第5話 御手洗祭(2)

 紫が向ける視線から、不審人物と思われていることに、男もさすがに気付いたらしい。

「ごめんごめん、いきなり変な質問だったね」

 慌てた調子で謝罪の言葉を口にすると、男は背中のワンショルダーバッグを下ろし、中から名刺入れを取り出した。彼の見た目の年齢にしては落ち着いた色とデザインだが、どちらも高級ブランド品だと一目で分かる。

「どうぞ。名乗るのが遅れてごめんね」

 躊躇なく差し出された名刺には、『薫永堂副社長 源川滉』とあった。滉は「あきら」と読むらしい。

「薫永堂って、もしかしてお香の?」

「あれ、知ってるの?嬉しいなぁ」

 男は言葉通り、本当に嬉しそうに破顔した。

 薫永堂は老舗のお香屋だ。京都市内のどのデパートでも、商品を扱っていたように思う。この若さで副社長と言うからには、恐らく跡取り息子なのだろう。男の持つ品の良さや屈託の無さが、それを物語っているような気がした。

「君くらいの年頃だと、お香よりもアロマじゃないの?」

「祖母や母がお香好き…なので」

 こういう時、間違っても「だったので」と過去形にしてはいけない。十中八九「どういうこと?」「お二人とも亡くなったの?」と畳み掛けるように聞かれた挙句、憐れむような目で見つめられ、なんとも気詰まりな雰囲気になるからだ。

 ただ、この男は根っから鷹揚な性質に見えるから、ひょっとしたら、他の人とは違う反応を見せるかもしれない。

「実は近々、源氏物語に因んだお香セットを発売する予定なんだ」

 男は上機嫌で、発売予定の商品について詳しく説明し始めた。誰もが使い易いスティック状で数種の香を作り、それぞれ源氏物語に登場する姫君たちの名前をつけ、セットにして売り出す予定だそうだ。

「源氏に登場する姫君はたくさんいるからね。

 その中から誰を選ぶか決める為に、色んな世代の人に好みを聞かせて貰ってるんだよ」

 青空を背景に笑う彼に、下心めいたものは全く感じられず、紫は少しだけ警戒を解くことにした。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「いただきます…」

「うん、どうぞ」

 下鴨神社に程近いカフェで、紫はテーブルを挟んで、源川滉と向かい合って座っていた。テーブルの上には、黄金色のトーストとアイスコーヒーが二人分。

 この店は本格的な自家焙煎珈琲を飲ませる店として有名で、勿論元地元民である紫も以前から知っているが、いつ覗いても客で賑わっているから、珈琲豆を買って帰るだけで、実際に店内で飲食するのは今日が初めてだった。開店と同時に入店したせいか、今は他に客の姿は無い。

「俺は時々、仕事に行く前にモーニーングを食べに来るんだ」

「二条城からですか?」

「車だと大して掛からないよ」

 紫は「そうですか…」とおざなりな返事をすると、先程から釘付けになっていたトーストに、いよいよ齧りついた。たっぷりとバターを塗った厚切りの食パンには、蜂蜜がとろりとかかっている。

「美味しい…」

「だろう?」

 特に変わった調理法をしているとは思えないが、滉お薦めのハニートーストは、思わず溜め息が出る程美味しかった。




「この近くに美味しいトーストを食べさせてくれるカフェがあるんだけど、一緒にどう?」

「…………」

「ご馳走するから、さっきの姫君の話の続きを聞かせてくれないかな?」

 御手洗池で滉にそう言われた時、ちょっとだけ悩んだ後、思い切って紫はこの誘いを受けることにした。一番の理由は、「歩いて来た」と嘘をついた手前、駐輪場に向かう訳には行かなかったからだ。

 自転車で来たと言う滉も、恐らくは同じ場所に向かう筈だ。となると、彼に嘘がばれないようにする為には、無為に界隈を徘徊し、しばらくして再度神社に戻ってくるしかないと考えていたのだが、誘いに乗って、彼に店まで自転車を押して行くように勧めれば、食後にカフェの前で別れることになるだろうから、紫は難なく自転車を取りに行ける。

 尤も、滉が身元を明かしてくれたことも大きかった。薫永堂は、紫にとって思い出深い場所だ。祖母や母に連れられて、小さい頃から、三条寺町の本店にはよく行った。高校生の時に通っていた予備校が店の近くだったので、病床に伏した祖母に頼まれて、一人で足を運んだこともある。

 亡くなった祖母や母とは、度々源氏物語について話をした。源氏物語は、国文科出身で古文の教師だった母の、卒論のテーマだったらしい。当時中学生だった紫に、男女の愛憎が描かれた古典は、とっつき難く感じられたものだ。しかし祖母も交えた親子孫、女三人の会話は、一人前と認められたような気分になり、とても楽しいものだった。

