【11月刊試し読み】極道の淫らな挑発

角川ルビー文庫

第1話



     1



 一目惚れというのは、ある。

 羽村優は、今それをいたく実感していた。心を吸い寄せられるような感覚は、気のせいはない。言葉では説明のつかないものを、感じ取っている。

 ゲイでもないのに、同じ男にこれほど心惹かれるものなのかと思うが、今抱いている己の感覚を信じるなら、間違いなく一目惚れだ。それは恋愛という意味ではなく、そんなものを超越していると言っていいだろう。

 出会った瞬間に恋に落ちたような経験はないが、今なら感覚だけで相手に惹かれる気持ちがよくわかる。

「あの……」

 日はすっかり落ち、辺りは街灯の光だけで人通りもほとんどなかった。羽村の住むマンションのすぐ近くに停めてあった車から降りてきたのは、夜の闇が似合うスーツ姿の男だ。

「羽村優だな」

「え……、あ……はい」

 声を聞いた瞬間、背筋がぞくりとした。

 溶かした飴を流し込まれたように、耳の奥がジンと熱くなる。魅力的な声だった。低めのそれには艶と深みがあり、耳元で囁かれる時のような気恥ずかしささえ覚える。別な言い方をするならば、誘惑めいたそれは悪の道へと誘う魔物の息遣い。

 森の中に静かに横たわっている沼のように、底が見えず、恐ろしく、けれどもそこに何が潜んでいるのか知りたくて、つい覗き込んでしまう――そんなふうに抗えなくさせるものを持っているのは、間違いなかった。

「確かに羽村は自分ですが、どなたですか?」

「俺か? 俺は鷺谷だ」

「鷺谷さん、ですか」

 名前を聞いても、特に覚えはなかった。もう一度顔をよく見るが、それでも同じだった。

(雰囲気のある人だな……)

 不躾だとわかっていながらも、羽村は目を離せずに鷺谷と名乗った男を見上げていた。

 平均より少し高めの身長の自分が見上げるということは、かなりの長身だとわかる。自分と同じスーツ姿でもこんなにも違うものかというほど、鷺谷は堂々としていた。

 股下は長く、肩幅も広い。堂々とした立ち姿は、その態度だけでなく恵まれた肉体のおかげでもあるのだろう。いわゆる男の戦闘服でもあるスーツを、ここまで美しく着こなす人を見たことがない。

 憧れ。嫉妬。羨望。

 様々な感情を掻き回されながらも、目を逸らせなかった。逸らしたくないと思わせてしまうものを、男は持っている。

「羽村一翔を知ってるな」

「もちろんです。俺は一翔の伯父ですから」

 自分の甥の名前が出て、ドキリとした。

「今はあんたが一翔の保護者か?」

「はい。あの……一翔が何かしたんですか?」

「いいや。だが、込み入った話だ。どこか別の場所で話したい」

 どういうことだろうと思い、なんとなく鷺谷が降りてきた車のほうを見る。すると、運転手らしい男は車の前でずっと待機していた。ハイヤーの運転手にしては、かなり若い。

 一翔と同じくらいの歳の頃の、若い男だ。

「別に構いませんけど」

 怪しいと思うが、自分の甥の名前が出たとあっては無視するわけにはいかない。

 羽村は、話をすることに同意した。だが、いくら自分が男でもいきなり知らない男の車に乗り込む気にはなれず、近くのファミリーレストランを指定してあとで落ち合うことにする。

「それじゃあ、二十分後に行きます」

「遅れるなよ」

 言って軽く笑うと、鷺谷は踵を返す。

 一瞬送られた流し目に、羽村の心臓が小さく跳ねた。それはすぐに収まらず、トクトクと鳴り続けている。

 たった一瞬だ。一瞬、その視線に捉えられただけだ。

 それなのに、羽村の心はこれまでになくざわつき、乱れている。

 鷺谷と名乗った男が後部座席に乗り込んでしまうまで、見惚れるようにその姿を追っていた。ブロロロロ……、と低いエンジン音を響かせながら走り去るそのテールランプをじっと見ながら、羽村はまるで人ならぬ者――通り魔にでも出会った気分になっていた。





