【11月刊試し読み】タクミくんシリーズ完全版9

角川ルビー文庫

真夏の麗人

「政史は本当におとなしいわねえ」

 子どもの頃から事あるごとに言われたセリフ。

「普通は末っ子は、もっと甘えん坊だったり、ワガママだったりするのにねえ」

 父や母に加え、年の離れた五人の兄とそれぞれに奥さんがいて、やがて生まれた甥も姪もたくさんで、まわりがいつも賑やかだったから、それを楽しんでる間に大きくなってしまった。

 かなり可愛がられて育てられた、自覚はある。

 なにかが足りないなんて、思ったこともなかった。

 初島で家族ぐるみで民宿を営み海で漁をする生活は、決して贅沢な暮らしとは呼べないけれど、充分に満ち足りた日々だった。

 特別になにかが欲しいと、望んだことも、なかった気がする。

 なのにいつの間にか、変わってしまった。

 体が震えるほど好きな人が、できてしまった。


 波を分けて、京古野氏所有の豪華な大型クルーザーが熱海港へ向かう。

 デッキの手摺りに?まって、無数の白い泡が攪拌されたようにぐるぐると後ろへ流れてゆく様を、じっと見ていた。

 けれどそこから目が離せなかったわけではなく、――波を見ていたかった、わけではなく。

『そうか、じゃあ俺、やっぱり岩下のこと、好きなんだ』

 ぼんやりとした利久の呟きを耳にした時、岩下政史は呆然と立ち尽くしてしまった。いろんな感情に一気に囚われて、動けなくなってしまったのだ。

 好き。

 ――好き?

 誰が、誰を?

 やっぱり、って、なに?

 彼の“特別”になれたならどんなにしあわせかとずっと思っていたのに、思うどころか願ってさえいたのに、現に“好き”と言われたのに、――たまらなく嬉しいはずなのに、どうしてか素直に喜べない。

 だって、やっぱりもなにも、そんな前兆、まるでなかったのに?

 それとも、自分が知らなかっただけで、彼と親友である葉山託生との間ではそういう話が出ていたのか?

 自分の知らない間に?

 ふたりの間では?

 ――たまらなく嬉しいはずなのに、どうしてか、すんなりと受け入れられない。それどころかまたしても、呆気なく嫉妬の感傷に翻弄されてしまう。

 そんなに深い話もしているんだ、片倉くんと葉山くんって?

 そうだよね、親友だものね、あのふたり。

 喜びと戸惑いと、嫉妬とが、まとまりなく浮かんでは消え、様々な色の異なる感情に、心は激しい波に揺さぶられる小船のように上下する。

『……あ、岩下、あの……』

 あの時の、困惑しきった片倉利久の表情。

 利久と葉山託生との会話を立ち聞きするつもりでは、もちろん、なかった。彼らが話しているところへ、偶然行き合わせただけなのだ。なのに――。

 よもや、あんな爆弾発言を耳にするとは。

 だが、そんなつもりではなかったにしろ立ち聞きしたような結果になって、それを先ず謝らなければと思っていたのに、驚きのあまり手にした荷物を地面へ落としただけでなく、その場にじっと立ち尽くしてしまった。

