第3話 桔梗の咲く寺(2)


「騒がしくしてしまって、ごめんね」

「……はい?」

 いきなり声を掛けられ、女のワンピースの丈についてあれこれ妄想に耽っていた紫は、慌てて振り返った。良く通る低い声は謝罪の言葉を口にしてはいるものの、実際本人に悪びれた様子は微塵も無く、「聞いてたんでしょ?」と紫に無邪気に笑い掛ける。

「すみません」

「全然構わないよ。あんなにキーキー喚いてたら、気にならない方がおかしい」

 胸の前で組んでいた腕を解くと、男は「うーん」と声を出し、空へ向かって思い切り伸びをした。

「彼女さん…ひょっとして、奥様ですか?追い掛けなくていいんですか?」

 女の方はともかくとして、男の落ち着いた雰囲気からすれば既婚者であってもおかしくないと思い、一応そう言ってみる。

「いいんだよ、放っておいて。むしろ帰ってくれてちょうどよかった。

 そろそろ相手をするのにげっそりしてたんだ。だいたい奥さんでも彼女でもないしね」

 男は軽く肩を回すと、改めて紫に向かい合った。やっぱり見惚れてしまうくらい綺麗な顔だ。今の今まで自分は面食いではないと思っていたが、そうではないと今知った。柄にも無くドキドキしてしまう。

「どうしても京都の寺に行ってみたいって言うから連れてきてあげたのに、ずっと喋ってばっかりで、何も見ようとしないんだよ」

「はぁ…。でもここは桔梗の花以外、あんまり見るものも無いですし…」

「そうそう。だから連れて来たんだ」

 男は笑い皴を作って、楽しそうにくすくすと笑った。何故ここで笑うのか、さっぱり分からない。返答に困ってしまった紫は、口を噤むしかなかった。彼の言葉を単純に捉えれば、要するに、わざわざ退屈しそうな所を選んで連れて来たという事になる。

「それにしても、君みたいに若くて綺麗なお嬢さんが、こんな所で何してるの?

 君こそ、たった一人で桔梗見物?」

「……桔梗、好きなんです。

 それに、大学の課題の為でもあるんです」

 まさか見も知らぬ男に、母と祖母を偲ぶために来ましたとは言えない。とはいえ大学の課題の為というのも、嘘ではなかった。一般教養の京都学という科目の課題で、物語に関連する場所を訪れ、話の内容と絡めつつ、感じたことをレポートにまとめろと言われている。前期試験の代わりらしい。

「だからって一人で寺参り?

 彼氏いるんでしょう?付き合ってもらえばいいのに」

「……彼は今、バイト中です」

 相手は初対面の赤の他人だ。馬鹿正直に答える必要なんて無いと思ったが、こういう時は早々に彼がいることを仄めかした方が面倒が無くて良いと、咄嗟に判断する。

「こんな平日の真昼間にバイト?……ああ、ひょっとして巡行の?」

「はい」

 甚く察しの良い男に、紫は肯った。今頃夕貴はナントカいう山を担いで、御池通をよたよたと歩いている筈だ。

 毎年京都市内の各大学では、学生課を通じて巡行の担ぎ手や曳き手を募集する。せっかく京都にいるのだから祇園祭に参加してみたいと、夕貴は嬉々として申し込んだらしい。

「だったら、尚更桔梗なんて眺めてる場合じゃないでしょう。彼の晴れ姿を見てあげなくていいの?」

「昨日、宵山に一緒に行きましたから」

「…………」

「連日会う事もないかなあって…」

 男はぱちぱちと目を瞬かせると、おもむろに顔を歪ませた。これは笑いを堪えている顔だと気付き、紫が眉間に皺を寄せると、男は慌てて「ごめん」と謝った。

「ところでさ、さっきのお姉さんね、喋ってばっかりだった癖に、またどこかの寺に連れて行けって言うんだよ」

 これ以上笑うのは拙いと思ったのか、男は無理やり話題を変えてきた。

「今日の様子を見る限り、とても寺や神社に興味があるとは思えなかったから、適当に聞き流してたら、すごく怒っちゃってね。

 彼女は河原町か木屋町の辺りをウロウロしてる方が、似合ってると思うんだけどなぁ」

「せっかくの京都旅行ですし、やっぱりお寺巡りをしたいんやないんですか?」

「俺も彼女も、京都市民だけど」

 紫は思わず「えっ!?」と驚きの声を上げてしまった。男は悪戯が成功した子どものような顔をしている。

「お二人とも遠方から来はったんじゃないんですか?」

 イントネーションや言葉遣いから、てっきり二人とも関東方面から来た旅行者だとばかり思っていた。

「いいや、俺は生まれも育ちも京都だよ」

「でも言葉が…」

「大学が東京だったからね。そのまま就職して、去年の春、十二年振りに京都に戻ってきたんだ」

 君も京都だよねと当然のように言われ、紫はこっくりと頷いた。なんとなく通じ合うものを感じたのだろう。

 一括りに関西と言っても、例えば大阪と京都では、使う言葉やアクセントが微妙に違う。しかし、この男が使う見事な標準語は、一体どういうことだろう。Uターンして一年以上が経つというのなら、もう少し元に戻っていてもよいだろうに。