 羽村は『株式会社SHIBAURA』という音響設備のメーカーに勤めるサラリーマンだ。

 駅に設置するスピーカーや、ホールなどに入れる音響機器を取り扱っている。取引先は店舗やコンサートホール、学校や鉄道会社など多岐に亘り、羽村は営業として働いている。

 両親を早く亡くしたことと、姉の紀子が残した忘れ形見の親代わりをしていることを除けば、特にこれといって特筆すべきことはない。

 平均的な体格。癖のない髪。奥二重の目。日本人らしい鼻梁。見た目に関しては、大きく損をすることもないが、得するほどのものも持っていない。

 ただ、若い頃に両親のなくしたためか、しっかり者とよく言われるのは確かだ。

 特技といえばピアノだが、高価なものを買う余裕はなく、もう何年も弾いていない。

 子供の頃、歳の離れた姉がピアノを習っていた影響で物心ついた時には鍵盤を叩くようになっていたのが、ピアノを弾いたきっかけだ。教室に通って教えてもらったわけではなく、見よう見まねで音を出しているうちに姉よりも上手だと褒められるようになった。

 父が聞いていたジャズの影響か、子供の頃から音楽の趣味が渋いと言われていて、小学校に入る前から演奏するのももっぱらジャズだった。近所にセミプロのジャズピアニストがいたのも、羽村をジャズピアノにのめり込ませた理由の一つだろう。父と親しかった彼に連れられ、ライヴハウスに行ったこともある。

 大人のプレイヤーに混ざり、セッションでステージに立ったのはいい思い出だ。

 自由に鍵盤の上で指を踊らせるのが、子供の頃の主な遊びだった。将来はジャズピアニストになるのだろうと、周りの大人は口を揃えて言った。

 だが、それは両親の突然の死によって諦めることとなる。

 羽村が小学二年生の頃、両親が突然の交通事故で他界し、生活は一変した。

 施設に預けられ、ピアノに触れることはなくなった。それでもオルガンだけは弾き続け、自分は音楽の仕事に就くのだと子供心に夢を抱いていた。プレイヤーとして、音楽に携わるのだと……。

 けれども、八つ歳上の姉は羽村が十一歳の頃に妊娠。相手が誰なのか決して口にせず、シングルマザーとなったことが、羽村を少しずつ夢から醒まさせることとなる。

 高校に入る頃には、単身アメリカに渡って本格的にジャズを学びたいという気持ちが大きくなっていたが、ひたむきに自分の夢だけを追うことはできなくなっていた。両親を早くに失った羽村にとって、姉はたった一人の家族で甥は大事な肉親だ。

 相手が誰なのか決して口にせず、子供のために奮闘している姉を見続けていたからか、傍にいてやりたいという気持ちが強くなっていった。

 高校を卒業するとともに今の会社に就職したのは、シングルマザーとして子供を育てている姉を助けるためだ。

 皮肉にも、約三年前に両親と同じ交通事故で姉も突然この世を去ることとなったが、社会人になっていた羽村が、姉の忘れ形見を引き取ったのは自然の流れだと言える。

 両親の残してくれた財産がまだ残っているため、それを切り崩しながら一翔との生活をなんとか維持している。

 羽村にとって、一翔はたった一人の肉親で、自分の夢を犠牲にしていいと思える宝物のような存在だった。





「ただいま~」

 鷺谷と別れて自分のマンションに戻った羽村は、リビングにいる一翔に声をかけた。

 風呂は済ませたのだろう。パジャマを着た一翔はプリンを食べながらテレビを見ていた。まさに今時の高校生といったタイプで、身長は羽村と同じくらいで体格はいい。だが、中身はまだまだ子供だ。

「おかえりなさ~い。飯喰った?」

「いや、まだ。それより勉強したのか?」

「うん、一応ね。あれ、どっか行くの? 飯は優にーちゃんのも作ってるよ」

「いつもありがとな。ちょっと用事があるんだ。あ、自転車借りるぞ。飯は帰って食べるから。俺の帰り待たずに時間になったら寝ろよ。いつまでもネットとかゲームとかしてるんじゃないぞ」

「は~い、わかってま~す」

 いつも返事だけはいい一翔を見て、仕方ない奴だと笑った。そして、部屋を出ようとしていったん立ち止まる。

「あ、ところでさ、お前クラスに鷺谷って人いるか?」

「いや、いないけど」

「学校の先生にも?」

「うん、なんで?」

「別に……。じゃあ行ってくるな」

 鷺谷の雰囲気から、同級生の保護者や学校関係者の線はないだろうと思っていたが、やはりそうかと、とりあえず待ち合わせの場所まで行ってみることにする。

 このところ熱帯夜続きだが、今日は夕立のおかげか随分と過ごしやすく、調子よく自転車を漕いだ。顔に受ける風が心地いい。

 自宅マンションから十五分ほどのところに、羽村が指定したファミリーレストランはあった。中に入ると、三割ほどの席が埋まっている。

「いらっしゃいませ」

 男を捜す。すぐに見つかった。

 いや、捜す前に目についたと言ったほうがいいだろう。ボックス席に一人で座っている姿は、やはり目立っていた。ここにいるどの客とも違う。異質な存在だと感じるオーラが滲み出ていた。