 ふたりに見られて、動けなかった。

 言葉も、出ない。

 ずっと好きで、すごく好きで、でも、叶わぬ恋とわかっていたから、とっくに諦めていた想い人。

 立ち尽くす自分へと、

「さっきのあれ、冗談だから」

 とか、

「日本語間違えちゃったよ、あはは」

 とか、言い訳されるのが怖かった。

「好きって言っても、ほら、ともだちとして、だからさ」

 深い意味はないのだと、そんなふうに利久から否定されたくなかったのだ。

 訂正も、撤回も、されたくない。

 好き。

 奇跡のようなその一言を失いたくなくて、あれからずっと俯いてばかりいた。

 全身で利久の気配を探るのに、全身で利久だけを意識しているのに、港に着くまで、ついに一度もまともに彼を見ることはできなかった。話しかけることも、なにもかも。

 利久や海外から九鬼島にいらしていた他の乗客を降ろしてから、クルーザーは政史を送るために初島へ向かうことになっていた。

 ――だって。

『そうか、じゃあ俺、やっぱり岩下のこと、好きなんだ』

 ぽろりと呟くように、零れ出た言葉。

 でもあれは、自分に向けられた言葉ではない。利久と親友との会話の中の、ひとこまだ。利久から政史へと、告白された言葉ではないのだ。

 気を利かせてくれたのか、葉山託生は早々にその場から立ち去ってくれたのに、利久は発言を、撤回しなかったけれども、肯定も、しなかったのだ。

 自分たちの関係は中途半端なままなのに、なのに気持ちが止まらない。

 走り出しそうに、利久が好きだ。

 鎖でこの手を手摺りに縛りつけてでもいないと、もう、どうにかなりそうだった。

 彼に触れたい。彼のすぐそばにいたいのだ。できればずっと、ずっとこのまま――。

 そうして熱海港で別れ際、

「ま、また、な」

 俯いたままの政史へ、さざ波にすら掻き消されてしまいそうな小声で、利久が言った。

 わざわざつきあってくれてありがとうと、今日は利久がいてくれてとても心強かったと伝えたかったのに、自分は僅かに頷くのがせいぜいだった。

 体が震えるほど、好きになってた。

 諦めるなんて、もうできない。


「それで? あの後、結局、岩下くんとはどうなったのさ」

 興味津々を隠しもせずに、単刀直入に託生が訊いた。

 そのまま九鬼島にいることになった託生から、仙台の実家へ戻った利久へと、翌日、待ってましたと言わんばかりにかかってきた電話。

「――え」

 昨日の今日で、この質問とくれば、

『そうか、じゃあ俺、やっぱり岩下のこと、好きなんだ』

 の、件であろう。――間違いなく。

 現在の時刻は午後二時ちょっと前。あれ、から、まだ一日(二十四時間)と経ってはいない。記憶は鮮明どころかクリアに思い出され過ぎて、ミットモナイくらいだ。

「いっそ、つきあっちゃえばいいのに」

 あっけらかんと託生が言う。

 つきあう?

 ――つきあう!?

「ど、な、ち、あ」

 とっちらかる利久に、

「意味不明」

 託生が噴き出す。「動揺してるのはわかるけど、ちゃんと日本語喋ってよ、利久」

「だ、だって、だって託生」

「だって、なんだよ」

「やややだから、俺たちは、別に、そういうんじゃなくてさ」

「岩下くんのこと好きだって、確かにそう言ったよね、利久?」

「い、言ったかも、しんないけどさ、でも」

「かも、じゃなくて、ちゃんと言っただろ。ぼくは聞いたし、岩下くんも聞いたじゃないか。――よもやまさか、この期に及んで、陳腐な言い訳して誤魔化す気じゃないだろうな?」

「た、確かに岩下のことは好きだよ。好きだけど、でも、岩下って男じゃないか」

「――はあ?」

 託生が呆れる。しかも、相当、本気なモードで。「なに、今更なこと言ってるんだよ」

 ――今更? って?

「い、一緒にいるとすっげドキドキするけど、でも、それだけだし」

 動揺しまくりの利久に対し、

「それだけで充分な気がします」

 冷静な突っ込みをしてよこす。

「でも託生、俺、岩下と、そ、その、あー」

 困るのだ。

 真夏の炎天下にいることを失念したほど、涼やかに和服を着こなしていた政史。その清楚なたたずまいに、目が奪われた。心が、惹かれた。

「……どうしていいかわかんないんだよ!」

 繊細な横顔を見ていると、頼まれてもいないのに、なにかしてあげたくてたまらなくなる。そばにいると、もっとそばにいたくなるのに、そばにいてはいけない、気持ちになるのだ。

 矛盾が、自分でも、どうにもならない。

 どうしてこんな気持ちになるのかが、わからない。

「じゃあ訊くけど」

 託生が、大人が幼い子どもを相手にするように、「利久、岩下くんともっと一緒にいたいって思う?」

 と優しく訊いた。

「……思う」

 思うだけなら、確かに、思う。

「話をしたい? それとも、会っていたい?」

「両方……かな?」

「手を繋ぐのは?」

「えっ!?」

「ぎゅって抱きしめたり、キスとかしたい?」

「えええええっ!?」

「――そんなに驚くようなこと、言ってないけどな、ぼくは」

 落ち着き払った、託生の声。

「だだだだって託生、男同士でそ、そんなこと」

「じゃなくて、好きなら当然、そういうことしたいんじゃないのかなって質問」

 諭されたものの、「本音と正直に向き合ってみたら、利久?」

 けれど呆れるでなく、進言された。

「本音?」

「そしたら、自分がどうしたいのか、誰かにアドバイスしてもらわなくても、わかるんじゃないの?」

「――俺の、本音?」

 って、なんだろう?

