろう。この声。怖い。

 翠玉は箱から飛び出して晧月の傍に駆け寄って行った。

 晧月が抱き上げながら言う。

「夜の祈祷が始まったか。神官家の庭は王城の広場のさらに先にあるのに、風向きが変わると聞こえてくる。鬱陶しいものだ」

「可哀想に。尻尾をこんなに太くして。翠玉、少し待てば夜の祈祷は終わりますからね」

 賢輪が翠玉の背中を撫でながら慰めてくれた。

 この声は、王城の広場で出会った神官たちの声らしい。

 初めて聞く声が、どうしてこんなに怖いんだろう。

 晧月の腕に抱かれても、賢輪に背中を撫でてもらっても恐怖は一向に薄まらない。

 翠玉は晧月にしがみついてずっと震え続けた。

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