 こういう安価な店にしたのは、申し訳なかったかもしれない――そんな思いすら抱いてしまう。

「すみません。お待たせして」

 言いながら、羽村は前の席に座った。

 遅い時間だからか、周りは学生ふうの若者やサラリーマンの姿が多かった。女性三人組のうちの一人が、鷺谷を気にしているのがわかる。羽村と目が合うと、すぐに逸らした。

 ウエイトレスが水を運んできた時も、鷺谷に視線を吸い寄せられている。男である羽村もそうだったのだ。当然のことだろうと納得する。

「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりですか?」

「えっと……ホットコーヒーをお願いします」

 羽村は、鷺谷と同じものを注文した。

 ウエイトレスが行ってしまうと、なぜか緊張した。どこか危険な匂いのする鷺谷を前にし、何を言われるのだろうと身構える。どんな人生を歩めばこんなふうになるのだろうと思うほど、特別なものを持っているのは確かだ。

 夜の闇を纏ったような雰囲気。

 男の羽村さえも惑わすような色香。

 何を抱えているのだろうと、興味すら湧いてくる。

「一翔のことでお話があるということですが、どういう内容ですか?」

 聞くが、鷺谷はそれには答えず、ソファーの上に置いていた茶封筒を差し出してきた。中を見て見ろと視線で促され、素直に従う。そして、そこに入っていた写真に、思わず目を見開いた。

「え……、これ……」

 そこには、知らない男と亡き姉が映っている。

「一翔の父親を知ってるか?」

「いえ、知りません」

「そこに映ってるのが、一翔の父親だ」

 姉の隣に座っているのは、どことなく怖い感じのする男だ。一見ごく普通のサラリーマンのようだが、違うとわかる。鷺谷がそうであるように、普通と違う何かを見る者に感じさせるのだ。

「一翔の父親を教えてやろう。斎藤勝臣。死んだあんたの姉貴を孕ませたのは、うちの組長だ」

「は?」

 組長と言われて、一瞬思考が停止した。自分の生活圏にはない言葉だ。もう一度聞き直そうとしたが、そうするまでもなくこう続けられる。

「黒田会系・斎藤組。斎藤勝臣は一翔の父親だよ。ずっと捜していた。引き取って自分の跡目候補にしたいそうだ」

「あの……っ、ちょっと待ってくださいっ」

 いきなり実の父親だの跡目だの言われて、はいそうですかと納得できるはずがない。頭の中は混乱している。

「どこに証拠が……っ」

「鑑定書だ」

 もう一つポケットの中から別の書類を出されて、手に取った。急いで中を確認する。

 それは、DNA鑑定書だった。一般人でも料金を払えば鑑定してくれるところがあるのは、羽村も知っている。しかし、本人の同意もなしに誰でもやっていいなどとは聞いたことがない。しかも、一翔は未成年だ。