「いい機会だからじっくり考えてみなよ」

 じっくり、かあ……。

「登校日に顔を合わせるまで一週間はあるんだから、それまでにちゃんと、自分の気持ち、自覚してた方がいいって。――でないと」

 意味深長に、託生が言葉を切る。

 その間が妙に不安を煽って、

「……でないと?」

 急に心細くなる。

 訊き返した利久へ、

「今度、岩下くんに距離を置かれたら、次は絶対にないからな」

 託生が断言した。「キスしたいのかはともかくとして、好きなら好きって潔く認めないと、また後悔することになるよ、利久」

 ――後悔。

 ああ、そうか。

 そうだった。

 でも――。

「でも、い、岩下には中前が……」

 自分のふがいなさのせいで岩下に距離を置かれた。そのきっかけとなった、中前海士。ぼんの数カ月前、正々堂々と岩下に告白した、弓道部の後輩。

 彼は、臆することなくまっすぐに、岩下へ好意をぶつけてきた。

『今度のインハイ、レギュラーメンバーに選ばれたら、つっ、つきあってくれませんかっ』

 弓道部の期待のルーキーである中前は、二年生に進級してすぐのゴールデンウイーク明けに行われた校内選考会で好成績を残し、団体戦はレギュラーでも補欠でもなかったのだが、個人戦への参加が決まった。

 個人戦に選ばれる。それがレギュラーに選ばれたと呼んで良いものかはわからないが、弓道部でのランクとしては、つまりは六人目のレギュラーということになる。

 あの時、中前の告白を政史は承諾しなかった。承諾はしなかったけれども、選ばれたならつきあってもいい、とも、選ばれたとしてもつきあう気はない、とも、明言しなかったのだ。

 だから、必ずしもふたりが現在つきあっているとは限らないであろうが、個人戦でもレギュラーはレギュラーと、もし、そう中前が判断していたとしたならば、政史に対してなにも行動を起こしていないとは、考えられなかった。

 中前は、困惑してばかりの利久とは違うのだ。

 岩下との関係を、前へ、深く、進めたいのだと、それを希望している自分を自覚し、しかも相手へちゃんと伝える男気も持ち合わせているのだ。

「よしんばふたりがつきあっていたとしても、中前くんから岩下くんを奪うくらいの気構えが必要なの、利久には!」

 きっぱりと、託生が言う

「……それ、横恋慕しろってこと?」

 いくら岩下の存在が気になっているとしても、そんな狡そうなこと、とても自分にはできそうにない。

「ちーがーう」

 託生は強くきっちりと否定して、「そもそも、ふたりが本当につきあってるのか確かめてないんだろ? ちゃんと確かめてあげなよ。それだけでも、きっと岩下くん、喜ぶよ」

 確かめることが?

「なんで? そんなことで、どうして岩下が喜ぶんだ?」

 プライバシーの侵害だと、却って不興を買うんじゃないのか?

「利久にわからなくても、とにかくそうなの! やってみればわかるから、とにかくまずはそこからだよ」

 強気な託生に気圧される。

「――うん」

 確かにそうだ。まずは、そこからだ。

 ……でも、

「でも、つきあってるって言われたら、俺、かなりショックかも……」

「そこでショックを受けるということは、どういうことなのかな利久くん?」

 え……?

 どう……って、それは――。

「素直で正直なのが利久の取り柄なんだから、それを生かせよな」

 そうかもしれない。

 ああでも、託生……。

「どうしても訊かなきゃダメ?」

「駄目」

 すごく不安だ。

「どうしても?」

 ものすごく、怖い。

「どうしても!」

 託生が力強く、断言する。

 ――まずは、そこから。

 まずは、そこから。

「――わかった」

「明日、また電話するから。それまでに、ノルマね」

「ええーっ!?」

 って、今日中にどうしろと!?

