縁(ノスタルジー)

今南寛治

第1話


「お元気ですか」

後ろから声を掛けられた。

代々木上原駅の階段を下り、右手の階段を上がると書店が見える。

こじんまりした書店と言う印象からは想像もつかないくらい、書棚には読書好きの書物が所狭しに並んでいる。新刊本から放たれるインクや紙が混じり合う微かな匂い、匂いの記憶に導かれながら書物の質感に触れ寸暇を愉しむ。

この主とは長い付き合いだ、開店してから何年経っているんだろう。引っ越したことを言いそびれ、まだこの地に住んでいると思っている。

正直ずっとうそを突き通したい、引っ越したからと言って主の態度が一変するわけでもないのに。でも此処に住んでいる人間だ、と思っていて欲しい。とても幼稚で子供じみたことだが、転居した事を言ってしまうと「縁」が切れてしまう、そんな気持ちが何処かにあるのだ。

主は書物のことならなんでも快く引き受けてくれた。書店には規模の大きさと言うことから、日販・東販など相手にしてくれない、でも主は読者の痒いところをきちんとフォローしてくれる有り難い書店なのだ。

かつて上梓したときも、狭い中で平積みしてくれた。近くには大手の書店があるが一度も買ったことはない、ベストセラーと雑誌そして漫画がメインの書店には興味がない。店名の通り、幸せを呼ぶのかこの小さな書店には、人のぬくもりがほどよい加減で肌身を包んでくれる。

 

この街にはもうひとつ馴染みの店があった、ジャズバー「T」だ。書店より東側へくねくねした路地を上がっていくと、白い煉瓦の壁にドアには四枚ほどガラスが埋め込んであり、仄かな明かりが見える。

このTにはクランクな客が多い、いわゆる奇人だ。コピーライター、編集者、胡散臭いテレビプロダクションスタッフ、学者崩れ、そして与太者と、そんな連中が三々五々このTにやってくる。もしかすれば、当方が行かないときは「まとも」なお勤め人が忘憂しているのかも知れない。

このバーの自慢は「混まない」ことが有名だ、外から窓越しに覗くと主のS氏はシンク傍に置いてあるテレビに目をやり、いつ来るか分からない客を待っている。ダジャレを飛ばすも外す事多し、でもめげずに客をいじり回す。

気が付けばどっちが客か分からないくらい酒を呑んでしまう。生ビールのコックを何度も下げ、舌も回らないほど泥酔していた時もあった。きっと呑まなきゃいられない日々も……そんなことも知らずに馬鹿なことばかり喋っていた。


突然、「店閉じます」、とS氏言われたとき返答に窮し言葉に詰まってしまった。いつ店を閉めるか、悩んでいたと告白してくれた。それを知っていたら足繁く通ったのに、と。冗談じゃない、いつも来たって二千円程度の酒しか呑まないのにでかいこと言うな、って怒られるかもしれない。

そして、Tは消えてしまった。

 

月日が大分過ぎた頃、知り合いからもらったという携帯でS氏よりメールが届く、T時代と同じように含羞からか馬鹿馬鹿しい内容ばかり、それは何を隠そうS氏のスタイルだった。

時折、生きている証のメールが届く、内容は分からない、意味不明だ。その意味不明の中でこちらも返す、それも意味不明である。そんなことを何回か続けていて、突然途絶えた。

幾度もメールを打つ。電話もした、でも応答はない。

いろんなことが過ぎる、心配するほどの余裕など何もない自分、あの笑えない様なブラックはたまたレッドジョークが忽然と消えてしまった。

そうか……そんなことやっていられないよな、きっと。


Tの店に通って十二年、オープン当時からここが唯一の場所だった。客としては一杯のスコッチをちびりちびりと呑む、下等でたちの悪い客だった。それでも罵声も浴びず、こちらの愚痴に耳を傾けてくれた。そんなことから深夜になることもしばしば、Tで知った数人のお客さん、名前は知らずとも軽く会釈するだけで与太話に花が咲いた。Tでグラスを傾けた連中は口を揃えて同じことを言うだろう、Tのような店はどこの街にもないと。厭なこと、嬉しいこと、何かにつけてTは私のメンタルクリニックバーだった、狂った頭はどこで治療すれば良いのだろう。もう一度行こうと思い、結局行けなかった。 

S氏のどこで仕入れたのか分からないまがい物の作り話、好事家たちのたまり場にとっては最高の場所だった。

店を閉めてから何度も前を通り過ぎ、何故か足が向いてしまう。四半世紀住み慣れた代々木上原からUに転居し、どこか歯車がずれたような生活、縁が少しずつ消えていく感じだ。


それからどれくらいのカレンダーを捲ったか忘れてしまったが、缶ビールの空き箱を裏返しにした宅急便が届いた。送り主はS氏からだった、中に入っていたのはCDとDVDが箱一杯に。開けると空き箱の紙をメモ用紙にして「謹呈」と書いてあった、S氏らしい送り方である。言葉にならないほど、嬉しかった、いまこうして書いているときも感情が揺さぶられる。その中にJRモンテローズの”ザ・メッセージ”が一番上にあったのだ。そのアルバムの「コートにすみれを」が気に入っていた曲、私が鬱ぎ込んでTに入るとなぜかS氏はレコードを回す、たった一度だけ「この曲聴くと、なぜか元気が出て来る」と、呟いたことをS氏は覚えていたのだった。その曲を一番上に載せ送ってきた、それもレコードでなくCDで、金も無いのにどこで工面したか分からないがあの時の感激は忘れることは出来ない、瞳が色褪せるほどに。

まさしくS氏からのザ・メッセージだった。

陋屋から僅か3キロ程度、とても近いのに遠い街になってしまった。








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