 その後母が、そして祖母が立て続けに鬼籍に入り、紫は一人になった。思いがけず二人の思い出に繋がる人と出会い、いつもは自分にも他人にも甘えることを律している紫も、感傷的になってしまったのかもしれない。

 また、早朝という時間帯も、紫の心の緊張を解く一因になったとは思う。もしも辺りが闇に包まれるような時間だったら、間違いなく誘いは断っている。

「分かりました。お付き合いします」

「嬉しいなぁ、ありがとう」

「でも、その前に一つ確認させて下さい」

 カフェに向かう前に、紫は一つだけ滉に質問した。結婚していないのか、もしくは恋人はいないのかという事だ。

「気になる?」

「はい。揉め事に巻き込まれるのは嫌ですから」

「カフェでお茶するだけだよ?」

「それでも、奥さんや恋人はいい気はしないと思います」

 真剣な表情で答える紫に、滉は「真面目なんだねぇ」と感心する素振りを見せ、それから「どちらもいないから安心して」と笑った。





 紫が綺麗にトーストを食べ終わるのを見届けると、滉は待ってましたとばかりに話を再開した。

「まず、名前を聞いてもいい?」

「野一色ゆかりと言います」

「ゆかりちゃんか…どんな字を書くの?」

「……紫むらさきです」

 言い淀みながらも正直に本名を教えると、予想通り、滉は「へえ…」と目を瞠った。

「ひょっとして紫式部に因んで?」

「いいえ、そうではないと聞いています」

 なにしろ最初に出会った場所が紫式部縁の寺だ。そう思われても仕方が無いだろう。

「母が源氏物語が好きで…私の名前は紫の上から取ったようです」

「そうなんだ!じゃあ、君のお気に入りも当然」

「違います」

 滉の言葉を遮るようにして、紫は強い口調できっぱりと否定した。

「私が一番好きなのは、六条御息所です」

「えっ!?」

 予想外の名前が出てきて、目の前の男は二の句が継げない様子だった。




「六条御息所…それはまた渋いね…」

「それから朧月夜」

「はっきりした気性の姫君が好きということかな?じゃあ、紫の上は?」

「男に振り回されるだけの女は嫌いです。だから紫の上は好きやない」

 滉はおもむろに胸の前で腕を組み、「うーん…」と小さく唸り声を出し、黙り込んでしまった。彼にとっては、明らかに期待外れだったのだろう。

 なにしろ紫の上は、作者である紫式部が己の名から一文字を与えた、ヒロインと言ってもよい存在だ。幼くして源氏に引き取られた彼女は、彼の手によって理想の女性として養育され、事実上の正妻として最も深い寵愛を受けた。

 お香の名付けの為に姫君たちの中から数人を選ぶとなると、当然のことながら、紫の上の名が真っ先に挙がると予想していたに違いない。しかも紫の名は紫の上が由来な訳だから、普通ならば、思い入れがある筈だと考えるだろう。

「他の方の意見は違うんですか?」

「そうだね…。朧月夜を挙げる人は多いけど、やっぱり一番人気は紫の上かな。

 君みたいに六条の名を真っ先に挙げた人は、老いも若きも初めてだよ」

 滉はそう言うと、呆れとも感嘆とも言える溜め息を、そっと吐き出した。

 六条御息所は、彼女より八つも歳下の源氏への執着から生霊となり、彼の妻である葵の上を呪い殺した女君だ。死後は安らかになったかと思えば、想いの強さからか、すんなりと成仏はできなかったようだ。

 後年、源氏の君が紫の上と昔語りをした際、彼女の機嫌を取ろうとして、六条を引合いに出したことがある。

「彼女はとても教養高く、嗜みのある女性で、容姿も優れていた。

 けれども一緒に居ても息苦しく、安らぎを感じられる人ではなかった」

 源氏に悪気はなかっただろうが、彼の誹謗とも取れる発言を恨みに思った六条は、報復に出た。今度は死霊となって紫の上に憑りついて、一時的とはいえ、その命を奪ったのだ。

「ああいう女性、男の人は嫌いですか?」

「そうだね…。嫌いというより怖いな。嫉妬も度を越すとちょっと…」

「でも、源氏の君がもっと誠実な人やったら、六条もあんな行動には出ていません。

 だいたい最初に強引に口説いたのは、源氏です。

 ただし、奥さんたちに憑りついたのは卑怯やとは思います。

 呪い殺すんなら、源氏の君にすればよかった」

「それはそうかもしれない。

 でも浮気や不倫の場合、怒りの矛先は恋人やご主人じゃなくて、その相手に向けられるらしいからね」

 紫はグラスに手を伸ばし、氷の隙間を埋めるようにして残っていたコーヒーを啜った。

 滉が言っている事は正しいと、二十歳という若さでありながら、紫は既に知っている。



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さよなら、紫の上 石蕗馨 @nekomata628

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