 言葉に関して言えば、関西で生まれ育った者が東京に出て行くと、概ね二つに分かれるらしい。いつまで経っても頑なに関西弁を押し通す者と、東京に足を踏み入れた瞬間、積極的に標準語を使おうとする者にだ。後者は自分の育った土地のことがあまり好きでなかったり、東京への憧れが強い故の行動で、あっという間にエセ東京人になるのだと、以前大森小父が面白おかしく話してくれた。

 話の信憑性については疑問の残るところだが、男が使う嫌味なくらい綺麗な標準語を聞いていると、何が彼をそうさせているのかと、あれこれ想像してしまいそうになる。

「彼女の出身はどこだか忘れちゃったけど、少なくとも三四年は京都に住んでる筈だ」

「だったら、右も左も分からないってことはないんですよね」

「だと思うよ。だいたい俺も自信を持って案内できる程、寺や神社に明るい訳じゃない。

 でも地元の人間なんて、そんなものだと思わない?」

「はい」

 素直に同感できたから、間髪入れず肯定の返事をしてしまった紫に、男は満足そうに頬を緩めた。

 もっと年を取ったら変わってくるのかもしれないが、初詣や夏祭りを別にすれば、紫のような若者が寺や神社に足を運ぶことは滅多に無い。実際京都居住歴二十年の癖に清水寺は未踏の地だし、金閣寺は小学校の遠足で行ったきりだ。




「ほんまにお寺に行きたいんなら、一人で行かはったらええのに…」

「…………」

「外国に来てる訳じゃないんやし、スマホさえあれば、大概の所は案内無しで行けると思いますけど」

 またしても男は表情を崩した。不自然に鼻を膨らませた顔を紫がじっと見つめていると、ひくひくと口元が震えだし、男は慌ててそれを手で覆う。

「わたし、何かおかしなこと言いましたか?」

「い…いや…。ひょっとして君が、今ここで一人で桔梗を眺めてるのは、それが理由?」

「自分が行きたいと思う所には、極力一人で行くことにしています。

 誰かと行くとなると、その人の都合とか好みとかに合せなあきませんし…」

 特に美術館や博物館のような所には、自分のペースでゆっくりと見て回りたいから、紫は必ず一人で出向く。相手を気遣うことにエネルギーを傾けていたら、結局何をする為に行ったのか分からなくなるからだ。 反対に「一緒に行ってくれへん?」と同行を求められた時には、自分自身が楽しむのは二の次にして、友人との会話に専念する。そういうことを時間の無駄だと考えていた時期もあったが、それでは女子社会で生きてはいけない。何故なら紫のような考え方は珍しく、独りではどこにも行けない、行きたくない女子の方が圧倒的に多いからだ。それは六年間の女子校生活で、嫌と言う程味わった。

「お姉さん、本当はお寺に行きたいんじゃなくって、単にあなたと一緒に出掛けたかっただけなんじゃないんですか?」

「うーん、ちょっと違うな。

 彼女は俺とどこかにじゃなくて、俺と寺に行きたかったんだ。

 俺みたいな年上の男と、はんなり京都デートを楽しんでみたかったんだろうね」

 思わず紫は、まじまじと男を見つめてしまった。そこまで分かっていて、なんでこんな地味な寺に連れてきたのだろう。それこそ清水寺のような、土産物屋や飲食店が軒を連ね、大勢の観光客で賑わっているような寺なら、彼女だって退屈する事無く、もっと楽しめただろうに。

 そこまで考えて、紫ははたと気が付いた。この男は、囲みアイメイクの女に対し、全くと言っていいくらい好意を持っていないのではないか。だとすれば、この寺へ連れて来たのは、恐らく嫌がらせのようなものだ。

(性質が悪い…)

 そんなことをする位なら、最初からデートなんてしなければいいのに。

「眉間に皴」

「えっ?」

「きみ、意外と考えてる事が顔に出るタイプだね」

「…………」

「一見、クールに見えるのに」

 カチンときて、今度は意識して思い切り眉根を寄せてやった。そろそろ潮時だ、いつまでもこんな不毛な会話を続けていないで、さっさと帰ろう――そう思った時。

「特に用事は無いけど、彼氏と会いたいと思った時、君だったらどうする?

 今話題の映画を見たいからとか、何かしら理由をこじつけたりはしないの?」

 引き留めようとするかのように、男は絶妙なタイミングで問いを投げかけてきた。そして口元を綻ばせたまま、興味津々といった態で紫の返事を待っている。

 見も知らぬ男と、なんでこんな所でこんな話をしているのだろうと憤りつつも、紫は試されているのだと悟った。全く以て不愉快ではあったが、あの頭の足ら無さそうな女と同列にはされたくない。

「別にこじつけたりしません。会いたいから会ってって言います」

「へぇ…」

「でも、せっかく連れて行ってくれた場所なら、ちゃんと楽しむ努力をします。

 例えばこれといって見どころの無いお寺で、季節の花を愛でるだけだとしても」

 紫の返答は予想外のものだったようだ。男は面食らったのか、しばしぽかんとしたかと思うと、次の瞬間弾かれたように笑い出した。賭けに勝ったような負けたような、なんとも気持ちがすっきりしなくて、紫はやっぱり眉を顰めねばならなかった。

「君みたいな子が彼女だったら、楽しいだろうなぁ」

「……それはどうも」

 絶対嘘だと紫は思った。


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