第4話 御手洗祭(1)


 例年通り、今年も京都は山鉾巡行と共に梅雨が明けた。その後も猛暑という程でもなく、今のところ比較的過ごしやすい日が続いている。




 明け方までかかって、紫は京都学のレポートを仕上げた。京都を舞台にした物語に関連する場所を訪れ、話の内容と絡めつつ、感じたことを書く――という課題だったので、廬山寺と紫式部、そして源氏物語をテーマにした。少し欲張り過ぎたかなと思ったが、小さい頃から本を読むことも文章を書くことも好きだから、さして苦にはならなかった。提出さえすれば単位が貰えるという、学生にとっては有難い事この上ない課題なのだが、生来の生真面目さから、相応の時間と手間は掛けたつもりだ。

 紫が大学で専攻しているのは、文系学部ではない。母の影響からか一時は文学部を考えた事もあるけれど、生涯自分の食い扶持くらいは稼ぎたいという思いから、専門の知識なり技術なりを身に付ける為に理系に進んだ。

 早い時期から将来のことを真剣に考え、志望まで変えたのは、母が亡くなって早々に父が再婚し、これからは一人で生きていかねばならないという不安を、漠然と感じたからに他ならない。




 廬山寺は平安時代前期、北山の地に創建された天台宗の寺院で、その後船岡山の南麓に再興された時に、中国の霊山廬山に因んで廬山寺と号された。応仁の乱で焼失した後、豊臣秀吉が行った天正年間の京都改造の一環である寺町建設により、紫式部の邸宅があったとされる現在地に移った。

 紫式部邸は、元々は彼女の曽祖父藤原兼輔が建てた邸で、鴨川の西側の堤防に接していたところから『堤邸』と呼ばれ、それに因んで兼輔も『堤中納言』の名で知られた。彼は三十六歌仙の一人で、百人一首では『中納言兼輔』の名で歌が詠まれている。

 優れた学者で詩人だった父為時が兼輔から伝えられたこの邸で、紫式部は一生の大部分を過ごし、藤原宣孝との結婚生活を送り、一人娘を育て、そして源氏物語を執筆したと言われている。式部が源氏物語を書き始めたのは宣孝の死後まもなくで、評判が評判を呼び、時の権力者藤原道長の目に留まり、一条天皇に入内した娘彰子の女房となった。ちなみに娘の賢子(かたいこ)もまた優れた歌人となり、百人一首では『大弐三位』の名で詠んでいる。

 式部の結婚生活は、あまり幸せとは言えなかったようだ。夫の宣孝は彼女より二十歳も年長で、他に何人もの妻や子を持つ身であった。彼が流行病であっけなく死んでしまったので、結婚生活はたった数年で終わりを告げた。

 なんとなく合点がいくような気がした。幸せに満ちた結婚生活を送った女が書いた物語には、とても思えないからだ。

 当時式部は、他の姫君たちがそうであるように、邸に閉じ籠ってひたすら夫の来訪を待ち続けるという生活を送っていた筈だ。平安時代の結婚制度は、女にとってとても過酷なものだ。一夫多妻、通い婚、そして夜離れ。

 二十三歳で父親の赴任先に同行し、二十六にしてようやく結婚した式部は、十代前半で嫁ぐのが常識とされた世の中では、間違いなく超晩婚だっただろう。しかも相手は四十路過ぎの遠縁に当たる男で、幾人もの妻子持ちというのだから、相思相愛だったとは考えにくい。父親なりが頼み込んで、どうにか片づけたのではないかとすら思える。中流貴族の娘で、とうに盛りを過ぎた行き遅れの姫君を、果たして夫は大切に扱っただろうか。

 一方源氏は多情な男ではあるが、それぞれの姫君に対して愛情は持っていたようで、その後の生活の面倒も生涯きちんと見続けた。彼が殊の外深く寵愛したのは、彼より十歳年下の実質上の正妻である紫の上である。

 彼女は何の後ろ盾も持たない不遇の姫だった。実子に恵まれず、夫の度重なる浮気に悩まされ続けた紫の上は、現代人からすれば可哀想な女性としか思えないが、ひょっとしたら式部は、自分の境遇に照らし合わせ、せめてこうだったらいいのにという憧れの気持ちを、物語の中で具現化させたのではないだろうか。