「こんな……勝手に……っ。大体、DNAなんていつの間に採ったんですか」

「捨てたジュースの缶一つあれば、鑑定はできる。信じられないなら、もう一度鑑定してもいいぞ」

「そういうことを言ってるんじゃありません。一翔は未成年で、俺が親代わりなんです。俺に無断でこんなことしていいと思ってるんですか?」

「いいか悪いかは別の話だ。俺は事実を言ってるんだよ。法的にどうこう言われようが、一翔とうちの組長が親子関係にあるのは事実だ」

 堂々と言い放たれ、羽村は自分が抱いた印象が間違っていなかったと確信した。

 やはり、この男はただの堅気ではない。滲み出る魔物のようなオーラはまんざら偽物ではない。まさに人を惑わす通り魔。本物の悪党なのだと……。

 魅力的だと感じた自分を、恥じた。ヤクザはヤクザだ。汚いことを平気でやる。どこか悪そうな雰囲気に惹かれるなんて、とんでもないことだ。

「一翔は姉の忘れ形見です。いきなり来たあなたの話を『はいそうですか』なんて聞けると思ってませんよね?」

「ああ。だがな、誰も裁判をしようなんて言ってないんだよ。あんた、ヤクザがそんなことすると思ってるのか?」

 嗤われ、確かに鷺谷の言うとおりだと、世間知らずな自分の言い分が恥ずかしくなる。

「俺は親父に頼まれて、親父の隠し子を捜してた。苦労したんだ。ここで引き下がるわけにはいかないんでね」

「親父って……じゃあ、あなたは一翔の腹違いのお兄さんってことですか?」

「親父ってのは、組長のことだ。俺たちヤクザは組長のことを親父と呼ぶんだよ」

 呼び方一つ取っても自分の知らない世界のことだと痛感し、なおさらそんな世界で生きる男のところへ大事な一翔をやるわけにはいかないと、強く決心した。

 全力で阻止しなければ、一翔の将来が滅茶苦茶にされてしまう。

「自分がヤクザであることをひけらかして市民に恐怖心を与えると、法的にまずいんじゃないですか?」

 怖いながらも、ヤクザに脅されて大事なものを手放すものかと意気込んで鷺谷を睨む。

 すると、鷺谷はふと口元を緩めた。魅力的な笑みだ。

 思わず魅入られそうになり、相手はヤクザだぞと自分に言い聞かせる。

「あんた、ヤクザ相手に度胸あるな。気に入ったぞ」

「ヤクザに気に入られても嬉しくありません」

 子供のような反論をしてしまったことを後悔するが、言ってしまったものは取り返せない。羽村のそんな言動をどう受け取ったのか、鷺谷は余裕の態度でこう言った。

「悪い話じゃないと思うがな」

「どこがですか」

「あんた、一翔を大学へやれるのか?」

 ドキリとし、鷺谷をじっと見る。不遜な笑みを浮かべるのを見て、羽村は恨めしげに奥歯を噛み締めることしかできなかった。

 実はこのところ、一翔を大学へやる学費について悩んでいた。学資保険には入っているが、姉が残した貯金を足してもそれだけでは到底足りない。

「どうせあんたの稼ぎじゃ大学は出してやれないだろう。それとも、奨学金でも貰うか? 日本の奨学金は、名ばかりの借金だ。国ってのはな、俺たちヤクザ以上に厳しい取り立てをするぞ。しかも、ほとんどの場合高利貸し並みの金利もついてくる」

 言われずとも、わかっていた。一翔がこっそり奨学金制度について情報を集めているのを知り、やはり大学に行きたいのかと羽村も資料を取り寄せてみた。すると、そこに書かれてあったのは、厳しい現実だった。

 就職してすぐ始まる返済。滞納に対するペナルティは驚くほど厳しいもので、場合によってはブラックリストに載ったりクレジットカードを作れなくなったりする。

 まさに、闇金から金を借りる覚悟くらいしていないと借りられないというのが、羽村の抱いた印象だ。

「親父なら、大学くらい出してやれるぞ」

「大学に行っても、結局ヤクザになるなら学歴なんて意味ないじゃないですか」

「今時のヤクザが切った張ったの世界で生きてると思うか? 今は金がすべてだ。大学に行かせて経済を学ばせる。金を稼ぐスキルを磨けるぞ。今みたいな切り詰めた生活とは、おさらばだ。あんたにも、これまで育ててくれた謝礼は払う」

「今のままで結構です。汚いお金には興味がないですから」

 強気の台詞に気分を害するかと思ったが、鷺谷はまた愉しげに笑った。悪党の笑みに惹かれる気持ちを必死で殺し、何を言っても無駄だと敵意を剥き出しにする。

「まぁいい。今日は事実を伝えに来ただけだ。いずれまた会うことになる」

「ちょっと待ってください。話はまだ……っ」

「また俺に会いたければ、連絡しろ」

 名刺をテーブルに置いて、鷺谷は行ってしまった。

 ヤクザ相手によくあんな強気なことが言えたなと、今さらながらに怖くなって手が震える。

 しばらく席に座ったまま茫然としていたが、知らない男と写っている姉の写真を手に取り、じっと眺めた。おそらく、鷺谷の言うことは本当なのだろう。鑑定書で確認しなくても、なんとなくわかる。

(なぁ、姉貴。姉貴が相手の名前を最後まで誰にも言わなかったのは、ヤクザだからだったのか……?)

 女を孕ませて逃げるような相手は誰だと周りの大人に問いつめられた時、姉が悲しそうな顔をしているのを子供心に今でもよく覚えている。

 あれは、愛してはいけない相手を愛してしまったからだと、やっとわかった。

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