 いくらなんでも、それは無茶だ!

「あのさあ、逃げてばかりいたら、結局なにも始まらないんだよ、利久」

「そうは言うけどさ、たくみぃ」

 わかってはいるが、とはいえ今の今で、そんなに簡単に、覚悟なんか決まらない。

 へたれ度でいったら、自分の右に出る者はいないかもしれないくらい、ひどいへたれキャラなのだから。

「とにかく! お互い、頑張ろう! 

 親友が、励ましてくれる。「ずっと同じ場所にいるわけにはいかないんだからさ!」

「え……、あ、うん」

 いつも心配ばかりさせられていた危なっかしい親友が、今は利久を心配している。

「ぼくはさ利久、親友として、利久のこと、応援してるんだから」

 利久を力づけようと、してくれる。

「……託生」

「踏み出してみて、でも違っていたなら戻って来ればいい。でも、踏み出す前にあれこれ勝手に迷って、踏み出すことから逃げ続けるのは良くないと思う」

「……うん」

「岩下くんのことが大切なら、勇気だって持たなくちゃ」

 ――勇気。

 自分に欠けてる、大きなもの。

 身につけたいと頑張ってはいる。けれどまだ身につけられずにいる、大事なもの。

「わかった、託生」

「……言い過ぎてたら、ごめんね、利久」

「そんなことないよ」

 そんなことない。「俺、自分でおっかながってるのは、わかってるんだ。岩下が中前とつきあってるってわかってもおっかないし、誰ともつきあってないって言われても、おっかないんだ、きっと」

 矛盾しているのも、わかってる。「俺のこと、たいして好きじゃないって言われても傷つくし、俺のこと、その、恋愛感情として好きって言われたら、もっとおっかないしさ」

 矛盾だらけで、だから、ずっと、途方に暮れてた。

 どうにも、なにも、整理がつかないでいたのだ。

「想像しただけで、どうしていいかわかんなくなる。でも、だからって、岩下の本音が知りたくないのかと訊かれたら、そんなことないんだよ。やっぱ俺、岩下が本当は俺のこと、どう思ってるのか知りたいもん」

 今も、チョコレートを渡したいくらい好きなのか、それとももう、ただの友人になってしまったのか。

 未だに整理はつかないけれど、

「すっげ、おっかないけど、知りたいんだ。――それが、俺の本音、かな」

「……そうか」

「託生も今、大変なんだろう?」

 数日後には、人前でバイオリンを弾かなくちゃならないのに。あの井上佐智が主催する演奏会で。

「――あ、うん」

「なのに俺のことまで、あれこれ心配してくれてありがとうな」

 きっと、ものすごいプレッシャー、かかってるよな。横断歩道で偶然出会った時の政史のように、押し潰されそうな心持ちで、実は、いるのかもしれない。

 ただ、託生にはギイが付いてる。

 託生にとって最も頼りになる、存在が。

 だから自分は託生のそばへと駆けつけるようなことはしないけど、――政史の時のように、俺で良ければつきあおうか? なんて、申し出たりはしないけど、

「それは、別に」

 曖昧な口調で応えた託生へ、

「頑張ってみるよ、俺」

 きっぱりと、利久が告げる。

「うん」

「託生も頑張れよ」

 応援してる。

「……うん」

 そうだ。

「明日は俺から電話するから!」

 頑張れ、託生。頑張れ、自分。

「うわ、頼もしいなあ」

「じゃ、また明日な」

 勇んで電話を切ろうとした時、

「うん、あ、じゃなくて利久、こっちの電話番号知らないじゃないか」

 慌てて託生に止められた。

「――あ」

 爆笑。

「せっかくカッコ良く決めたのにー」

 ぼやく利久に、遠慮なく託生が笑う。

 でも、笑われてもなんだか平気。むしろ、気持ちがちょびっと、楽になった。

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【11月刊試し読み】タクミくんシリーズ完全版9 角川ルビー文庫 @rubybunko

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