 物語に登場する姫君たちは皆、源氏に翻弄され、人生を左右されるのだが、彼に恨み辛みをぶつける者はほとんどいなかった。生霊となって源氏の妻を呪い殺した、六条御息所くらいだ。それはきっと、式部が彼を理想の男性として描いているからなのだろう。

 式部から見れば、たとえ何人もの女の影に怯え、どんなに辛い思いをしても、源氏程の男に心底愛され、正妻として遇された紫の上は、決して不幸な女性ではないと思えたのかもしれない。なにしろ彼女は、式部が求めて止まないものを、全て手中にしていたのだから。

 平安時代の姫君たちは、基本的に外出することは無く、生涯実家の邸の中だけで暮らすのが普通だ。現代のように女子会でも開いて、友人知人から腹いっぱいにコイバナを聞ける訳でもないとなると、恋愛小説を綴る上で頼りになるのは、自身の経験と想像力だけだ。しかしいくら卓越した想像力の持ち主とはいえ、限界がある。女主人公である紫の上にあれだけの試練を与えた紫式部が、伴侶に恵まれていたとはやはりどうしても思えない。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 早起きは三文の得と言うけれど、毎年ここへ来た時だけは、紫は本心からそう思う。深い緑に囲まれた参道に入れば、体感温度も一気に下がり、徹夜明けの気怠い身体が、静謐で涼やかな気配に取り込まれたような気がした。

 大鳥居を抜け、鮮やかな朱色の楼門を潜り、右手に進む。御手洗池の入り口付近には、参拝客を整理する為、まるでテーマパークのアトラクション前のようにロープが張ってあるが、さすがにこんな早い時間には、まだ誰も並んでいなかった。

 此処下鴨神社では、毎年土用の丑の日の前後一週間ほどに、御手洗みたらし祭が行われる。五月に行われる葵祭で、斎宮代が手を浸して禊をする神聖な池に、この期間は老若男女が入り乱れて足を入れ、罪や穢れを祓って無病息災を願う。別名『足つけ神事』とも呼ばれる行事だ。

 受付でお供え料を納め、小さな白い蝋燭を受け取ると、御手洗池に架かる橋の下から水の中に入り、ゆるゆると進んで行く。地下から湧き出る水は、思わず声が出るほど冷たい。普段は至って水量の少ない池なのだが、御手洗祭が近づくと、不思議なことにこんこんと水が湧き出てくるらしい。この時池の底から浮かび上がる水泡を象った菓子が、名物みたらし団子の始まりと言われている。

 祭の時の御手洗池は思った以上に水深があり、大人でも膝上まで浸かってしまう。紫が初めてこの池に入ったのは二歳の時で、一気に胸の辺りまで浸かってしまったことに驚いて、盛大に泣き叫んでしまった。慌てた父がすぐさま抱き上げたのだと、母が生きていた頃、何度も両親から聞かされた。

 途中の小さな祠の中の種火で蝋燭に火を灯し、そのまま炎が消えないように注意しつつ、水の中を歩く。御手洗社の前に設けられた祭壇に到着したら、そこで献灯し、無病息災を願って水から上がる。

 たったそれだけの事なのだが、たとえ足だけとはいえ、暑い最中水の中に入るのはさっぱりと気持ち良く、特に子供たちにとっては魅力的な行事に違いない。実際紫も、デビューした二歳の時から、一度も欠かさず毎年訪れている。最近では遠方からの参拝者も増えているようだが、神社近隣に住む者にとっては、あくまでも地元の祭りという認識なのだ。




 池から上がり、ずらりと並べられた長椅子に腰掛けて、持参したタオルで足を拭く。あとはご神水を頂くだけだ。奥のご神水授与所では、ご神紋である双葉葵が描かれた『鴨のくぼて』と呼ばれる小振りの器に、金柄杓でたっぷりと零れんばかりに注いでもらえる。

 一休みしてからにしようと、蝋燭を手に池の中を歩く参拝者を、何とはなしに眺めた。今は早朝だから見当らないが、もう少し陽が高くなると、準備万端整えた水着姿の小さな子供が出没するのだ。

「お嬢さん」

 いきなり聞き覚えのある声が、耳に飛び込んできた。たった一度、それも僅かな時間の邂逅ではあったが、あの耳触りの良い低い声は忘れようもない。

 紫は自ずと身体を強張らせた。取り敢えず聞こえない振りをしようかと思ったが、周りにはちらほらとしか人がおらず、しかも「お嬢さん」と呼ばれる年齢に該当しそうなのは紫だけだ。これはもう、覚悟を決めるしかなかった。

「桔梗の好きなお嬢さん、無視しないで欲しいな」

「……おはようございます」

 のろのろと顔を上げると、予想通り、目の前には廬山寺で出会った男が立っていた。Tシャツにデニムパンツという至ってカジュアルな服装であるが、長身で均整のとれた体躯故か、とても様になっている。

「今日も一人なの?」

「……はい」

「本当に行きたい所には、一人で行くんだったよね?」

「そうです」

 何が楽しいのか、紫の言葉を聞いて、男は晴れやかに破顔した。

「随分早起きなんだね。こんな朝早くから参拝に来るなんて、偉いよ」

「夜は混みますから」

 日が落ちると、あちこちに飾られた数多の提灯に火が入り、境内を取り巻く木々の影が空にぼんやりと浮かび上がって、神社全体が幻想的な雰囲気に包まれる。参道の出店も商いを始め、暑さが和らぐこともあり、一気に参拝者も増えて、御手洗池の入り口前には長蛇の列が出来上がる。

「確かにここ近年は混雑するようになってきたよね。

 俺もそう思って、今日は早起きして来たんだ。

 それに早朝の神社の空気って、緊張感があって好きなんだ」

 その言葉には素直に賛成できたので、紫はこくりと頷いた。参拝者が少ないと並んで待つ必要もないし、御手洗池の水も綺麗に澄んで冷たさも一入で、良いこと尽くめだ。

「家は近いの?ひょっとして氏子さんかな?」

「祖母の家がすぐ近所なんです」

 嘘ではないが、今この時、それは全く関係無かった。祖母の家は確かに下鴨神社のすぐ側で、母は小さい頃、しばしば糺の森を遊び場にしたと言っていた。けれども昨年祖母が亡くなってからは、家には誰も住んでおらず、管理も大森小父がよく知る不動産会社に委託してある。

 紫は今朝、一人で暮らしている北山のマンションから、自転車を漕いでやって来た。しかしそんな事情を、名前も知らない男にわざわざ教えてやる必要はない。

「この辺りは緑も多いし、静かだし、住むには良い所だよね。

 俺の家は二条城近くのマンションでね、今日は自転車で来たんだ。

 君はおばあ様の家から歩いて来たの?」

「はい」

 心の中でぺろりと舌を出した。どうせ次は無い相手だ。紫の家がどこであろうと男には関係ないのだから、好きなように話しても罪にはならないだろう。

 心の中でほくそ笑んでいたら、いつのまにやら、男は紫の目の前の椅子にどっかりと腰を下ろしている。一体どういうつもりだろうかと、紫はさすがに狼狽えた。「お先に失礼します」と言ってさっさと席を立てばいいのは分かっているが、なんとなくそれもする気にならない。

 思えば廬山寺でもそうだった。初対面の娘にあれこれ話し掛けてくるような男を相手に、紫はあっさりと会話することを許してしまった。警戒心が人一倍強い普段の紫なら、考えられないことだった。

 それくらい男の美貌は、紫の目に魅力的に映った。恐らく世の中の大半の女性が、同じように感じるだろう。しかも少々軽薄ではあるものの、男には粗野であったり俗っぽかったりする部分は微塵も感じられず、するりと相手の心に入り込む人懐こさがある。ずっと年下の紫に対しても言葉使いは丁寧だし、身に着けている物は見るからに上質で、育ちの良さが感じられる。どんな仕事をしているか知らないが、この外見と人当たりの良さで、きっと随分得をしているに違いない。

「彼氏とは会ってるの?」

「今は前期試験中ですから、お互い忙しいんです」

 またしても素直に質問に答えてしまう自分が情けない。しかし男は紫の自己嫌悪なぞに気付くことなく、「ところで…」と話題を変え、更に会話を続けようとした。

「この間レポートを書く為に廬山寺に来たって言ってたけど、それはやっぱり紫式部に関連すること?」

「ええ、まぁ…」

「ということは、源氏物語は読んだことがある?」

「現代語訳と…漫画なら」

 現代語訳に関しては、五十四帖全てを読んだ訳では無いが、漫画のお陰で大まかな筋なら知っている。

「じゃあ、物語に出てくる姫君たちの中で、誰が一番好き?」

「……え?」

 見るからに大人の男な癖になんだろう、この少女趣味な質問は。質問の意図がさっぱり分からず、紫はつい、男の顔を胡乱な目つきで見つめてしまった。





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